ボランティア・寄付の意義

豊かさにはいろんな形がありますね。

お金だったり情報だったり、物理的or精神的に力を貸してくれる他人の存在だったり、その形は千差万別!
(なのに、『豊かさ=お金』としか捉えることができず、無形有形のさまざまな豊かさをスルーして『嗚呼、金が欲しい(のに手に入らない)』と言っている人がいるのは他人事ながら勿体ない……)

だんだん、「いろんな形の豊かさ」を扱うことに習熟してくると(←といってもまだまだですがw)、

どこから来た「どんな(形/性質の)豊かさ」を、「どのくらい」、「どんな形に変換して」、「どこへ」、「いつ」、「どんな手段で」流すかということに気も頭も使うことになってきます。

変な例えかもしれませんが、テトリスなどのパズルゲームをやっているような感覚になります。

豊かさは水に例えられるように、自分のエゴでその流れをせき止めて独り占めしようとしても、滞留して腐るだけなんです。

この世はいわば、さまざまな水路に豊かさという水が流れているようなもので、どの水路からどのくらい、どんなタイミングで水を汲み上げ、今度はそれをどの水路に流すかという「“豊かさという水”の循環 水路パズル」みたいな側面があります。
(そして水路ごとに水の成分や温度などが異なり、水の汲み場所や流し先について、そのタイミング、汲み上げる質量、どう加工するかetcのどれかを間違えてもベストな結果につながらない)

金持ちとされる人たちが皆、金の使い途にこだわり、「これは!」と思ったところには納得するまで惜しみなく使い、一方でピンとこなかったらビタ一文、使わないのはこうした事情を感覚的に把握できているからではないでしょうかね。

で、自分が受け取った豊かさを流す際に、流すことでまた利益を得る(≒水を流しに行っているのに、水をもらう形になる)ことが可能になる場合があります。

(例えが尾籠ですが、便秘して苦しかったのをようやくトイレに行って出したのに、その場で大量に食べ物をまた食べさせられて消化器官が休まらない&また便秘の種になる不快感といえば伝わりやすいでしょうか)

本当に豊かさについて理解している人は、

「いいじゃん、せっかくお金が稼げるならそれに越したことないじゃない」

とはこういうとき思いも言いもしません。

「ここは、流すべき」

と思った質量の豊かさを流せずにいると、抱え込んで手放そうにも手放せなかった豊かさエネルギーが腐って、たとえば自分が病気になるなどマイナスな影響に働く場合があるのです。

でも、資産家だったり有名人だったり、卓抜した技能を持っていてそれを評価される立場になるなどすると、何をどうやっても、「純粋に豊かさを手放して流す」ことが難しくなるのです。
どんなことをしても、あるいは何もしなくても勝手に周囲から認められ賞賛され、名声やお金といったリターンが入り続け、それがつきまとって消えなくなるのです。

その、「つきまとったまま腐って行く可能性のある豊かさ」を適切に流しきれないと、いざ腐ったときに身内に不幸が起きるとか災難に見舞われるという、ネガティブな反動の現象が起きます。
なまじ、大きな質量の豊かさを抱えていただけに、大量に腐った「元・豊かさエネルギー」のネガティブ効果たるや、筆舌に尽くし難いものでしょう。

だから金持ちなどは必死に、そうならないよう、適切に「豊かさの排便行為」とも言うべき手放しに必死なのです。

その不都合の解消手段として代表的なのが、ボランティアや寄付という手段なわけですね。

「あー、なるほどね」

と思いませんか?


同時にこれは、日々の暮らしがカツカツでそこまで潤沢にエネルギー循環を実現できていない人にとって、安易なボランティアや寄付がその人自身そして世界全体の豊かさの循環にとって、必ずしもベストに働かないことにつながることが想像できるでしょうか。

そのボランティア行為は、何か後ろめたい気持ち・罪悪感を吹っ切るための「口実」になっていませんか?
非難したい誰か(自分のことばかり考えて私腹を肥やす人など)を非難する意味合いを持っていませんか?
本来、自分がやるべきことに手を付けず後伸ばしにして逃避する大義名分と化していませんか?

その寄付は、自分は良い人だと自分に言い聞かせるためではないと断言できますか?
その寄付を、「寄付以外にもっと有用に使う」と考えたとき、まったく案は存在しない(≒寄付するのが一番だ)という自信がありますか?

これは何も、ボランティアや寄付を庶民がすべきではないという意味ではありません。
むしろ、わざわざボランティアという意識を伴っていなくても、道を聞かれたときに善意で答えるなどその人に望ましい形で自然にボランティア(という形で適切に豊かさを流し、循環させること)ができていることは少なくないものです。

ベストだと確信があれば、ボランティアや寄付という手段を迷わず選択するのが、豊かさの循環にはベストとなるわけですから。

問題は、ベストでないボランティア・寄付をすること。

もしくは、本来はベストな選択であるにもかかわらず、適切な手段/形/質量のボランティア・寄付を“しない”こと。

過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったものですが、そういうことみたいです。
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