人間が普通に持ってる力の偉大さ

自画他賛なだけの自慢ぽい感じで若干照れますが、あえて載せてみます。

もともと、ヒーリングのレッスンとセッションをご所望の方でしたが、話をさせていただくなかでスピリチュアル談義みたくなり、3時間以上も話し込んでしまい、レッスンもセッションも今からってどうよ的になったので、お客様にもご納得いただいたうえで、お金はいただかず、(ご所望のメニューはこなさなかったけれど話の内容などに満足された様子で)お帰りになった方からの感想です。

超斬新で奇跡的な“セッション”、期待も予想も遥かに上回って、さすがusamimiさん神がかってるなあと、感心しています。
感動と興奮がまだ冷めやらず、喜びでいっぱいです。
感動を色々とお伝えしたいのですが、おもしろびっくり、でも真剣に話をしていく中で、得るものが多かったです。
とても書きつくせないし、顕在意識に上げきれないほどです。

起こった変化としては、その後、
・声が響くようになった。(人生でずっと、声が前に出なかった)
・人と接する時、力が抜けて自分らしくいられるようになった。
・私は私でいい、私がいい、自信を持って進めばいいと思えるようになった。
・あまり心配したり恐れたりしなくなり、何もかもうまくいってるんだと思えるようになった。自分自身と裏方さん(天使や神様など)を信頼できるようになった。
・日々が、楽しくて幸せで面白く、素晴らしさや美しさにもより気づくようになった。自分が与えられてる色々な恩恵に、より気づけるようになった。
・夫と娘もごきげん。
・くじ運が超悪かったのに、くじが当たったり、他にも運がよくなった。
などがあります♪

色々なことを落とし込めたり、気づくことができました。
サイキックな力を持って生きると言う感覚や、サイキックな力なんてなくても人の力は十分にすごいこと。(十分にサイキックだということ)
サイキックな力を求めることで逆に自分の力を失うという罠からも、出られた気がしています。
自分を取り戻せた感が、すごいです。
usamimiさんから、“上から目線”を全く感じなかったことや、usamimiさんの教育への態度にも、共感と好感を持ちました。
癒すー癒される 教えるー教えられる の構図が無い方がよっぽど学べるし癒されると、改めて思いました。日本ではね、なかなか、ハードル高いですよね。
お金に関しても、お金とどう付き合ったらいいか悩んでいましたが解決できて、スッキリしました!
期待していたセッションとレッスン内容も期待以上に満たされました!
どんなヒーリング、エネルギーワークよりも一発で本当、人間が普通に持ってる力の偉大さと、枠にとらわれずに創造的に仕事をするすごさを体感しました。
どうもありがとうございました!!

セッションを""で囲っているのは、メニューとしてのセッションじゃないからこそ、「あの話がいわばセッション」という意味合いなのでしょうかね。

これといってなにかヒーリングの技法を使ったわけではないのですが、この世を1人の人間として生きるうえで、どういうものを大切にしているか、超能力ともいえるスピリチュアルな能力、ヒーリング技法をどう位置付けているかといった個人的な感慨をだらだらと喋る形になりました。

初対面の方だったこともあり、
「usamimiさんはなんでもお見通しでなんでもできるから、全部を超能力でチャチャっと叶えてハッピーで何もかも願望実現!っていうふうには生きないんですか?」
と(ワクワクした様子で)聞かれました。
ご本人もどこか、超感覚を拓いていくということはそういう(特権的な)ことができるようになっていけるということなんでしょう?と期待して取り組んでいる?ようなところがあったような。

そこで、そうじゃないですという方向性のことをお話しました。

たとえばですけど、過去生で何かしらの縁あった人と今回の人生で会った時、あるいはこれから出会いたいと思ったとき、超感覚を使って見つけ出して会い、すぐ意気投合して強力な味方として過去生のときと同じように仲良くするか、という場合。

相手は今回の人生で超感覚を拓いていないかもしれず、こちらだけが超感覚を使って「あぁ、この人とは過去生でも仲良かった」とわかったうえで、うまく関係を築けるから&どうすればそれができるかお見通しだから、相手が気にいるような態度などでうまくやる、というのは、しません。

なんか、せっかく転生までしてるのに、フレッシュさが薄れると思うんですわ。

あとね、過去生でどんだけ仲よくても夫婦とかでも、あるいは敵対して殺す殺されるの関係性だったことがあったとしても、そういうことがあってもある意味ではリセットかけて、別の関係性を築ける可能性が用意されるというのが、輪廻転生の1つの醍醐味だとも思うわけですよ。
それを、何もかもお見通しだとして、過去生でどうだったから今回もこうしようと「間違いのない戦略、作戦」みたいなものを立てて動くというのは、単純に興ざめなんじゃないの、と。

それから、自由意思の法則があるので、たとえば国民的大スター芸能人として超人気者になる、というのは、どれだけ超感覚を拓いたとしても、それだけでは具現化は難しいです。
というのも、他人を操って洗脳して、それこそ魔法をかけて自分を持ち上げてスター扱いするように仕立て上げるようなことは、できないんです。
芸能事務所のマネージャーや社長といった人、ドラマのキャスティングをする人などは、その人の自由意思で、誰を起用したいかを選びます。
「働きかける」ことはできても、最終的な決定権までを奪って自分の好き勝手にすることはできません。
そしてその働きかけ方にせよ、霊視で相手の弱みを見つけてそこにつけこむとか、超感覚をあまりにも俗物的でエゴイスティックな欲望実現のために使うというのは、個人的にはしらけます。許されないなどと倫理で意識高くいうわけじゃなく、単純に、げんなりする。おもんくない。

せっかくの、何が起きるかわからない不安でもありワクワクでもある要素、はじめから決まっているのではなくて個々人の動き方次第でどうとでも未来が変わっていくこの世の霊的な摂理、そういったものを、失敗したりびっくりしたり怪我をしたり精神的に参ってしまう危険もありつつ、だからこそさぁどうしようかという冒険心を持つことができる余地を存分に生かして、無謀すぎず打算的すぎず、かといって無難すぎることもなく、規則的でもこれといって不規則だと断じ切ることもできないペースやリズムで、生きる。

その、実はものすごくプレシャスな恩恵としてのこの時空間に存在できていることを、「失敗したくない、確実に成功できる保証がほしい」といったどこか制限ある思考ゆえに超感覚で何もかも事前に正確に把握して、ただ単にパーフェクト(完璧)だと感じるような実績で生きていけたらそれで満足なのかよ、という。

アリっちゃアリですけどね。最初から完全攻略本を手元において、そのとおりにゲームを進めて、あらゆるイベントを完璧にこなしてコンプリートしたうえでクリアするというのも。それをする楽しみもあるっちゃあるでしょう。否定はしません。
でも自分からすると、「攻略本どおりに何もかもを完璧とされるありかたでクリアしていく人生」という在り方が、そもそも完璧なのかどうかとなると、疑問だったりもして。
何を完璧と思うかという時点でまず、価値観が無限にバリエーションあるじゃないですか。
あらゆる分野で世界一になればそれでいいのか、という。
世界一ったって、たとえば世界一、背が高いのと低いのは両立できない。金持ち度合いでも頭の良さなどでも同じ。
見方をほんの少し変えただけで、何かの基準では完璧だったものが、全然そうじゃなくなってしまう。
攻略本を見てクリアしていけるのは、そもそもそのゲームが、人間の手によって完璧なクリア法はこうですよと定義されていればこそ。実際のこの世は、ゲーム的な要素ではありますが、現時点の人間がつくるビデオゲームみたいなチャチい、制限かかりまくりのものではありません。

そういうようなことを、つらつらと話していくと、(最初、この方はうんざりして、超感覚を学ぶことに後ろ向きになるのかなと思ったりもしたのですが)その人自身が根本的に抱いていたことのほうを応援するというか後押しするかの効果があったようで、

「ですよね!はじめから正解がわかっていることをただ辿るだけじゃ面白くないですよね!」

と目を輝かせておっしゃるように変化。

あぁ、そうか。自分はなんで、いろいろある自分の考えのなかでも、この内容をよりによってたまたま自分でもわからないままに思いついて話したのかといえば、この方自身が根本的なところでは未知への冒険に向かっていく心を持ちつつ、不安などあれこれ考える顕在意識が「超感覚でなんでもお見通しにして間違いのない人生を生きたほうが素敵!?」という思考も構築し、それらが綱引きのように突っ張りあって、そのモゴモゴを抱えていたからなのだなと。
ほかならぬ私がお会いしてお話しすることでこの方をもっともユニークに有益?に刺激するとしたら、こういう話をすることだったのかもなぁ、と思ったりして。



これは自画自賛というわけではないのですが、自分が、自分の頭でも把握できていないような何かしらの凄み、神がかった能力?というかを発揮することが往々にしてあるのをみて、たとえ自分自身といえども、自分はしょせんこの程度の人間だというような制限を定義する資格はないんだなと思います。
いや、偉そうにふんぞりかえるわけじゃなく。

しかもこれは私に限ったことではなく、すべての人間がおそらく、その人自身で把握できていることよりもたぶんすごいものを持っていて、それが発揮する気もない時に実は発揮する形になっていたんだよ、みたくなることって、普通にあるんだろうなぁ、と。

そしてそれはこれまた、顕在意識のバカな頭で考えてもわからないような、不思議さというか神聖さというか、個々人それぞれが神の化身として生きているなかで時折?本人も無自覚なままにスイッチが入って、しかるべくその人が世界にとって、宇宙にとってするのが望ましいことをしれっとできてしまうというのはあるよなぁ、という感慨を新たにすることにもつながりました。

これは赤ん坊もそう。
赤ちゃんや乳児、幼児、子供といった存在は、大人より劣った、愚かな存在ではないし、大人より弱いわけでも、ましてや霊的な意味で本質的に魂として価値が低いわけではありません。

こういうとたいていの人は「知ってるよ」と言うんでしょうが、知ってはいるのかもしれないけど、わかってないことも多そう。それはもちろん私自身も含めてですが。

だから、他人であっても自分自身であっても、あんまり、人間のことを「しょせんこの程度」と見くびるような、何もかもを知り尽くしたつもりでわかった気になるのは、かえって愚かしいことだったりするのかなぁ、なんて思ったりして。

……ここらへんの考え方というかが、たとえばこの感想をくださったお客様からすると、「みんな!この方向に進めばそれはすなわち霊的成長!私がお手本!私の言う通りにやってみて!私みたいになれるようになるといいわね!」的に、ある方向を唯一無二?の「正しい目標」として提示し、そこに到達できてない人間を「未熟」と断じ、「今のダメな状態から良い方へ引き上げる(ことをリードする)」タイプのヒーラーやスピリチュアリストと違うところに映ったりしたのかなぁ、なんて。

わがんね。

わがんせ。

できることをしたいようにしたいだけするのみっスね。
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