ダメなものをみて「ダメ」って言うのをやめる。

ここでいう「ダメなもの」というのは、私の価値観において、という意味です。
(なにか真実としてダメなものという意味じゃないです、どんなものにも、なんらかの意義はあります)

タイトルの言葉は、自分のソウルファミリーの1人(だと後日わかった)から大学生の頃から言われていたのですが、当時から「ネガティブ探し&そのネガティブのどこがどういけないかを考察」が大好きだった私は、耳を貸しませんでした。

その友人からは何度も折に触れて、

「ダメだと感じるものをわざわざ探して見つけて、それのどこがどうダメか論じてるヒマがあるなら、自分の内面を見つめて本当に素晴らしいと感じるものを具現化するほうにエネルギーを注いだほうがいいよ!!」

ということを繰り返し繰り返し、言われたにもかかわらず、私は

・自分の人生がうまくいくのが面白くない(成功=味気ない退屈なもの、という信念)
・ネガティブな波動に心地よさを感じるから、ずっとその波動と触れ合っていたい
・何かを破壊したい本能的衝動を満たせる(自分の可能性を破壊しても誰にも怒られない)
・自分のポジティブな創造行為より、ネガティブ駆逐のほうがこの世を良くすると思ってた

などなどの理由から、相手にしませんでした。

でも、いわゆるありきたりなネガティブはあらかた経験し終えて、かといってもっとハードなネガティブさは面倒だから経験したくないとも思いはじめた20代後半、ようやっとポジティブな波動に興味が沸いてきました。

でもこの時点では厳密には、「興味が沸いた」という前向きなものじゃなくて、ほかに面白そうなものが見当たらないからという消去法でした。

でもいざ、ポジティブ側を目指そうとした際に、これまで自虐的に自滅的に生きてきた分、建て直すのに苦労したというか、いまさらほんとにポジティブ側になんか行けんのかよ的な気苦労はつきまといました。

でも、その気苦労というネガティブさがある意味、まだ心地よいと感じられたり、建て直そうとしてさほどの大ブレイクには至らずショボく小さくまとまるというのがかえって自虐的で気持ちよかったりして、「ちょいポジティブ」路線で生きるのも軌道に乗ってきました。

そういうなかで徐々に生き方が改善し、それにともなって自分の置かれた環境が向上していき、
「しょせん、世の中にあるポジティブ側の感覚・感情なんてこの程度どまりだろう」
という不遜な憶測を良い意味で裏切られるような感動体験もあったりして、いまの路線に行き着いたという次第です。

それでも、このブログをお読みの方はおわかりかと思いますが、ネガティブ探し&その考察というスタンスは自分のなかでお得意のパターンみたいになっていて、「ネガティブなネタを探したい」という自分の信念がそういう現実を引き寄せてしまい、ぐったりするということもたびたびありました。
(最近は本格的に、不幸寄りのネガティブな波動を感じても“心地よい”と感じなくなりました。これはちょうど、喫煙者がタバコをやめたら、もはやタバコの煙を嫌なものにしか感じなくなるのに似ているかもしれません)

ここへ来てようやく、

「自分にとって、不要なネガティブさをわざわざ探してまで目を向けるのはもう、いいのかもしれない」

と思えるようになりました。

これまで私は、口を開けば「愛と光」しか言わないようなスピリチュアルな人を(その人がたとえどんなにクリアリングが進んで素晴らしい波動を放っていようとも)、「現実から乖離した、浮世離れした人(≒奇跡を起こしたりできるのかもしれないが、一般の人々と考えることがズレすぎていて、その素晴らしさを人々にシェアする手段を持ち得ない人。もしくは、崇められて『人間じゃない』路線に扱われて神格化されるという『誤解』をされる人)」と捉えるフシがありました。

でもそれって、「私からみて現実だと思う範囲内からずれている」というだけかもしれなくて、その人にはその人の目線でしっかり現実は成立していて、そこには大勢の、意識レベルの合う人たちがいるかもしれない(というか、いる)とわかってきました。

なにより私には、
「ネガティブまみれのうまくいかない状態にいる人=一般の、普通の人」
という価値観があり、自分はそのなかにいるべきで、浮いたり離れたり外れたりしてはいけないのだと思っていました。
みんなが憎み合ったり無関心だったり、本音と建前を使い分けて牽制してほんとは自分1人だけがうまく行くことをエゴイスティックに願う、そういうドロドロに満ちた社会にあえて身を置き続けることを美徳であり人間としての義務であると思っていることに気づきました。

どんだけ歪んでんだよ、みたいなw

それでも、もちろん、どういう生き方をするかは人それぞれの自由なわけで、私は今後も、ネガティブ探し&考察の日々を送ることができる権利はあるんだ、ということはわかりました。

が。

どっちが「自分の最高の可能性の実現」につながるんだろう?というところで、ネガティブ寄りの生き方は選択肢から落ちました。

なんていうか、ネガティブなものを見てそれについて悪いところを指摘するのって、誰にでもできる……というか、なにも私じゃなくてもいいんじゃ、と思ったんです。

たとえば最近、耳にしたネガティブなネタ(でスピ系に関連するもの)をあえて述べてみますが、

「ヒーラーやりたいけどブログのつくりかたがわからない。教わるのも面倒だから誰か作って」
「癒されたい気持ちはあるけど、癒えたら病気で寝てられず働かなきゃいけなくなるのは憂鬱」
「レイキのアチューンメント受けたけど、どのレベルまで受けたかもシンボルも忘れちゃった」

などなど、ツッコミどころ&論じどころ満載のネタは無数にあるわけです。

でも、そういうネタを無数に拾って、誰もが思いつくような切り口で論じたところで、たいした情報を世の中に提供できているとも思えなくて。
(昔、フジテレビで、非常識な人々と遭遇した出来事を視聴者から募り、面白おかしく脚色した再現VTRを流す『どうーなってるの?!』という番組がありましたが、結局ああいうのも一過性のもので終わっちゃいましたね←べつにネガティブネタ再現VTRが不評で幕を下ろしたかどうかは知りませんがw)

ここはやはり、ヒーリングを通して、これまで全然見えてなかった、すんげえ素晴らしいものを追究・探求していくほうが可能性として大きそうだという結論に行き着いた次第です。

唐突ですが自分、本を書きたいんです。

で、

・いかにスピリチュアルに傾倒した人々が非常識で可笑しいかを綴った爆笑4コマ漫画
・読んだ人がそれまで知り得なかったような未知の可能性を感じ取れる素晴らしい著作
 (私自身がミヒャエル・エンデの著作を読んで感じたときのような波動を読み手に与えうる本)

が候補で、前者のほうはすぐにでも出版できそうなくらい構想はまとまってるんですがw(←これはこれで売れば面白くて売れる自信はある)、後者のほうは、まだ全貌としては見えてません。

で、どっちを書きたい?どっちを完成させたい?って聞かれたら、やっぱり後者なんですよね。。。

まぁ、そういうことです。

とるにたらない、無数にこの世にあるネガティブな物事よ、さようなら!!!
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