なぜヒーリングに興味を持ったか

1つ前に、「シータヒーリングを始めたきっかけ」について書きましたが、じゃあそもそもなんでヒーリング関連のことをネットで検索したりするようになったか、についても書いてみようと思います。

重いよー?

ほんとに読みたい方はドゾー。
 ↓
その頃の私はビジネス雑誌の編集記者として働いていたのですが、雑誌のコンセプトが「会社でスピード出世して同期に差をつけ(≒優越感を味わえる立場&権力を手にして)、高い年収を手にできれば人生バラ色」といったもので、必然的にそのカラーに合った企画・取材をしなければいけない立場にいました。

が、実際に輝いているビジネスパーソンに取材をすると、べつにスピード出世とか年収とか、気にしてないんですよね。「この仕事に打ち込むことこそ我が天命!」とばかりに一心不乱に楽しくバリバリ働いてたら偉くなっちゃった、有名になっちゃった、というケースが圧倒的多数だったんです。

しかもそれを鼻にかけているわけでも吹聴したがっているふうでもない。ごく自然に、良いほうに現実が拓けてありがたいといった素朴な受け止め方をしている方がほとんどでした。

それじゃあ困るとばかりに、うちの雑誌のテイストに合うように
「これが俺様が成功した秘訣じゃあ!どうだすげえだろう!!いえーい!!」
みたいなニュアンスを混ぜて原稿を作成しても、掲載前の原稿チェックで修正を求められるケースが大半で(そりゃそうですよね、自分の成功を自慢してる記事を載せたい一般会社員なんてまずいないものです)、企画タイトルが派手なわりには内容が堅実でイマイチ、みたいな特集にならざるを得ないことが多くて頭が痛かったものです。

一方、うちの雑誌のコンセプトどおり「今は不幸だけど、そんな俺でも会社で出世して年収1千万円を超えさえすればきっと幸せになれるはず」という考えを信条にして生きている会社員の側になると、ガツガツしてるわりには(してるからこそ?)驚くほど成果が伴っていない。

もしくは、役職や年収はどうにかして得たけれど、それだけを目指して生きてきた人というのはいざそれが手に入ったとき、幸せを感じられないケースが大半なんです。
「カネだけあったって、肩書きがちょっとは立派だからって、なんだってんだ」
と自暴自棄になったり鬱々とする人も少なくないように私の目には映りました。
実際、肩書きも年収も暮らしぶりも、物質的豊かさという点では何ら欠けたもののないように見える人が精神的苦痛が原因と思しい自殺をするケースを、目の当たりにしたり風の便りに聞くという経験もしました。

あるいは、本人は幸せで成功していると豪語しているけれども、
「愛? そんなもの東南アジアの夜の街でお金出せば買えるじゃない?何いってんの。通勤のために電車に乗っちゃうような庶民が貧乏のつらさを忘れるために信じ込む麻薬、宗教みたいなモンでしょうよ、愛情なんて」
といったあまりに刹那的な思想を本気で信じて生きて、せっかく貰っている高い給料はストレスのため毎晩のように入り浸る高い酒場やら派手なお付き合いのパーティ会場やらでピンクのシュワシュワ(←シャンパン、もっというとピンクのドンペリの比喩)と共に消えて行く、、、という有様の人も珍しくないことがわかってきました。

人の幸せって、なんだろう?

人生がうまくいく人とそうでない人の違いはどこにあるの?


単純ですが、あらためてこのテーマについて深く考えるようになっていきました。

結局、カネと名誉なのか?

人間性なんて、精神性なんて、負け犬の遠吠えなのか?

そんなものがあったところでこの時代のこの世では、なんの役にも立たない?

もしくは、お涙頂戴の映画とかドラマとか本にしてヒットしたら初めて価値が出るってこと?

成功するには法則があり、その法則どおりに動いた人がご褒美をもらえるって仕組み?

もし、その「成功法則」どおりに生きるのが嫌だ・別の生き方をしたいとなったら、成功は諦めて惨めな状態に甘んじなきゃいけないの?

そして、物質的・外面的成功(だけ)に「幸せ」を感じるように自分を洗脳していくのがよい?それだけでは心が満足しないなんて言うほうが悪い?そう感じるセンスを殺してしまうべき?

「愛情に満たされる/心の充足」なんてのは、結局のところカネと名誉を手にできない負け組がすがりつく幻想に過ぎないのか?

でも、本当に物質的にも豊かで精神的にも豊かだと感じる成功者もたくさんいる。そしてそういう人ほどギスギスしてない。でも、なぜなの?ガツガツがむしゃらに努力する人間じゃなくて、なんでそういう人が成功できてるの?どこが違うの?

etc,etc...

まあそんなわけで、もともと興味のあった心理学などを皮切りに、プライベートなライフワークとして「こころの健康・癒し」、「成功哲学」といったものをテーマにいろいろ調べ始まったわけです。

以前ブログにも書きましたが、私は最初、心理学系のアプローチによる癒しを実現しようというスクールにちょろっと通ったのでした。

(エネルギーワーク的なアプローチもネットで検索するなかでヒットしたのですが、子供の頃からナチュラルサイキック的な要素を自覚していたにも関わらず当時の私は、とある理由(後日ブログに書くかもしれません)で、そういったことから距離を置こうとしており、わざとスルーしていました)

が、少なくとも私が学んだ範囲内でいえば、心理学という学問の範囲内だけでは人の心を癒すのにまだるっこしいというか、手間ひまがかかりすぎるというか、肝心のかゆいところに手が届き得ないという実感を得ました。

また同時に、そのスクールの人たちの間で、みんな口にこそ出さないけれど

「ほんとは、サイキックなエネルギーワークでアプローチするのがふさわしい領域があるってのは分かってる。でも、サイキックだなんて選ばれた特殊な一部の人にしかできないじゃない?私にはきっと無理。だから学問という、現実味のある手法を学びにきてるの」

という後ろ向きというか、臆病な逃げの姿勢を感じることが多かったのでした。
(たとえば稀に、レイキのファーストを伝授受けたという生徒がいると、『ええーーーっ!?』と声が上がって天然記念物を見るような目でその人を見るといったノリでした)

そこへ来て私はそのスクールで、(多分に性格の相性の問題で起こったことですが)講師から「信じられないほどの劣等生、出来損ない」といった酷い扱いをされ、最後は半ばケンカ別れのように講師と言い争いになってそのスクールを辞めてしまいました。

そういった経緯を経て、

・人の心を癒すうえでは必ずしも、「現実的」とされる手法が有効とは限らない。

・また「非現実的」と見られがちな手法がインチキの無効とも限らないかもしれない。

・自分は本当にヒーラーとして才能も素質も見込みもまったくないダメ人間なのか?

というような悶々が膨らみ、若干の反抗心やプライドも手伝って

「お前らがビクビクして足を踏み入れられずにいるサイキックな領域に、超感覚でも目に見えないエネルギーでもなんでも扱う領域に堂々と足を踏み入れてやろうじゃねえか!
そこでいっぱしになるまで修練積んで、テメエらが足元にも及ばないほどのヒーリング能力を身につけてやらぁ!!」

という鼻息荒い野心を抱くに至ったという経緯。

そこからですね、物怖じせずスピリチュアルとかサイキックとかエネルギーワークとかの情報に、怖がらず向き合って、、、むしろ「食らいついて」いくようになったのは。


今思えば、すべては必然だったんだろうなぁ。

あの心理学のスクールで優等生扱いされていたら、いまとはまるっきり違う進路を辿っていたかもしれませんねw

まぁ、どっちを歩むにせよ楽しい人生になったであろうことは疑っていませんが。


あー、なんか(普段さんざん自分のこと書いて晒してるわりに)今回のエントリーは我ながらこっぱずかしいなぁ。

ご参考に、、、、、、なるかな???
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