ビリーフアクティングでダウン症の息子が何を思ってその行動をしているのか、がより深く分かりました

ビリーフアクティングが育児にとてもいいかんじ」をお読みになった、マルチプルアバンダンス上級修了者の方が感想くださいました。

ダウン症のお子さんをお持ちの方です。

私もビリーフアクティングでダウン症の息子が何を思ってその行動をしているのか、がより深く分かりました。
息子は大好きな先輩の真似をよくするのですが、(息子は言葉は出ますが、自分の気持ちを整理して上手に言葉にすることはどうしても難しいので)何故その先輩の真似ばかりをするのか、が母親の私にもイマイチよく分かりませんでした。
しかし先日、またしても先輩の真似をしている息子に対してビリーフアクティングを試みたところ、
『先輩のことをもっと知りたい。』という気持ちから真似をしているということが分かったのです。
「〇先輩のことをもっと知りたいから真似をしてるんやね?」と訊いてみると、息子は目をぱあああっと輝かせて、「そう!そうなんだよ!」と嬉しそうに答えてくれました。
障害児の親としては、本当にありがたいツールです。
ありがとうございます。

実用性、というと世知辛いのかもしれませんが、障害児の保育などにも使える実用性があるのか、と創始者冥利に思っております。




スピリチュアルの実用性について、少し思うところ書いてみます。

スピリチュアルなことは目に見えないから、何か良いことが起きても、因果関係も見えない。だから勝手に
「これはきっと、スピリチュアルなおかげ〜」
と思い込むこともできてしまいます。

でも。

信じてない人がいうならまだしも、スピリチュアルを実践してる方が率先して自分の方からスピリチュアルが嘘やデタラメである前提で信じてないからこそ無理やり屁理屈ででっちあげる「きっとスピリチュアルのおかげ」みたいのって、もういい加減やめませんか、って思ってます。
なんでもかんでも無理やり「この恩恵は、あのスピリチュアルのおかげ」みたいに自分を洗脳するみたいに言いまくるあの痛々しさ。
信じてないんじゃん、としか思えません。

べつに科学でスピリチュアルな仕組みがすべて解明されなくてもいい。
てか、今の人類の低脳な学術的研究ペースでいえば何千年かかるかわかりません。

それよりも。

世間の常識からいえば、もしかしたら気のせいや勘違いかもしれなくても、実際に当たっている。
本当に日常生活に役立っている。病気などが治った。現実が好転した。
他人は信じなくとも自分的には、偶然ではなくて自分が何か主体的にコマンドなどをかけたことによって生じた実感がある。

なら、「そういうおまじない」みたいな位置付けで世間があくまでも冷淡に、スピリチュアルなんてインチキ、ありえないと言ってようが、知ったこっちゃないわけで。
だって自分自身で役立って当たって良い思いができてたらべつに他人がどう疑おうと関係ないわけでしょう。

「自分はスピリチュアルな技を使ってます」
とわざわざ他人に表明する必要もない。

「あら、なんでそんなにすぐわかるの?」
「ほんとに運がいいのねぇ」
なんて言われて、曖昧に笑ってスルーしてりゃいいんです。

下手げにスピリチュアルな技を使ってることを知られて、嫉妬されても面倒ですから。

そういう意味で、「奥様は魔女」のサマンサはほんと参考になります。
お向かいのグラディスさんにどれだけ魔女疑惑をかけられても、華麗にスルーして現実的な、バカな人間でもわかる程度の筋書き立てをしてあげる。
決して、上から目線で「霊能力も使えないこのクズどもが!」としない。

この記事での、スピリチュアルの実用性の話はこんなところでおしまい。

次に、スピ技を使えないいわゆるふつーの人間とされる人たちとの付き合い方について個人的雑言。

はっきりいって、超能力を使える人間にとって、それができない人間は油断するとすごいバカに見えます。
どうしようもなく愚かで野蛮で救いようがなく映ることもあるでしょう。
それでも、意味と意義あってこの世に来ている存在なわけで、気に入らないから殺して排除というのも野暮。

いかに優雅に、何様な上から目線などで裁いたり、あるいは理解あるフリで結局は相手を見下しているからこそ優しい態度をとって差別してないさまを気取る、みたいなこともせずに、霊能力や超能力を使えない人間たち(エンドラいわくの『下等動物』)と付き合うか。

そのへんも、超感覚的な能力を発達させたサイキックな人間には、お作法的に問われます。

でもお作法っていっても、本音と建前でいう建前で良いかっこするという演技じゃない。

この感想をくださった方は息子さんに対して、べつに自分が超感覚的な技を使えるからって見下していないと私は感じているのですが、そういうことなんです。

なにかの障害や、能力のなさを設定して生まれている人は、単なる現世的な能力の競争原理でいえば負け犬かもしれません。

が、そこを超えて、霊的な意味合いで
「なぜ、この人は、こういうさまで、この世に生まれてきているのか。それが最善とされる設定だからこそそうしてきているならば、何を学ぼうとしているのか。そしてそれを自分が完全には理解できないとしても、何かしらこの人がそういう在り方でこの世で生きている状態を妨げる権利などない」
ということを腑に落として、対等に、向き合う。

その、健常者とか障害者とか、超感覚的な能力が開花しているかしていないかなど根本的には問題ではないのだ、という、人と人との向き合い。

そういう境地でいれば、べつにいいんじゃないの、という。

だって超感覚が優れてる人だって、学校の勉強や工作、運動など苦手なものもあったりするわけで。
そっちの基準でいったら自分の側が負け犬扱いされて劣っている呼ばわりされても仕方なかったり。
ある1つの基準でだけ物事を見て、浮かれたり落ち込んだりするのは、それはそれで狭い了見。

なーんて。

サイキックな技が使えるというのと、人間として本当に素晴らしい人格を備えているかは、あまり正確には比例しないもの。
(ある程度、美徳を備えているかどうかなど関連はあるのですが、人格全体と正比例はしないです)

そこを忘れず、たまたまそれが得意なだけという位置付けで驕らずに生きていたいものでは、と個人的には思ってます。

知らんがな、って?

うん。そういう類いの受け止め方でいいと私も思います。
盲目的に賛同されるよりは、ずっとまし。
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