現実を創る映写機としての性能(を磨こう)

人間を映写機に例えるってのもアレですが。

スピリチュアルで「現実は自分が創っている」とよく言いますが、あれをどこらへんまでわかって言ってるか、ただそう本に書いてあってそれが正しいとスピ好きの多数派が言うからそうらしいといって単に鸚鵡返し的に言ってるか、まず分かれますよね。

で、疑ってる人、つまり「必ずしも現実は自分が創っているとは限らないのではないか、別の何かが創ってる部分もあるのではないか」と思う人(思いたい人)は、そう思える余地があるくらい、自分の意図が現実を創っている一連の流れを超感覚的に見通せてないってことです。つまり未熟ってこと。
(これ言うと、鼻で笑って『私、あなたみたいに霊視で見えないものが見えちゃう(ような変)人じゃないですもんw』と、なぜか上から目線でこちらを小馬鹿にするように言って、そう言えてる自分は常識的な、おかしいと言われずに済む人間でいることができてる安堵みたいのを勝手に感じていい気になる人いて面白いです)

ちゃんと観えるようになると、自分の生きている現実がすべて、(自分以外の誰かの意図が創造する権限を持っていて自分はそこに手出しできない領域の場合、そのどこかの誰かが創った現実が自分の生きる現実に現れることを許容するということも含めて)自分の意図が、第一希望としての思考が、まるで工業製品のように設計図どおりに部品調達されて組み立てられて出来上がる一連の流れとして観えます。
(どうやらここまで霊能力を発達させることなく死んじゃう人が大半のようですが、今どきはそれでもそれなりに、ここまで来ることができている人はそこそこいます)

いったん自分と自分が創り出した現実の一連の流れと結びつきを超感覚的に観られるようになると、同様に、他人に対しても、その人がどんな意図でどういう現実を創り出したかの一連の流れをまるごと、精密に追うことができるようになります。

私の場合、それをいろんな人、出会うほとんどすべての人に適用して、人がどんなふうに現実を創っているものなのかを学ぶサンプルとして、観ています。

そこで観えてくるのが、その人の思考のクセや制限、いわゆるブロックというもの。それから、欠落。未学習といってもいいかもしれない、要は「その人が知らないから、思い浮かべることすらできず、したがってその人の意図で創る現実には延々と出てこない物事」というのがわかってきます。

これ、ほんとに小説とか、ポスターのデザインとか、べつにプロの小説家やデザイナーじゃなくてもいいから、やらせてみるといい。
それか、写真のモデルをやらせてみて(なんならカメラもなくていいから、そういう擬似的な遊びとして)ポーズをあれこれとってもらう。
鼻歌で作曲してもらってもいいかもしれません。
そこまで専門的な何かはできないというなら、ただ雑談でおしゃべりしてもらうだけでもいい。
すると、お得意のパターン、一番すぐに思いつくものが何度も出てくるのがわかります。
いわゆる「引き出し」の量と質ですね。

生まれつきの才能やセンス(それはつまり過去生までの積み重ねたものをうまく今世に持ち越せたということでもあります)、あるいはこの人生で経験を積むなかで獲得していった新たな知識や情報、ノウハウ、技芸など全般がものを言います。

たいしたことしてきてない人は、発想が貧困。動きや喋りのパターンも、話す内容の組み立て方も、だいたいワンパターンで代わり映えしない。
しかもそれすら、テレビのバラエティで最近よく芸能人がとるリアクションだったり、その人が所属してる世代や学校、会社で周囲の人たちが言ったりしたりすることのパクリ(それもまぁ学習ではあるのですが)でしかなく、その人らしさがない。

その人ならではの発想が出てきたと思えば、現実世界でそのまま具現化できない、空想だったり、見積もりが甘いものだったり(←ただの雑談ならべつにそれでいいんですが、その人が現実的にちゃんと物事を成し遂げることをできるシミュレーション能力を獲得してるかのテストとして見るとやばいですよね)。
わかりやすいのは、建物の設計図を描いてもらうこと。
もちろんプロの建築家でもない限り、実際に建てることができない図(建物の重さを支えきれない柱だったり)を描いてしまうものではありますが、それくらい、人って、現実には不可能ということを、平気で思い描きます。
実際に現実にやって試してみるまでは、それが現実では成り立たない都合のいい妄想に過ぎないことに気づきもしません。
(そしてほとんどの場合、人は、自分が思いついていることすべてを、本当に現実で具現化可能かどうか試すような酔狂なことはしないものです)

回りくどく書いてきましたが、記事タイトルにあるとおり、

現実はその人の意図で創造するものであれば、その意図や意図を具現化する映写機としての人間のエネルギー的性能がおかしかったら、おかしな現実しか創れない

ことが想像できると思います。

そして、

この物理的時空間において重力など法則各種に照らして具現化不可能な意図は、そのまま現実化はせず、「もしこの意図をできる限り歪めずに具現化するとしたら、こう」と修正が加えられた形で現実として成立する

んです。
具現化不可能な意図は、そのままではなく、「かろうじてその意図に一番近い、具現化可能なもの」に矯正されます。

それって要は、本人が願ったとおりの形そのまんまでは現実が現れてこないってこと。
雑にいえば「アテがはずれた」ってことになりますね。
このズレが大きくなればなるほど、「願ったのにそのとおり夢なんて叶わないじゃないか!」となるわけです。
(それとは別に、たとえば何か夢を叶えたいと頭では思ってる人がいるとして、でもその人の第一希望は『本当にその夢が叶ってしまうといろいろ大変で責任を背負うことになって嫌だから、叶わないほうがいい』だから叶わないという場合もめちゃくちゃたくさんあります)

あえて皮肉にいえば、
「なんで現実を創る能力なんて高めなきゃいけないの?」
という反論?もあるかもしれませんが、残念ながらすべてこの世界に生きた人類の根本的な思考をみると、

この物理的時空間がある場でしか学べない、現実創造能力を獲得するためにここに生まれてきた

というのがあるんですよ。

つまり、この世に生まれておきながら、「え、べつに現実を創る能力を磨きたいなんて思わないですよ」と言うとしたら必ず嘘ということになります。

そして、これまた頭でわざと意地悪にツッコむなら「じゃあ仮に人間が現実創造能力を高めるために生まれてきたとして、そんなことをしても霊的成長や魂の修行には繋がらないんじゃないか(現実を狙ったとおり創れる能力なんて、物好きが発達させればいいにすぎない余興、けん玉や一輪車みたいな芸に過ぎないのではないか)」ってのが考えられますよね。
でもこれ(説明は省きますが)大丈夫なんです。現実をちゃんと意図してそのとおり創れる(≒具現化可能な意図を生み出し繰り広げるだけのものを身につけている)ことは、人間の霊的成長といった、スピリチュアルな本質、人間が向かっていくのが望ましい本来の方向性そのまんまなんです。うまくできてますね。宇宙は完璧ってそういうとき感じます。

そんなこんなで、「えー、それを延々と続けるのみ?」とうんざりする人(すでにしてる人)も大勢いるんだと思いますが、この世で人間として生まれたら、妄想や空想、頭の中の都合のいいでっちあげかもしれない屁理屈をああだこうだ論じてる暇があったら

何か現実的に具現化することを意図として生み出し、行動を通じてその意図どおりの現実を物理的に成立させることができるか否かの挑戦をする

のが、実は霊的成長の最短ルートだし、それこそがスピリチュアルな学びをなにより本質的に高めてくれるんですよね。

それは女(or男)にモテる方法でもいいし、筋トレでも勉強でも会社の営業業務でも物好きでも趣味でもなんでもいいから目標を決めてそれを達成するとか、要は

目標を決めて、その実現に向けて行動し、達成する

という営みであれば極論すれば、なんでもいいんです。何よりの学びになります。

せっかくこの世にいるのに、足も使わず誰とも会わず何も見聞き体験しないで一人で考え事(としても成立してない、ぼーっとした妄想的想像のグルグル)を続けてても、代わり映えしないんじゃないの、ということです。
(そして本人は、立派な考え事をした分の成長はできているはずだと謎のプライドや達成感を持つようになったりしがちですが、その時点の狭い、しかも現実で通用しない歪んだ空想としての引き出しの中身をなんどもひっくり返してまた引き出しに入れて、を無限に繰り返してるだけだったりします。実際、そんなにまで何を考えたんだい、と話をさせたり文章を書かせてみても、たいした内容がないことですぐ浮き彫りになります)

いま日本で暮らしていて、一番思うのは、この点についての「無意味、無価値、興味のなさ」に呑まれつつ打ちひしがれて皮肉に笑うだけの人が多いなぁ、ということ。

「そんな意識高く生きてどうすんの?www」

などと、「逆にそこを皮肉って揚げ足をとることは、どんな価値や意味がある行為なの?」と切り返したくなるくらい、ああいえばこう言う式にただ脊髄反射的に反論したり、噛み付いていい気になってるだけの人が、多い気が。

他人をさんざんからかって罵詈雑言をぶつけていい気になれるのかもしれないけど、その人の現実は何も変わらない、進展しない、本人も成長しない。それどころか、(真理に反することをしてるのを一番深いところではわかっているからこそ)自分自身が実は傷ついていくし、弱っていきます。

だって、皮肉屋ぶって、正論というかにチャチャ入れて揚げ足とっていい気になってる動機自体、ちゃんとした正論というか真っ当な道を歩むことを怖がって逃げ回るためなんですから。

面倒でもなんでも、この物理的な時空間を、この五感と肉体で、いろいろ見聞き体験してみて、頭の中でともすればどんどんズレていく妄想を是正して、いつでも具現化可能な意図を描くことができて、その意図を叶えるのに役立つ行動を(無数にある行動の選択肢の中から)選んで、具現化完了までそれをやめずに続ける。

そうやって、現実創造装置としての映写機の性能をあげていく。
色も、あたかも色相環のすべての色を映写機側で映せるように設定するかのようにあらかじめ波動のエネルギーのバリエーションを自分側に仕込んでおく。

それをいつか、輪廻転生の必要なくなるまで(≒映写機が完璧なものになるまで)続けていく。

気が遠くなるけど、その方向性に進んでいくしかないんですよね。

まぁ、それ以外の道に回り道してみようが、立ち止まって休もうが自由ですけど、なんだかんだいって本来のあるべき在り方に戻っていく、収まっていくもののようです。これまでに生きた人類たちをざっと鑑みるに。

スピリチュアルは現実とは違う精神世界、と位置付ける人もいるのかもしれませんが、私はその見方は真実ではないなぁと現段階では思えています。

この世界の現実を、ちゃんと創れるようになること。

極論すれば、それがこの世に生きる人間の動機であり目的でもあり、さらにいえばスピリチュアルな何かというのは、人がそこに到達するための何かしらの道しるべにすぎないと思っています。
(逆に、人を現実から遠ざけて、物理現実から乖離した妄想の世界の中に逃げ込み閉じこもるのを助長したり促進、煽動するのは、ちゃんとした意味でのスピリチュアルとは言えないと個人的には捉えています)

そこに、ヒーラーとして、スピリチュアルを商材・商売道具として扱う身として、どう、人様と、ひいては社会と、世界と、関わるか。

他人様はいざ知らず、少なくとも私は、そういう想いで、ヒーラー業を営んでおります。

ってやだ、たまにブログ書いたと思ったら宣伝?自慢?

うーん、なんていうか、これ読んで「そうだなぁ」と思える方だけお客様としてお迎えできたらそれでいいやという再確認的な意味合い。(←結局、自分都合)

やっぱさ、(それがたとえ霊的な真実を否定するような、部分的に見ればおかしなことや誤謬を含んでいるにせよ)一般常識に照らして非常識な、現実で何かを成し遂げることができない人がだよ、
「でもスピリチュアルは凄いんですよ」
なんて言ったところで、それはもう完全に変人だし、他人から尊敬の的にはなりえませんわな。

1人1人が、それぞれの人生という映画を撮る、脚本家兼映画監督(主演も兼ねているw)。
実際に映像を完成させられないで「構想だけは頭にあるんだ。とても鮮明に思い浮かべることができるよ」とだけ言ってたって、そんな映画監督、誰も評価できないし、実績としての映画の本数に、頭で思い浮かべただけじゃカウントもできない。
やっぱりちゃんと映像として完成させて、その出来栄えで映画監督の力量って、わかるものなんじゃないでしょうかね。

私はみんなみんなに素晴らしい映画監督になっていっていただきたい、今よりもっと素晴らしい実力の監督になっていっていただきたい、と思いながらヒーラーやってますし、プライベートでも生きてます。

(聞かれてもいない)自己紹介で終わるスゲエ記事だw
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