学校の勉強と心理ブロックの関係

なにも学校の勉強に限ったことではなくて、家事とか会社の仕事とかなんにでも言えることなんですけどね。

ヒーリングのインストラクターとして、また個人的に子供たちに勉強を教える機会に遭遇してあらためて思うのですが、

「人は、ブロックがある物事についてはうまく学習できない、習得できない」

という傾向があります。

歴史はその現象が特にわかりやすい科目です。

ようするに、ある時代に生まれてその時代につらい経験をしてトラウマを持ってしまい、それが未だに解決されていない場合、その時代や国、戦争といった物事について学習すると頭がぼーっとして情報が入ってこなくなるのです。

心理ブロックが、自分が嫌だと感じる出来事に向き合うのを避けさせるのです。

仮に、内容をよく理解しないで語呂合わせなどの暗記でテストを乗り切ろうとした場合、「意味をちゃんと把握してない文字列の暗記」という意味では、どの単語なり出来事なりでも“覚える難易度”はほとんど同じはずです。
でも、特定の事象や時代、国、人物、事件にまつわることだけ、暗記しようとしてもうまくいかない。
こういうことが起きるのです。

これは地理でも同じ。
どうしても覚えられない地域があるとしたら、その地域にブロックを持っているのかもしれません。

これは理科系の科目についてもいえますね。
物理や生物、化学、地学(天文)などは、歴史の発展のなかでときに真実が否定されてきました。
それこそ、地球はひらべったいという論のほうが真実とされたり、太陽が地球の周りを回っていると言わないと死刑になる時代もあったわけです。

そういう時代に生きた記憶・印象が強く残って転生し、その時代とは異なる理論を教科書で読んだとしたらどうでしょう。
おそらく、本人にも理解のできない「葛藤」が深層心理で生まれるはずです。
いまの教科書に載っている理論は、過去生の自分が「ぜったいに間違っている!」と否定しようとした理論のほうかもしれません。そのときは、怒りと困惑で頭がぐるぐるまとまらなくなってもおかしくないでしょう。
……あなたにもこういう経験、ありませんか?
実際の勉強の難易度とは違ったところで、判断力や理解力が鈍ったり集中できなくてぜんぜん勉強が頭に入らない、という経験。

数学なんて、最たる例でしょう(歴史や理科に比べて抽象度が高いので因果関係を読み解きにくいですが)。
一見、ただの数字あそびに見える数式にも、深淵なこの世の真実や、法則の本質が宿っています。
数学のある分野(あるいは数学そのもの?)が苦手という場合、その分野の数式や公式が顕している、この世の法則や真実といったものそのものに対してブロックがある可能性が高いです。

だから、学校の成績が良いというのは、少なくとも学習範囲が扱う内容に対してブロックが少ないともいえそうです。
(ブロックだらけなのに歯を食いしばって努力した結果、そのブロックを克服して良い成績を修める人もいます)

冒頭にも言いましたがこれは家事や工作、会社の仕事などなんにでも言えることですね。
ある分野が苦手ということは、それを苦手だと認識するなんらかのブロックがあるといえそうです。

勉強はすごく得意だけど、接客業は大の苦手、という秀才もいるわけです。
勉強はすごく苦手だけど、○○をやらせたら右に出るものはいない、という人もいて。

そういう意味では、勉強や運動、仕事や趣味など何かに秀でている人というのは、
「その分野についてブロックが少ない」
といえるでしょうし、あらゆる分野が得意で何でもござれという人は
「あらゆる分野についてブロックが少ない」
ということでもあるといえますね。

もともと苦手だったけれど目をそらさずその問題にしっかり向き合ってガッツリ勉強なり仕事なりして、苦手意識を克服して得意になるというのは、なにも高次元エネルギーだのを使わないとしても、これは立派なヒーリングであり、クリアリング行為だよなぁと感じます。

この世はブロックがなければないほど意図の現実化がしやすく、すなわち「思い通りの現実を生きることができる可能性が高い」わけで、この世に生まれてくる人はそれを目指しています。

すなわち、ブロックが少ない人が“モテる”のです。

事実、べつにスピリチュアルがどうこうとか、心理ブロックがうんたらということを考えていない人たちであっても(よほどひねくれた性癖や志向、フェティッシュな趣味を持っていない限り)、

「デキる人、優秀な人」

には人気が集まりますし、世の中みんななんだかんだいって「自分はデキるぜ!」ということをアピールする(≒少なくとも、デキない、落ちこぼれのダメな奴にならないよう努力しようとする)というのはある意味、必然ともいえるわけです。
ブロックの少なさのアピール材料として(スピリチュアルな物事を否定したり距離を置いたりしている人たちの間で)有力なのが、学歴だったり、社歴だったり、あるいは会社の役職であったり、稼いだお金や買った家・車など財産の類い(←他人より多く現実化ができているという物理的根拠をもって、自分のブロックの少なさを証明している)だったりするのは、まんざら不自然なことでもないんですね、こう考えてくると。

そして、そうやってみんなが自らの優秀さをアピールしあって競争しあってる図を見てどう思うか(「うん、みんな頑張れ!」と良い印象を持つか、「あさましい、現世利益に目がくらんで」といったネガティブな判断を下すかどうか)は、個々人の価値観のフィルターであって、真実とは直接関係のないことです。


私は上記のようなことをつらつら考えるなかで、

「スピリチュアルな学びとか魂の洗練とかアセンションとか修行とか、よくいるスピリチュアルに傾倒した人が目指してることって、『いわゆる、スピリチュアルと呼ばれる物事と無縁なままでじゅうぶん達成できる』んだな」

という(もともとうすうす感づいていて、きっとそうなのだろうと前々から思っていた)考えが当たってることを、つくづく痛感するのです。
関連記事
スポンサーサイト