観点を使い分ける

創造主の観点で見ると、ありとあらゆることは「なんでもアリ」ですが、その観点で日常を生きると不便がありますね。
(完全に、創造主の観点でのみ生活して何一つ不都合のない環境・境遇を手に入れることを実現できた人なら不便じゃないんでしょうけれどw)

たとえば人を殺すという事象にしても、創造主の観点でいえば

「べつにやりたければやればいいし、やりたくなければやらなくてもいい。やったからといって罪になるわけじゃない。すべては許されている」

となりますが、だからといって「あ、いいんだ?」といって実際に人を殺すとこの世界では犯罪者になり警察に追われることになります。

また、自分がやらないにしても、殺人事件についてコメントを求められたときに創造主の観点そのままを伝えたら、(現段階では)大多数の人から「なんて非常識な奴だ」と言われる可能性は低くないでしょう。

つまり、創造主の観点だけで日常を生きると、それはそれで境遇によっては不都合が生まれるわけです。

そんなわけで私は、創造主の観点以外のさまざまな観点を、どれも「創造主より劣っていてダメ」というジャッジ(判断)を加えることなく尊重して、人々との交流のなかでそれを取り入れて取捨選択するよう心がけています。
捨てる場合であっても、自分には合わないというだけで、「根本的にダメ、劣っている」とは思っていないところがミソ、、、かもしれません。
(創造主の定義・観点以外の概念というのは、この“体験”ができる世界で初めて生まれた貴重な宝です!)

そのうえで、その時と場合、一緒にいる人など諸条件を加味したうえで、

「この状況で使うのに最も適した信念体系、概念の定義と観点」

を選んで人と接するようにしています。

だから、シータヒーリングを知らない人と話す会話のなかでは、創造主の定義・観点とぜんぜん違う定義・観点で概念の単語を使っていることも多いのです。

でも、、、というか、だからこそ、会話はスムーズに続いてお互いコミュニケーションができる、というか。

シータヒーリングをするなかで、

自分に呼び覚ました創造主の定義・観点に固執してしまい、
そうでない定義・観点でモノを話す人を否定・拒絶してしまう


のは違うよなと強く思うようになりました。

創造主の定義・観点を素晴らしいと思って尊重するのと同じ重みで、
そうでない定義・観点も尊重する。両者に優劣や正誤の判断を加えない
(創造主の定義・観点と違う意味合いで概念を捉えていたとしても、
 それはそれでアリで、『誤り・間違っている』わけではないので)


のが大事だよなーと思い至っています。
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