今の自分にふさわしいライフスタイルを見つける“冒険”

年齢やライフスタイル、心境etcの変化に伴って、ふさわしい食事・運動・睡眠・勉強・住環境etcも変わってきますよね。

しかも、ヒーリングを通じてクリアリングが進むとか遺伝子などの活性化といった大きな変化を経ると、心身エネルギーともに“進化”して、世間一般の常識が通用しないようになってきたりもします。
(ほとんど食べ物を食べなくても健康に生きていられる、など)

私自身、(シータヒーリングの創始者ヴァイアナ・スタイバルいわく『進化』しつつあるのか)体質などが大幅に変化してしまい、世間の常識で「良い」とされるとおりに行動・生活しても、期待されるとおりの結果に結びつかず困惑していました。

特に、食事や睡眠、運動とその量・質、それらがどう肉体に影響するかの因果関係といったものが、世間一般で言われるものとぜんぜん違うものになってきたりして、正直、困惑しました。

「だいたいこうしておけば、まぁ大きな間違いはない」

という成果を得られるのが「いわゆる一般原則」に沿うメリットだと思うのですが、それが全然通用しなくなってしまうのです。

そのため、これまでの自分が仕入れてきた知識や、(世間一般の価値観に沿った)友人からの意見・忠告、本などに「これがベスト」と書いてある事柄などをあえて全部、無視して、手探りで「今の自分にとってベストなライフスタイル」を模索しました。

そりゃあもう、実際に行動してみて自分がどう感じるか、肉体がどう反応するかという実験から、チャネリングなどなど、使えるツールは全部使って。

そして、「これが今の自分にとって、良いみたいだ」という感触を得られた行動様式は、それがいかに世間一般の常識から外れたものであっても、素直に受け入れて採用することにしました。

そしてその「世間一般からみれば変わったリズムなり行動内容なりで生活する自分」を、保守的な人たちから非難されずに済むような行動パターン、人付き合いの仕方などを工夫しました。
(付き合いを続けることがお互いにとってもはやデメリットしかもたらさないと判断せざるを得ない知人・友人とは、なにもあえて絶交宣言をしたりはしませんでしたが、自分のなかでは『もうおそらくよほど何かがない限りお付き合いすることもない、する必要も必然性もない』という位置づけにして、自然に距離を置くようになっていきました)

そうやって、「今の自分がハマるにふさわしい生活の『型』」を地道に探して、その型に沿った生き方ができるよう生活をシフトさせる……ということを、我ながら丁寧に丁寧に、やっていきました。

これねー、意外と勇気がいるんだわ。

「普通、こういうことはしないものなのに、しちゃうなんて、頭おかしいと思われないかな?他の人から」

とか、

「誰でもこれはこうするものだってのが世間でいう常識なのに、俺はそれをしないんだ?もし人前でみんながそれをする場面に遭遇したらどうしよう?ひんしゅくを買ってでも、断る?うーん、気が重い……。ま、そういう場面に遭遇しない、ってマニフェストすればいいんかなぁ?」

とか。

かなりね、「どれだけ自分を信じているか(=世間の常識・良識・集合意識由来の制限や怖れetcよりも自分の感性・信念・意思決定を優先できるか)」が問われるわけですわ。

しかも、あんまり急速に進化だか変化だかが進むと、ある時点での『型』を模索して、ようやくそれが見えかけている最中から、もうその型が通用しない自分に変化していっちゃう、みたいな。

ちょうど、成長期の子供の洋服を買うみたいな、買ったそばからもうサイズが合わなくなってまた新しい服を買わなきゃいけなくなる、あの嬉しいけれど困った状態にとても似てるかも。

さらに、あんまりその対応にせわしなく追われると、そのうち

「うるせえ!四の五の言ってねぇで、黙って世間一般の“普通”のとおりにしやがれ!!」

と、自分の心身魂の声を無視して(≒自分自身を虐待して)、投げ出したくなるor自分に合わない型に自分自身を押し込めて一件落着ということにしてしまおうとする気持ちが湧いてくるんですね。

そのとき、どうするか。
とことん自分を愛して、あきらめもせず自暴自棄にもならずに、あくまでも自分の本音と向き合って、できうる限りのベストを延々と尽くし続けられるか。
(自分自身ほど、他人の目を気にせず投げやりに接する事ができる存在も珍しいんですよねw)

それは(少なくとも私自身の実感値でいえば)驚くほど大きなチャレンジでした。

自分を軽んじて適当にあしらって、粗雑にするほうが、なんぼラクかわかりません。

「もう、いい加減にしろ!!」

と、自分のなかの進化しつつある部分を首絞めていっそ殺して「(世間一般から見た)フツーに生きたい」衝動に何度、駆られたことか。

(あと、どんどん変化していく最中というのは、それまでの安定した生活パターンなり人付き合いなりが一時的に“崩れた”ように認識されうるので、『自分はもしかして、ものすごくおかしな方向に1人、彷徨って行きつつあるのではないか?人間としてあるまじきものになっていってしまうのか?そんな化け物かもしれない生き物になってしまって、思考から感覚から生理現象から、世の中の『普通』とあんまり離れてしまって、誰にも理解され得ない孤独なはぐれ者になってしまったらどうしよう?』という不安・恐怖がふと沸き起こることさえあります)

しかも、自分の取り組んでいることが、基本的には他人には理解できないことなのもネックでした。
ちゃんと自分がしようとしていることを理解したうえで
「頑張ってね」
と応援してくれる人がいないわけです。自分がしようとしていることをちゃんと理解してない人から応援されても、それはそれで虚しかったりして。
(これ、捉えようによっては、かなりつらいです)

この先にうまくいく保証はどこにもない道を、たった1人で歩んで行くような心細さ。

この先がうまくいくかどうかは、自分自身の意図がつくるものだ、というプレッシャー。

それはもう、冒険としか言いようがないもので。

夜、すべての行動を終えていよいよ就寝、というときになって、

「もう限界。マジで無理。助けて」

という気持ちと、

「今日も壮大な1日だった。到底、これまでの自分の感覚からみたら1日の間に起きたとは思えない大きな変化だ。こんなにこの人生での自分がものすごいことになるなんて、予想もしていなかった。我ながら、よくやってるなぁ」

と自分を褒めたたえて涙ぐみたくなる気持ち、そして翌朝起きて、

「よっしゃあ!今日も全力で自分の面倒みたるで。なんでも思ったこと言い?どんな願いでも叶えたるわ。ぜったい、世界中の誰よりも、俺はアンタ(←自分自身のこと)を幸せにしたるさかい」

と思えるバイタリティがまたちゃんと補充されていること。

そういうことのすべてが、もうなんか、

すげーーーーーーーーーーーーー!!!!!

って感じで。

まぁ、そんな感じの日々ですわ。


P.S
自分に結婚という機会がまだ訪れていないのも子供を持つに至っていないのも、そりゃ当然だわ、って感じですな。
今、恋人なり子供なりがいたとして、それらの存在をも大切にするとなったら、自分をほんのわずかでも、犠牲にしてしまうかもしれない。自分自身を虐待してしまうかもしれない。

自分が自分を虐待して犠牲にすることは、自分と接するあらゆる人にとっても良い影響をもたらさないものなので、今の自分が自分自身に注力できる境遇にあるというのも、それはそれで最高最善なのでせう。

ありがたいこってす。

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