時間の法則の使者?との和解w

貧乏大学生だった頃、ガラにもなく西洋高級陶器類にハマっていました。

半年とか1年に1回くらいの割合で、清水の舞台から飛び降りるつもりで、それこそ王道でベタなウェッジウッドとか、ロイヤルコペンハーゲンみたいなブランドの食器類を購入して、築数十年の8畳一間(しかも2人部屋)という、そうした食器を使うにはあまりに似つかわしくない男子学生寮でモソモソと食パンを焼いて皿に盛り、日東紅茶のティーバッグで入れたミルクティーをカップに注いでファンタジーな幻想に浸ったりしていました。

で。

その頃の流れで購入した置き時計があります。

これだ。
 ↓
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この時計を購入して以来、(年に1回、期末試験のときにしか授業に出席せず基本的に大学をサボりまくって寮で鬱々と『死にたい』と考えているしか能がなかった私は)非常に気まずい思いがしていました。

なんだかよくわからないけど、居心地が悪い。なにか、監視されているような……?

授業をサボってはいても、サボってしまう自分にどこか自己嫌悪していて、でもかといって前向きに授業に出る気にもなれず、学校をサボってでもやって意義があると感じられることも、これといってない。

今の年齢でしか持ち得ない若さのバイタリティ&会社員や高校生までと違って、学校をサボればなんでもできるというある意味では恵まれた境遇、、、に自分がいるとわかっているのに、それをどこにどうぶつけたらいいのかわからず体の内側で焦げ付きを起こしているような、地団駄を踏むような気持ち。

(その頃の私は、音楽と文学しか勉強する気が起きないのにそれらの専攻学部に落ちてしまい、仕方なく、滑り止めで受けた法学部に入学こそしたものの、あまりにも法律に興味が持てず、いっそ大学を中退して浪人してでも文学部もしくは音楽大学を受けなおそうかなという後ろ向きな葛藤でいっぱいだったのでしたw
しかも、やたら規則の厳しい軍隊のような寮に入ってしまい、そこそこ以上にバイトもしないと生活も在学も続けられないという状況で、独学で音楽なり文学なりを究める余裕もなく物理的にも精神的にも追いつめられて辟易していたのです)

そんな状況を、
「まあいいや、もうどうでもいい。全部あきらめるよ」
という非常に投げやりな心境になることである意味、スルーして逃げてつらさを軽減していたのですが、時計を買って以来、むしょうに「それじゃダメだ」という気持ちを駆り立てられて混乱しがちだったのです。

この時計を見ると、励まされているような心地もするのだけれど、同時にビビりもする、、、という心境で、何度も人にあげようとしたり、ハンマーで粉々に砕いてしまおうかと思うこともありました。
でも値段が値段だけに、そうする勇気も出ませんでした(ヤフオクもまだなかった頃だったし)。

で、大学3年のあるとき、時計の電池が切れました。昼にはまだ動いていたのに、夜見ると止まっていた。16時16分を指したまま動かない時計を見て、勝ち誇ったような、残念なような心地がしたものです。

電池交換をすれば済むものを、どうしてもそうする気になれませんでした。

私は安穏とゴロゴロし、すべてをあきらめている自分を肯定して、成績が悪いため奨学金も打ち切られ、単位が足りずに留年する現実も、へらへらと笑って受け止めました。

就職活動に際しても、せっかく大学名ブランドのおかげで有名企業から優遇の電話などがかかってきているのに、わざとぶっきらぼうな態度をとったり、バイトでも落ちるぞというくらいテキトーに履歴書を殴り書きして面接に行って「できれば働かずにもういっそ死にたいですね」とか言って落ちまくったりしていました。

希望する大学・学部に入れなかった時点で、自分の人生は失敗だ。いまさら何をやったって無駄。大学受験に失敗した時点で、人間はその後の人生が何十年あろうと敗残者として、受験に成功した人間たちにひれ伏して生きるべきなんだ。

そんな偏った思想を抱いて、あまんじて敗残者として無様な「生ける死骸」を晒して世間の笑い者になってやろうという、10代病とでもいうべきみみっちい偏屈さを20歳を越えても引きずって生きていました。

それからヒーリングに出会う31歳まで、私の人生は(ときおり、素晴らしい恩恵がいくつか訪れはしましたが全般的には)本当に惨めなままでした。

時計はあいかわらず止まったままで、かといって捨てることもできず、
「今日こそは電池交換をしよう」
と思い立っても、どうしても実行に移せないということの繰り返しで、ただの置き物と化していました。

ヒーラーとしてある程度、人生がうまくいきはじめてからも、この時計を再び動かす勇気は出ないまま。

あるとき、シータヒーリングの応用セミナーで受講生の方に、物と対話するという実習でこの時計とエネルギー的に交信して会話をしてもらうことにしました。

何人かの方に同時もしくは順番にこの時計と対話してもらったのですが、みんな打ち合わせをしたわけでもないのに一様に、

「この時計は、ただの時計じゃない。時間の法則からの使者。わりと厳しめ。usamimiさんが堕落しないように見張るために遣わされた、みたいなことを言っている」

ということをおっしゃいました。
(私は、このエントリーで述べたようなエピソードは一切、受講生には伏せていたのに)
(さらに私は、これまで誰にも言わなかったしこのブログでも伏せてきたのですが、自分が時間の法則とただならぬ関係にあると、子供の頃からなんとなく直観でわかっていて、そのことを非常に面倒で恐ろしいことのように感じていました)

それからさらに1年半近くが経過して、ヒーラー業を軌道に乗せるべくがむしゃらに走り続けた時期も終え、シータヒーリングもサイエンスまで取得してひと段落したというところまで来て、ようやく本格的に

「自分で自分を、自分の人生を大事にする」

という命題に取り組めるようになってきました。

そうしてある程度以上、クリアリングが進んでパラダイムも変わって、偏見に呑まれず真実を見極めるというようなことが少しはできるようになってはじめて、

「私は数十年にわたって、自分で自分を虐待し続けてきたんだ」

と、気づきました。

自分では「こんなのべつに虐待じゃないでしょ」と思っていたいくつものことが、充分に、虐待として機能していたことを認めざるをえませんでした。


たしかに、ヒーリングで自分の人生がうまく回り始めてからもずっと、どこか私には

ヒーリングのために、自分を犠牲にして他人を癒すことに尽くす

という信念&感覚があり、それは危険なことだとわかっていながら

「だからって、これまでやりたいことを何一つ叶えてこられなかった自分みたいなどうしようもない人間だもの、贅沢いえる立場じゃないでしょ。せめて歓迎されている業界なら、そこで尽くして死んで行けたら本望じゃないか」

と自虐的に受け止めてスルーしていました。

自分を大切にするメリットが、見つかりませんでした。

メリットどころか、いくらヒーラー業が軌道に乗りはじめたところで、自分の経歴や属性、外見や体質といったものを総合的に見て、自分自身を「葬り去りたい失敗作」と捉えていることに変わりはありませんでした。

陶芸作家が気に入らない器を割ってしまうのと同じく、今回の自分そして自分の生きた時間が全部、失敗に思えて、これから幸せになろうが人生がうまく行こうが、恥ずべき過去は消えない以上、それは「失敗作」に他ならないという考え方を捨てきれませんでした。

いくらクライアントに感謝されようとも、潤沢にお金が巡るようになろうとも、上記のような考え方を続けている以上、自分という人間に存在価値を見いだすのは至難の業でした。

自分には価値がないから、誰かのためになる生き方をしよう。そうすれば、(本来はどこかで、それが不毛な考え方だとわかっているのに)死がいますぐ訪れてくれない以上、生きながらえる時間を少しでも意義があると思い込めるのではないか。

そんなふうに捉えるパラダイムを、いよいよ変革しようと思うようになって。


ヒーラーが他人に良い顔をして、「善い人のように振る舞う」ほうが営業面でも有利なのはわかります。
でも、自分はもう、そういうことをする気になれませんでした。

べつにヒーリングサロンが繁盛しなくてもいいから、自分に正直に生きたい。

自分に正直に!!

考えただけで失笑しそうになります。
ほとんどの現代人が、理想的だとは思いながらも、諦めていること。

「自分に正直になったら、世間で生きてはいけない。嫌だと思うルールにもある程度以上、合わせないと」

という、遺伝でも集合意識由来でもみっちり入り込んでいる信念のイシュー。

うっかり会社などでそんなことを言ったら、(おそらく聞いたほうも、内心そうだとわかってはいるものの、『できない』と決めつけてあきらめているからこそ)大笑いされてしまう類いのテーマ。

よりによってそんな厄介かつ手強そうなテーマに、逃げずに、向き合う!

で。

昨年のアイダホから帰って来てさらに半年以上を費やして、ようやく13年ぶりに。

時計の電池を入れ替えました。

長かったなぁ。

なんだかんだいって、俺の人生は、あの学生寮で止まったままだった。
あんまりトラウマになるような出来事が続いて、心が一部分でも、死んでしまっていたのかもしれない。

まあでもようやく、仲直り。

時計の針は、動き始めた。

P.S
今回の記事は、殊更に長くて時間軸が行ったり来たりするし、矛盾するような記述や感覚的な表現も多くて読みにくい&何が言いたいのか理解しにくいのは、なんとなくわかっています。

でも、読み返してみて、内容をもっとすっきりわかりやすく校正すること自体は可能なのだとは思いますが、そのわかりやすさとひきかえに、「言いたいナマの気持ちの形」が失われてしまうような気もして、あえてこのままで公開。

なんかさ、矛盾が何一つなく論理的に整理された状態で生きてる人って、少ないと思うんだ。
それがましてや若いともなれば尚更。許してちょ♡

P.P.S
今後このブログはもっとこのテの、わけわかんないことをもっとストレートにがつがつ出して行こうかなと画策中。
もう完全に意味不明な文章になってもかまわないから。書きたいことをそのまま書いてやる。
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