フィクションで悪徳をコンプリートしよう!!

美徳を整備するといろいろ悟れて、悟れた分だけこの世の試練的な制限各種が不要となり(≒常に100点満点でテストを取れる子なら補習を免除される的なアレ)、念動力や瞬間移動など超能力とされるようなこと、通常の人間なら支配下に置かれ学びを示唆される法則各種からも例外的に解放され、それどころか法則自体の働きかけ方を自在に曲げてその恩恵にあずかれること(≒修学旅行などで、学級委員として先生側の動きをしっかりサポートすると、他の生徒は寝なきゃいけない時間や行ってはいけない場所などにも例外的特例的に免除されるアレ)が起きます。

超能力の発動のためには美徳が欠かせない、という説明がされることが多いですが、そうなると
「なんで超能力のために美徳が必要なの?」
という発想になり、「?」となりますよね。
逆……ではないんだけど、上記の説明のように「まだ学びの途中だから面倒で困難のように思える設定、人生に起こってくるトラブルの体裁をとった課題etcによってできることが制限されているのがいわゆる凡人あるある」と捉えれば理解しやすいのでは。

美徳があるから超能力が発動されるんじゃなくて、

神の一部である人間はもともと、神に等しくなんでも奇跡を起こせる能力を持っている(美徳パーフェクトがデフォルト)。
ただ、この時空間に生まれてきている「状態」が(いろんな事由で)本来の力を抑制されたものなので、超能力が使えない。
その代わり、この時空間にいながらにして、美徳パーフェクトな本来の姿に近づけば近づくほど、「本来の能力」としての超能力各種がまた使えるようになる


という流れ。

で。

そんなの無理じゃね?と思えるようなこの世に人間として肉体をもって生きながらにして、本来の神としての能力を取り戻していく。
それがまぁ雑にいえば、スピリチュアルに傾倒?没頭?する人たちが目指しているところなのでは。

ただね。

それ(≒神の一部としての本来の完璧な有様を取り戻す、近づいていくこと)はこの世の片方の側面でしかない

んです。

じゃあもう片方は?

美徳という実像に当たった光によってできた影とでもいえる、悪徳を知り尽くすこと

なんです。

これ、「えー、そんなはずない!」と、幼稚な善悪でいう善至上主義、二元性でいう光と闇の光側の人は思うんでしょうねぇ……。

で、(思いっきり説明は省きますが)、悪とされるものはすべて、根源としては創造主の光でできた、雑にいえばポジティブデガティブでいえばポジティブ、善悪でいえば善なものです。
その、歪んだらこうなる可能性があって実際こんなふうに色合いが変わりますよ、というものが悪なんです。
それか、完成形・完全体としての光を、まるで焼いたケーキの料理の過程を逆再生していくとドロドロの不気味?な液体になるみたいにして、不完全・未熟な状態にしてみたらこうなりましたよ、という加工。

いわば

悪(徳)というのは、本来は完全な神のエネルギーとしての光を、Photoshopであれこれクソコラした在り方(各種)のこと

なんです。

で、この例えからわかるかもしれませんが、パロディや模倣、意図的に本来の在り方を崩すその崩し方というのは個々人で異なり、「これでおしまい、バリエーションのパーフェクト」という終点はありません。無限です。
(このことは、『フラワー・オブ・ライフ―古代神聖幾何学の秘密〈第2巻〉』にある、ルシファーが円をなぞっていくと割り切れない数になるので無限に花びらみたいな曲線が複雑になっていく図を見るとパッと見でイメージしやすいかと思います)

というように、悪は本来の光のパロディなので、波動のクソコラ職人として命を懸けるわけでもないなら、あんまり悪のバリエーションという「作品」づくりに全力を投入してしまうのも考えもの。
(でもちょっと前まで、悪のまさにパロディとしての形を人々が、特に未来ある子供が見ることで、そのパロディの崩し方の逆探知・逆再生(のパターンを身につけて)ができるようになることで、悪という歪みに免疫をつけて光を知る、本当の強い賢い人間になっていってくれという『善かれと思っての熱い想い』で、ひたすら悪のほうに突っ走る人たちがいたのは記憶に新しいのではないでしょうか。中世の酷い暗黒時代のそれぞれの国での陰惨な歴史、近現代でいっても、20世紀くらいのほんのちょっと前まで連綿と続いてきた、『なんかわからんけど善そのものをストレートにいくより、あえてヒネてひねって悪(ワル)として生きたほうがなんかスゲエ&カッコいい』感の、(いま思えばかなりダサい、けど当時はわりとみんな真剣にそう思っていた)トレンド)

悪のバリエーションは本当に無限で、今後も人類が存続していけば、新たに指紋から魂紋(こんもん)からあらゆるものがそれまでこの地球上に生きたことのあるどの人間とも違う子供としての次世代の人間が誕生して人生を歩んでいくなかで、それぞれがそれぞれの「作品」としての悪を無限に実現化していくことでしょう。
(これを悲しいと思うか腹立たしいよろしくないことだと思うかなどは個々人の価値観の問題ですが、客観的に見れば『その新たな悪のバリエーションがないままの世界』よりも、新たなバリエーションがある世界のほうが、豊かともいえます。まさに神が偉大な創造能力を持っていることを形で人間が顕したことになります。功罪という意味合いでの善悪で物事を捉えていると、この観点に到達できません&したとしても到底、認められません)

なので、このブログ記事のタイトル、悪徳のコンプリートというのは、厳密にいえば、できないことになります。

ただ、途中でPhotoshopの例を出しましたが、ほんとのAdobe社製品としてのPhotoshopをひととおり使えるようになるとわかるかと思いますが個々のクソコラ作品を具体的にどうやったか精密に説明はできなくても、

「あ、この背景にこの写真を合成して、色を変えて、ゆがみツールでここを歪ませたんだろうな」

と、だいたいその「やり方」がわかるわけですね。

で、それができるということは同時に、もとの画像がどんな(美しいもの)だったかも、見当くらいは、つくんです。

この世で悪がいろんなバリエーションで展開される根本意義はここにあります。

なにか唯一正当・正解という在り方があるとして、それはまさに「絶対、ありとあらゆる意味で&点で、そうじゃないと正解じゃない」わけですよね。
ということは、どこかがほんのちょっと違うだけで、本来の100点満点としての美しさというかは損なわれてしまうということになります。

ほんのちょっとでも何かがずれたり、うまくいかなくなっただけで、台無しになってしまう。
それって脆くて弱いと思いませんか?

一方。

本来の正当な完璧な光・美徳が歪んだ形としての悪をそこそこ以上に知り、何がどうなったから崩れた今の形になっているのか、元はどうだったのかをわかれば、強い。しなやか。

その高度な感性?コミュニケーション能力?情報というか波動というかを解析したりシミュレーションする能力?があれば、100点満点のものを常にやりとりしなくても、

歪んだ形から本来の歪んでない形に(想像などで)復元できるので、悪(ワル)っぽくありながら、おちゃらけてふざけたような在り方を通じて、実は創造主由来の完璧な美徳の素晴らしさを体現している、できている

ということになります。

ロックスターや破天荒な俳優、非現実的なおちゃらけかたをしたコメディアンなどの真骨頂、なぜにそういう人がそういう人たるのかの本当の理由はここにあります。

で。

本気で現実で、真実として悪を扱ってしまうと、病むよねw

だから、フィクションの体裁をとるの。

歌の歌詞や振り付け、踊りなどのパフォーマンス、冗談やジョークとしての会話、(ドラマや映画、アニメなど表現媒体・手法をすべてひっくるめた)演劇や小説などの創作作品の中で(善を内包した、本来の在り方のあえての暗号化、パロディとしての)悪を体現する


のが、粋。

よくさ、チャラい感じのノリや、ふざけた言葉のやりとり、悪辣で下品とされるような映画や、テレビのトーク番組。そういったものを眉を顰めて、それはいけないことだ、だめなものだという人いるじゃないですか。そういうものをなくそう、禁止(てか弾圧だよねw)しよう、というノリ、ありますよね。

ほんとに本人が糞も味噌もわからない未熟状態だから言ってることややってることがアレなのか。
それとも、高度な表現技法としての、あえてのおちゃらけ、おふざけ、お下劣なのか。

ほんとにスピリチュアルなことをわかってる人なら、このへんわかんじゃね?

わかるかなァ、わっかんねえだろうなァ。(←このネタの出典もなw)

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