読解力を鍛える

国語のテストって、学校の主要科目のなかでも満点が出にくい科目なんですよね。
センター試験でも、ほかの科目はいくらでも満点の人がいるのに、国語だけは満点ゼロという年も珍しくありません。
(それこそ東大理Ⅲのような難関学科に合格する人でも間違えるんだと思うと、ちょっと面白い?気がしますけど)

そのくらい、アタリマエのようでいて国語って、難しい側面を持っているんです。

だから、「完璧な読解力」って、持ってる人のほうが少ないんです。

でも、スピリチュアルな領域に関わるようになってより一層、感じたことなのですが、読解力の不完全さから本の内容などを読み間違えて、間違った解釈で話をして、それがさらに伝言ゲームばりに歪んで伝播して、、、という図式で、大元の発言者の意図とまったく違う話に(誰が悪気があったわけでもないのに)でっちあげられていくというのが目立つ気がするんですよね。

正確な読解力って、大事だと思います。

私はほとんど受験勉強をしなかったクチですが、ほんのわずかな受験勉強らしきもののなかで目からウロコだったのは、

国語の読解は数学である

ということでした。

どういうことかというと、推測や憶測、自分の予想、公には通用しない独自ルールといったものを適用して答えないということです。

たとえば大学入試までの学習科目としての数学では、「1+1=?」と問われたら、答えは「2」なんです。
1でも3でもないし、ましてや、「やさしい感じ」とか「無骨なニュアンス」といった感覚的表現は、解答になり得ませんよね。

国語もそれと同じなんです。

読解力の基本原則はものすごくシンプルで、

書いてあることだけを読み取る

ということです。

たとえば、

「昨日は雨が降っていた。」

という文章があった場合、そこには昨日、雨が降っていたということだけが書かれているんです。
こう言われれば「そりゃそうだろ、何いってんだ」と思われるかもしれませんが、私たちは往々にして国語のテストで、

「今日も引き続き雨が降っているだろう」
「だから今朝は道に水たまりができていた」

というような選択肢があったときに、推測や憶測、自分ならではの感覚でそれらを選んで間違えてしまいがちなんです。

“読解”という観点でみると、それら本文に書かれていない選択肢は、すべて不正解なんです。

この、ものすごくアタリマエな基本をちゃんと知らないために、

「国語は生まれつき持っているセンスで決まる。学習したところで後天的には成績が伸びにくい」

というトンチンカンな迷信がはびこるのです。
(トップレベルの進学校の生徒や、優秀な塾講師などだけがこの秘密を知って、ライバルに差をつけられないようにor自分の講座に多くの生徒がお金を払って来てくれるように、あまり公には言わず黙っているというわけですw)

自分自身、この基本原則に忠実になっただけで、国語の成績はものすごく伸びました。たったこれだけでいいのかと思うと可笑しくなる心地で、この基本原則を知らないために成績が芳しくない同級生たちを歯痒く思ったほどです。

読解の基本は、書かれていることだけを、書かれているとおりに受け取ること。

それを「どう解釈するか」はとても大事ですが、少なくとも「読解した内容」とは区別したいものですね。

P.S
受験勉強の話ついでに言うと、数学は暗記科目です。

「はぁ?どこが?なんで?」

と思われるかもしれませんが、
「このテの問題は、この公式(の組み合わせ)で解く」
というパターンが存在するんです。

大学入試の場合、それこそ東大京大レベルであっても、その組み合わせはせいぜい200以下で、そこからさらに「傾向と対策(←毎年のように、このテの問題が繰り返し出題される、など)」が絡んでくるので、その大学がよく出してくる問題とその解き方のパターンだけを暗記しておけば、(数字そのものの計算はたしかに発生しますが)基本的に問題そのものは解けてしまうんです。

1つの「解き方パターン」を習得するには問題の演習やそれをするときに内容を理解するというプロセスが発生するので、英単語を覚えるようにスイスイ大量には覚えにくいのですが、逆にいうと、内容を理解するというプロセスを経るだけに、いったん覚えると忘れにくいのです。

数学が好きで得意な人は、この、「解き方パターンさえ知っておけば、解ける」という快感を知っている人であることが多いです。
解答できる快感のほうが、パターンを覚える面倒よりも大きくなると、人は快感を得るために勉強するんです。
勉強そのものが多少、退屈だったり苦痛だったりしても、それさえやってしまえばもっと大きな快感を得られるとわかっていれば、勉強できるものなんです。
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