「吉原まさるとして生きる」感覚のダウンロード

してもらいました。

これは、これまで自分がやってもらったワークのなかで、最強のダウンロードだったかもしれません。

自分らしく生きる、というダウンロードは際限なくやってもらったことがあるのですが、それだとなんていうか、ちょっと違う感じがしていました。

というのも、「自分=もともと人間でない存在」と定義している感があったので、

「自分らしくしている時点で、(肉体を持った人間としては)生きてない、この世界に存在してないじゃん?」

という疑念が消えなかったのです。

そのため、この肉体を持って吉原まさるとして生きながらにして自分らしくする、ということがどういうことか、皆目見当もついていませんでした。

だから、
「男らしく生きる」
「会社員らしく生きる」
「日本人らしく生きる」
などなど、何らかの属性を見つけて、それらしく振る舞うしかないのかと思っていました。
(思えばこれまでの自分は、自分が真似るべき『○○らしさ』のベストモデルを探すことに終始していた気がします)

でも、どれもしっくりこないんですよね。。。ベターではあるけどベストではないというか。
そして、その「○○らしくない」ことを自分がしたくなったりすることに罪悪感を感じて肩身の狭い思いをしていたというわけです。嗚呼、悪循環。

この悪循環はそもそも、「吉原まさるらしさ」というものが存在すること、またそれが許されること、そう振る舞っても安全であることetcが一式、まるっと抜けてたから起こったものだったのだと気づきました。

こまかく言うと、「自分らしさ」と「吉原まさるらしさ」の違いは、

・自分らしさ……人間かどうかを問わず存在する普遍的エンティティとしての存在らしさ
・吉原まさるらしさ……上記の“自分”が、肉体に宿って人間として生きている存在らしさ

です。伝わるかなぁ、このニュアンスの違い。

もっと具体的に言うと、たとえば「セクシャリティ」があります。

・自分……(本来、人間ではないので)本質的に、セクシャリティという概念そのものを持たない
・吉原まさる(という1人の人間)……人間の男なので、なんらかのセクシャリティを持っているに違いない(←と、上記の“自分”が頭で考えてる感じ)。ストレート(異性愛者)なら女性に性欲を覚える、同性愛者なら男性に性欲を覚えるはず。バイセクシャルならその両方?人間ってそういうものらしいじゃん?

とこれまで自分で定義していました。

ですが、自分としての私はセクシャリティを持たないので、人間の男である吉原まさるとして生きていても、男を見ようが女を見ようが、性欲を抱くことがありません。

このことは特に、成人になるその過程でものすごいコンプレックスでした。

「どうして男は女を見るとムラムラするんだろうねぇ」
などと同級生がいつのまにか「子供」から「大人」になっていく過程で口走るようになるあの台詞の数々が、まるで理解できないのです。

そのことを男友達に(わりと真剣に)打ち明けると、

「え?ってことはホモ?お前、きっと同性愛者なんだよ」

と言われたりして、余計に意味がわからなくなりました(もし自分がホモなら、相談している男友達と話していてなぜ性欲を抱かないのだろう?と不思議だったので)。

そういうことがセクシャリティだけでなく、食欲とかその他もろもろの点で起こり、
「自分=人間らしくない→それがバレると変な目でみられて人間社会から受け入れてもらえない」
という怖れにつながっていきました。

そうしていつの間にか、自分らしく……というか、「自分という存在が宿った吉原まさるらしく」生きてはいけないのだ、と自分に禁止命令を出してしまっていたという次第です。

でも、いいんだよね?

人間に慣れてない魂が宿って生きてる、世間一般からすれば「ちょっと変わった生き物」として存在している「吉原まさるらしさ」は、ちゃんとあるんだ!!
その吉原まさるらしさをありのままにのびのびと自由に表明して生きていいんだ!!!

なんか、肩の荷が思いっきり降りた気がします。

あとは、「両親から受け継いだ(人間としての)遺伝子を受け入れる」がNOになる点をどうにかすれば、さらによくなる予感。

日々、ますます変化して拓けていく自分が楽しいです、今は。
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