「できない」側に立つことで実現する選民思想

私(たち)だけが特別な存在だ、選ばれし人間だ(それ以外は劣っている)といった思想を選民思想と呼ぶことがありますよね。

選民思想を持っているというと、「私は特別だ」と、自分のほうが優越しているという形でそれを実現する人を思い浮かべやすいものですが、逆のケースもあるのです。

「ああ、やってみたけど私には到底、無理!これはきっと、生まれつき才能のある、特別な人にしかできないものなんだ」

と思うことで選民思想を実現するのです。

そういう人は暗に、どこにいるのかもわからないような「特別な人」という、現実離れしたイメージを理想像として持ち、実際にいる人間たちを「駄目な存在、できそこないのどんぐりの背比べ」というふうに捉えて貶めます。

もしくは、自分の崇拝する単一の人間のみを「特別」として、それ以外の人間にその人と同じ芸当はできないと断定することで、その人だけを特別なものに祭り上げようとします。
(それは同時に、その人以外の全人類を貶めていることになります)

貶める、という表現が過激に思うなら、「本来のその人の可能性、素晴らしさを完全に認めていない。制限を加えて見ている」といえば的確でしょうか。

選民思想は、ヒーリングの実現という観点でいえば、百害あって一利なしと私は捉えています。
自分側が優越する立場でそれを体現するか、できない側に回ってそれを体現するかの区分を問わず、もし心当たりがあるなら、その選民思想にしがみつく状態から変わりたいと思うなら、ワークしてみてはいかがでしょうか。

でもねー、自尊心が傷ついている、自己価値のイシューを抱えた人にとって選民思想って、足を骨折した人の松葉杖みたいなもので、杖を外す(=選民思想を取る)よりも怪我の完治(=自尊心のイシューの解消、正当な自己価値の回復)が先なわけですよ。

ヒーリングにも順序があるってわけですね。

ご参考までに。
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