ただ気分的に「幸せ、救われた」感を味わいたいだけならスピじゃなくてもいいよね3

前回記事の続き。

■第3段階「(ちんまい)すごさにドヤ顔放題で浮かれてる人」

前段階からさらに1つ精進して、実際に霊視やヒーリング、お金や愛情など望む境遇を自分の狙い通りに創れるようになった人たち。

ピアノでいえば、音楽室で授業の前後の休み時間にここぞとばかりにバリバリ弾いて、好意的な同級生からは「すごーい」と言われる的なやつのヒーリング版。

個人的な経験則でいえばかもしれませんが、霊視とかヒーリング、念動力、そういった霊能力・超能力とされるものは、ちゃんと訓練すれば思ったより早く開花します。

たとえばシータヒーリングというモダリティでは、いちばん最初に基礎クラスを受講するのですが、それは3日間連続で、初日の昼過ぎにはもう、ばんばん霊視するワークが入ってきます。
人にもよりますが、わりとすんなりもう、観えるようになっていきます。

いわゆる徳を積んだ、非の打ち所がない人格など備えなくても、霊能力や超能力は使えてしまうんです。

(念動力についても、たとえば地方在住などで良い意味で素朴で純粋なまま大人として生きていて『自分、霊感とかたぶん全然ないし、超能力とかもやったことないんですよね、こういうセミナー初めてで』という方が、いきなりモーターで回したように風車を念動力でビューンと回せてしまったりします。こういうのは過去生までに培った美徳や、今回の人生の生き様のトータルで、本人も自覚していないところで成立する力なのですわ。もっといえば才能とされるものを求められる音楽や演劇、美術、スポーツなど、あるいは料理人や理髪師など技能が問われる職種で、『なぜかできちゃう』人がそこそこいますね。それは漠然と才能や適性といった言葉で処理されますが、重力や空間を曲げてすごいスピードやアクロバットな動きができるなど、純粋な運動能力とは別の超能力を実は発揮しているからこそ抜きん出ているというケースがほとんどです)

コツややり方を掴めば、お金も人間関係も思い通り。
それまでとは比べ物にならないほど、「ほんとにこんなにラクで何もかも思い通りでいいの?」という状態になります。
(何を隠そう私も、32歳をピークにその前後2〜3年は、この状態でした)

偶然やたまたまというのではなく、「意図が現実を創る」というのがどういうことか、はっきりわかるんです。
霊視で、自分の意図と、それにより成立した現実の事象との間での、因果もしくは照応関係が観えます。
(余談ですが中途半端なスピ本では、引き寄せの法則や意図が現実を創る話についても、『因果関係』にばかり論理的に着目してしまい、照応関係のほうを見落としてすべてを解説しようとして、論が無理めになってて実際使えないというケースがよくあります)

半径5mの日常が、パラダイス化する

んですね。

これ、成立したときは、ほんとに有頂天でいられます。
私も、こんなふうに世の中には喜ばしい、ポジティブとされる側面を、こんなにも味わい放題なんてことがあるんだ!?と存分に浮かれて、はしゃぎました。大事だと思います。
(そしてそれは、境遇が下向いたわけでも、また苦悩が蘇ってきたというような『後退・荒廃・衰退』したわけではなく、そこはもう常識というか当然というか『日本の家屋なら水道の蛇口をひねれば飲める程度にきれいな水が出る』式のこととして今もなお続いて、より定着していっています。老後も含め、いわゆる人生に対して生存そのものの雲行きを心配するということはまったくありません。お金の心配もしたことないですし、実際に足りなくて困ったことは一瞬もありません。ある意味、わざと上というか先というか前というかを目指そうと、単なる苦労じゃない、実りありげな挑戦を、ラクになった分、主体的に取り入れてるだけです←ほんと余談ですが、普通に生きてるだけでいろいろ嫌なことがあったりしてつらいのは、しかるべくワークしてラクになっていけて、そのラクになった分、『日常だけでアップアップしてたら一生、チャレンジできなかったようなこと』に挑んでいけて、そっちでどんだけ苦労してもまだキャパに余裕ある、みたくなるのが最高の恩恵でした)

で。

一般的にいえば、ここに到達したことをもってして「成功(者)」と呼んでも、さしつかえないと思います。
それ以上のところに無理して行く必要は、ないのかも。

前々回の記事で書いた「ラクになりたい」人たちの層に働きかけて、引き上げるというか、どうすればじゃあ(堕落というほうでなく、しかるべき試練を乗り越えたという方向性で)ラクになれるのかを伝えていくことになんなら一生を投げ打ってもいいでしょうし、この段階で落ち着いて安穏と暮らせる日々にただ満足するというのもアリだと思います。

ただ。

あえていえば、多少、霊能力や超能力を身につけて、それを日常生活にも活かせて以前より格段にラクに暮らせるようになり、それはつまり幸せの度合いが上がったと捉えるところに終始するってどうよ、というのもあります。

武芸の達人が、もう技を使わず、ただそこにいるだけで「すごい!」と感心される的なの、漫画とかでありますが、あれなんですよ。

なんかね。いろんな超能力をバシバシ使ったり、霊能力を駆使して高次元の存在や宇宙の源とチャネリングしてなんでも知っている状態になる、というのは、人間の霊的成長でいえばせいぜい「進学校に入って自分が優秀だと自覚してる程度の中高大学生」程度なんです。

うわぁ〜すごいわねぇ〜、そんなこともできるの、へぇ〜、と言われるでしょう。
他の人ができないことができるでしょう。
人間1人、なんなら家族を養って暮らして行く程度のことは、余裕でできるでしょう。
苦もなくお金や時間をやりくりして、趣味などにも没頭できて。有閑マダム状態、楽しいでしょうね。

でもそれだと、独りよがりというか、自分の中だけで完結してるんです。

もちろん、ラクになりたいけどなれてない人たちの層に、セミナー教授やアドバイスなどをして奉仕するという意味で貢献する方法もあります。
それはとても尊いことだと思います。

でもそれを超えた境地というのはありますし、お金(を食べ物や住居など生存に必要なものに交換できるものと捉えた場合)や愛情といった、「動物が欲しがるもの」を欲しがって手に入れてイエーイというのは、厳しくいえばですが、やっぱり動物にすぎません。
エリート動物!

いやね、霊能力や超能力をしかるべく使えるようになった人に向かって、エリート動物だなんて酷いべ、と思いはしますよ。
どこかの誰かに向けて誹謗中傷の意味で言ってるわけじゃなく、自戒の意味も込めて、そう捉えうるのも確かだよね、という。

この段階に到達した人にもピンキリはあるもので、まだまだワークの余地はいくらでもあるんですが、そういう自分の思考についてのワークだけやってると

似たり寄ったりの堂々巡りで抜本的に一歩前に出るに至らない

ことがあると感じます。周囲を見ても。

で、ここから先というのは何度も言いますが義務でどうしてもというところではないと感じます。
あくまでも、自分個人がよりよく生きるためだけのために、とワークをして、手に入れた超能力を使って人生を謳歌するのもいいでしょう(それができた過去生はほとんどなかったはずですし!)。

でも。

もし、それだけってのもどうよと思い始めたら、ここから先は、ある個人がいかに現世利益を得てウハウハなことをもってして「幸せ〜♪豊か〜♪」とご満悦なだけでなく、

この宇宙の仕組みを霊的に考察する

というステップに入って行くのが、さらなる霊的成長を目指すならよさげ。

なんで人類っているのか。骨格や臓器の仕組みは世界共通で同じなのか。一方、肌や髪の色などが違うのか。民族と呼ばれるDNA上の違いから気質・価値観・文化といったものに至るまで、なぜ異なるのか。なぜ争いもし、同時に愛し合うのか。
繁殖がセックスという、神聖であるらしいともされるけど下劣とも思われやすい、いわば究極の矛盾のようなことを通じてなされるのか。
そんな人類が太陽系のなかでなんで地球に集中してるのか。
意図が現実を創るなら、この地球の環境も、太陽系も、なんなら宇宙空間として捉えているものも人間の意図で生まれたのではないか。
100%そうではないとしても、それらも現実である以上、部分的にせよ何かしら影響を与えているものなのではないか。
じゃあ人類はどういうふうになっていくとどうなのか。

宇宙というと急すぎてイメージつかないなら、「この人類が作っている社会」という捉え方でもいいと思います。

いきなり視野を拡大しすぎると、これまた「抽象的なことを偉大ふうに語ったり夢想するだけで本人は何もしない、できてない役立たず」みたくなるので注意が必要ですが。

ただ自分だけが満たされてるだけでも、社会にはまだまだ問題があるし、不幸とされる在り方から抜け出せない人たちもいる。

自分が貧しく不幸だったときは、他人に与えたり尽くすのなんか死んでも御免と思っていたはずなのに、いざ自分の生活の基礎的な部分が満たされ、他人を見下していい気になる段階さえも超えてしまったとなれば、どうにかしたくなる。
何か、自分にできることはないかーー。
貧しい頃の自分なら「なにバカなこと言ってんの? ひたすら自分だけ得して、勝ち組イェーイでいいじゃん」と思うような在り方を、自分から志向していっている自分がいる。

自分自身についても、ただ生活を安穏と暮らして日々を送るだけの繰り返しに、なにか物足りなさだったり、このままでいいのか感を抱くようになった。

そうなれば。

すぐに答えが見つからなくてもいいわけだから、あれこれ物見遊山的にでも、しかも興味がないと思うものをあえていろいろ試してやってみたり、展覧会などを身に行ったりするのも手。

思考や出してる波動など、自分の状態が変わっているので、かつて一度やってみたり見聞きして面白くないと思ったものが新鮮に感じられたり、以前は苦手だと思ったタイプの人たちから好意的に接してもらえたりもします。
もちろん、ショックなことや不本意な目にも遭うリスクはある。けど、実際そうなったとき、以前ほど傷ついたり即座に被害者意識に呑まれて誰かや何かを悪者にして糾弾するような思考が起こらないことに気付いたり。

せっかく余裕があるんだから「幸せ〜」とのんびりするのもいいけど、それにも飽きたら、ね。

ちなみに卑近な例で恐縮ですが、私の場合、34歳くらいから、やりたい放題の生活を3年くらい続けて
「30代半ばで、なんなら働き盛りかもしれないこの年齢を、こんなふうに毎日極楽みたいに生きてるだけでいいのかな。自分にとってのこの世界って、そんなもんどまりなの?」
といった感慨を抱くようになりました。
気まぐれに簿記の検定受験に燃えてみたり、ほんとにあれこれ、「なんでわざわざ?」というようなことをやって。
それで、ほんとに興味ないとか、自分がそれをやっても自分も他人もあんまりプラスがないなと思えたり。
同時に、自由意思の法則があるので他人を言いなりにすることはできず、他人が絡むとあいかわらずうまくいかなかったり、自分がショボいと尊敬されなかったり。

それで、少し立ち位置を変えるだけで、自分が築いてトップに立ててると思ったことなんか、瞬時に崩壊するというか、崩壊はしないけど「視点が違う」から、それはそれ、これはこれで評価されるんだな、と。
あと、上には上がいるもので、自分はすごいと思ってたことがそこまででもないと思うしかないことに遭遇してヒヤッとしたり。

いわゆる偉人伝みたいなのを読んでもいいし、成功者が書いた自伝みたいなビジネス書を読んでもいいと思います。
多少の誇張や、都合の悪い点をカットすることはあるにせよ、まったくの嘘、事実無根ということは書けないもの。
何かの会社でこれだけの実績を出した、と数字で出るようなことは、嘘ではないはずです(よほど悪辣でなければ)。
そういうふうに、下を見て満足するんじゃなくて、少なくとも横、そしてできれば斜め上を見てみるというのも大事かと。

「えー、めんどくせ」

と思うなら、やらなくてもよろし。

何かしらのヒーリングモダリティでインストラクターなどを取得していれば、スピに興味ある人をそこそこたくさん常連受講生として抱えて、そういう箱庭の中では一番偉いセンセとして君臨していられますから。
その旨味にどっぷり浸かって「あたしはもうここでええわ」となってるヒーラーも大勢います。

大勢います。

大!
勢!
います!!

ちんまいすごさに胡座をかいて、チヤホヤされる人生、すんごい幸せだよ。そこどまりで全然OKと思えるはず。

あなたがその程度で終わっていいと思えてるなら。
わざわざそうは思わないとしても、その程度のところで浮かれて有頂天でずっとずっと醒めない夢を見ていられるなら。

ものすごい快楽だよ。
麻薬みたいなモン。
抜けられないって。
並の人間には。

ここまで来たらゴール。

それでいいんじゃないでしょうかね。
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