「なんとしても無能でありたい」ゆえの無気力からの回復

DNA3に出席したときワークしたネタなのですが、私の根深い信念として
「なんとしても無能でありたい」
というのがあります(ありました、かな?)。

自分で言うのもなんなのですが、私は幼少期からいわゆる“神童”と呼ばれるような高い能力をすべてにおいて持っており、勉強でも運動でも歌でも踊りでも音楽でも、何をやらせても抜きん出ていました。

でも、(人間からの愛情を感じ取れないようにする入念な信念ブロックの数々により)自分が何かすごいことをしたときの、他の人からの妬みやエゴを押し付けようとする類の期待、お近づきになれば何かいい思いができるかもという損得勘定や「私たちはエリート同士だね」という選民思想などから来る胡散臭い好意といったもののすべてが不快でした。

「将来はオリンピックで金メダルか?」
「いやいや、東大を出て大蔵省の官僚様だろう?」
「それより音大を出てショパンコンクールで優勝して世界的ピアニスト?」
「何言ってんだ、プロ野球選手になって年収何億円も稼ぐんだろ?」
などなど、(いまから思えば田舎の大人たちが私のパフォーマンスに熱狂して褒めたとき、彼らなりに狭い想像力を駆使して出た悪意のない言葉のあや、に過ぎなかったのですがw)無責任&無神経に多大な期待を寄せられるにつけ、ただただ 「鬱陶しい……。」 としか感じませんでした。

これがもし、会社で働くなどして、実績次第で昇進できて給料が上がるといった目に見える形での報酬があればまだマシだったのでしょうが、なにしろ子供時代のことだったのでそういうこともできず、
「なんで勉強も運動も全然できなくて授業の足を引っ張るような○○君みたいな同級生と、自分が同じ給食を食べているんだろう?実力のある人間はそれ相応に評価されて、実力のない人間は淘汰されていくべきじゃないのか?授業での実績に応じて給食で食べられる品数を増減するとか、そういう対応があってもよさそうなのに」
と、悶々としながら給食を食べるといった、よく考えれば(よく考えなくてもw)相当に厭な児童になっていってしまったという次第です。

そういうものが積もり積もって、大人になるころには
「無能であるにこしたことはない。何かができて得することなんて何ひとつありはしない」
という極端な結論に到達し、なんとしても無能でありたいという信条を持つに至ったのでした。

で。

ペアワークで掘ってもらううち、標題の信念を支える信念として、
「役に立たない人間は生きているべきではない」
というのがあることが発覚。
(だから給食を食べながら出来の悪い同級生に不満を抱えるといったわけのわからないことをしていたんですね)

しかも、「役に立たない」という定義が狭く、創造主の観点から観た「役に立つとはどういうことか」から大幅にずれていました。
そのうえ内心、その信念がよくないとどこかで思っており、
「役に立たない人間が生きていてもいいということを、自らの体験を通じて実証しようとする」
という、よりいっそうわけのわからない信念を持っていることも浮き彫りに。

さらに、どんなに無能であろうとしても「完全に無能」にはなりえるわけもなく、「無能になれない自分に傷付き、自分を責める」といった究極にわけのわからない状態でグルグルと無限ループしていました。

その、なんとしても無能であろうとする自分が新たに確立した手法としての信念が、
「自分が手に入れた知識や技能、達成した物事を“無意味/無価値”と定義する」
というものでした。

だから、システムエンジニアとして習熟してスキルが上がってくると「コンピュータのスキルなんてあっても意味がない」と断定して転職し、いざ編集者になっていっぱしの記事がつくれるようになると「雑誌の記事なんてつくれても役に立たない」といってWebプロデューサーに転向。Webの仕事も軌道に乗ると「そもそもWebなんてなくても死にゃあしねえよ」とWebの存在自体を全否定するかのような価値観に囚われて進路変更……と、社会人としてのキャリアを迷走ぎみのものにしてきたわけです。

はい、もう想像つきますね。

次に私が陥ったのは、
「ヒーリングなんて怪しくて胡散臭い。そんなものでメシを食うなんて馬鹿馬鹿しい。ましてやそういうインチキ同然のヒーリングを人様に教えて金を取るインストラクターなんて仕事はロクなもんじゃない」
というものでしたw

そもそも標題の件についてワークしようとしたのも、いざ自分が現段階でリリースされているシータヒーリングのクラスをいよいよ(生徒としては)すべて終えようとする段になって、上記の思いがこみあげてきてしまい、もうシータヒーリングのプラクティショナーとしてもインストラクターとしても活動したくないという思いに囚われてしまったのがきっかけです。

端的に土台をいえば、
「社会にある集合意識のなかで最大公約数のものを適宜『唯一の真実』と定義して捉え、その集合意識の持つニーズに、その集合意識の定義&観点から完璧に応えなければいけない。それをすることだけを自分の生き甲斐としてよく、それ以外のためには一秒たりとも生きていてはいけない」
という縛りが私の奥底にありました。
(だから、無能であろうとするのは、この土台への反抗だったというわけ)
(幼少期に、周囲からの期待などをひたすらネガティブにしか捉えられなかったのは、私がそれらの期待にすべて完璧に応えるべきだと思ったからなのですね)

で、私が感じ取った「社会にある最大公約数としての集合意識のニーズ」というのが、
「いわゆる世間一般の常識に照らして“マトモな職業”と呼ばれる仕事に就いて、しかも目立たず浮かず人と違ったことをせず派手な大成功をしないように周囲の空気を読みながら予定調和な馴れ合いをもって和と呼び、地道に真面目にコツコツひたむきに頑張ること。成果がどうとかビジョンの達成がどうではなくて、ただそのコツコツ報われない努力をし続けるプロセス自体が目標。そうやって延々と中流階級小市民の1人として無名に無為に生きる」
というものでした。それに応えることだけを自分の生き甲斐としてよい、と思っているのですから息が詰まるのも道理ですよね(笑)。

対処法としては、生き甲斐にもいろいろあると気づくとか、
「他人たちの集合意識ではなく、自分の価値観を優先して生きてよいという感覚のダウンロード」
などをしました(またここでも集合意識の問題が浮上してますね、私w)。

そんなわけで
「ヒーラーとして生きることへの無意味&無価値観。そこから来る無気力。生き甲斐の喪失」
からは、脱却できた模様。

これからは他人のニーズに応えることは義務でも強制でもなく、あくまで自由意思でそうしたいならする、という方向性にシフトしようと思います。あくまでも自分がやりたいことの実現優先。

でもって、自分のやりたいことを実現するためには、知識やスキル、無限の想像力と行動力といった類の能力は、ないよりはあったほうが便利だよねぇ。 というわけで、無能でありたいとは思わなくなりましたとさ。ちゃんちゃん。
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