「他人の気持ち」を“共感”でわかる必要はないのかも

と、ベランダでひなたぼっこしているときに急に気づきました。ベランダから、道端で遊ぶ幼稚園児たちを見たのです。

そこで、

「私はかつて幼稚園児だったこともあり、幼稚園児と同じ目線で体験やコミュニケーションを共有できた時代もあったけど、いまは違うんだろうな。自分がいま、この幼稚園児たちと話しても、すべてを『共感』することはできないかもしれない。ちょっと哀しいような気もするけど、幼稚園児と『対等な目線、同じ価値観』を共有できてはいなくても、対話はできる。コミュニケーションは可能だ。わかりあい、喜びあうことはできる。この幼稚園児たちと何かをわかりあうために、いまさら自分がどうしても幼稚園児のときの価値観に戻って、なんとしても『共感』できなければならない必然性は、ないんだ」

とはっきり自覚したのでした。


と、いうのも……。


ヒーラーを始めて、シータヒーリングと接するようになってから顕著になったのですが、

「世間一般の(?)、真実以外の概念にまみれてぐちゃぐちゃに思考が混乱してる人、波動の低い感情エネルギーに翻弄されている人」

とのコミュニケーションギャップを感じるようになりました。
(そのため私は以前、このブログで『観点を使い分ける』というエントリーを書いたりもしていますね)

自分がクリアリングされていくのはいいのですが、それに伴って、(モノによりますが)ネガティブな気持ちを抱くということがどういうことなのか忘れてしまって、ネガティブな感情について話している相手の話を理解できない、という状況が発生するようになりました。

また、私が話した内容が、我ながら真実に基づいて忠実に言えたと思ったときであっても、相手に「真実を理解してはいけない」という信念が入っている場合などは特に、まったく理解してもらえてないっぽさを感じるケースも起きうるようになりました。

なのでそういうときは、真実以外の定義や概念、感情のなかからお互いの共通項を探し、そこを糸口にして会話を進めていくという手法を採るようになっていったのです。

だから私には、自分自身にとってはもう不要で役に立たない、概念の誤った定義やネガティブな波動帯域の感覚感情も、そうしたときのためにストックしておくようになりました。

が、そうしたストックは私の心身に悪影響を与えるのもたしかで、自分の持病(代表的なのは痛風と腎臓病ですね)が治らないのはそれらがネックになっているからだということにも気づいていました。

でも、それを手放したら、私はネガティブまみれの人と同じ目線でコミュニケーションをとることができなくなってしまう(ような気がする)。

それはヒーラーとして、スピリチュアルカウンセラーとして致命的のように感じていました。

ネガティブな信念や感情を手放したいし、手放す準備も決意も整っているのに、手放すわけにはいかない。

そのジレンマに苦しみました。

でも周囲の信頼できるスピ友、ヒーラー友から、

「もうそんなの要らないよ、手放しちゃえば」

と頻繁に言われるようになりました。

そう言われると、気にかけてアドバイスをくれるのは嬉しいとは思いつつ、

「じゃあ、俺が浮世離れして、何いってんだかさっぱりわからない、世間の誰からも理解されない人になって商売あがったりで友達もいなくなっていまさらどこにも就職できない異端者に陥ったらどうしてくれるわけ?」

といった憎まれ口のひとつも叩きたくなることもあって。
(特に、そうしたスピ友が、クリアリングの度合いや霊的成長という点では尊敬できていても、ヒーラーとして金銭的に利益を上げることができていない場合はビミョーなわけです。『アンタの言うとおりにした結果、霊的には成長してクリアリングされるかもしんないけど金が入ってこなくなったら困るんだよ』という感慨もあって)

でも、踏ん切りがついたんですよね。冒頭に述べた、ベランダから幼稚園児を見た瞬間に。

べつに、ネガティブな信念や感情でパラダイムを定義してる人の言ってることがぜんぜんわからなくなってもいいや。
その結果、商売あがったりになって、わけのわからないことしか言わない奴だということで友達が1人もいなくなって、それで飢えて死んでもいいや。
たとえそうなっても、自分にとってふさわしくない思い込みは手放したほうがいい。

まず、そう思えました。

そしてそう思った瞬間、不思議と、

「私は、いまのネガティブな信念や感情を完全に手放して、それによってコミュニケーションが不可能になる人々がどれだけ大勢いることになっても、それでもなお、手放した先の自分が出会って交流を持つにふさわしい人々は無限にいる。手放した自分だからこそ対応しうるイシューは存在する。だからヒーラーとしての商売もうまくいく。うまくいくどころか、以前の(&今の)自分では対応できないことができるようになる分、金銭的にも潤う。仕事への充実感も高まり、もっともっと素晴らしい人たちと大勢、出会うことができるようになる」

という確信が生まれました。

さらに、冒頭にも述べたとおり、

「共感という手法に依存しなくても、どんな人ともコミュニケーションをとってわかりあうことは可能だ」

ということを悟りました。お互いの置かれた立場や価値観の違いの度合いによって、コミュニケーションの難易度はいくらでも変化しうるのだとは思いますが、不可能ではないと思えました。

そもそも、いま私が手放そうかどうか躊躇している信念や感覚感情に限らず、現時点ですでに、私とものすごく価値観・パラダイムが違っていて、前提条件の共有による「共感」に基づくコミュニケーションがまったく成立しない人というのは、一定数いると思うんですね。めちゃめちゃ文化の違う国に生まれ育った人とか(できる限り首が長いほうが美しい、という価値観を持った民族とか、いるじゃないですか。ああいう人たちと価値観を共有しようと思っても、おそらく無理だと思うんです。無理して共感しようとしてできないくらいなら、最初から『私はあなたと異なる価値観を持っている』という前提で、“共感”ではなくて“対話”によるコミュニケーションをとったほうがわかりあえると思うんです)。

ようするに、どんな状態であっても、その状態でいると共感できない人というのは、少なからず存在するんです。

そう考えたら、いまの自分の在り方に固執する必要ってないんだな、変化することで失うものを過剰に怖れる必要はないんだな、と思えたというか。

体が成長して大きくなってお気に入りの服が入らなくなるのは残念だけど、その服を着続けて成長を止めてしまうくらいなら、潔くその服は捨てて、成長した体に合う、もっとお気に入りの服を見つけて着ればいいんだ。ただそれだけじゃん!みたいな。

まあそんな感じで、人によってはこのエントリーはものすごく幼稚なことを書いてるようにしか感じられないのかもしれませんが(それも価値観の違いによる、共感の不可能ですよねw)、私にとってはとても大きな気づきとなったのでした。
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