否定としての「あきらめない」は危険

ポジティブ思考が大事!ネガティブはダメ!あきらめないで!!

……みたいな少年ジャンプっぽさ全開の幼稚な前向きさは、時として危険です。

人生に起こるすべてのトラブルや嫌だと感じることは、なんらかのメッセージです。

特に、うまくいかないとか、痛いとか、不快感を呼び起こすタイプの刺激として起きてくる出来事のメッセージの方向性はおおむね「そっちじゃないよ」というもの。

だから素直に、「あ、違う?……もしかして、ここかな?ここをこう変えてみたらどうだろう?」というふうにしていけば、嘘のようにトラブルが消えて上手く行き始めたりするんです。

頑張って踏ん張ってしまうと、「違うっつーの!」と、メッセージの刺激はどんどん強くなり、大病をして頑張りようもなくなって計画が頓挫するなど、いわゆる「悲劇」が訪れます。

すべての悲劇は、最初にトントンと肩を叩かれた程度のときに「ん?何?」と振り向き、メッセージの内容を受け取り、理解し、その内容に沿った行動指針の変化などをすれば、起きないもの。
(あんまり意識高くなく、流されているようなところもあり、かといってわかりやすく堕落しまくりというわけでもない小市民的な人が、そこまでいろんな意味で大成功など傑出した出来事も味わっていないけれど一家揃って健康で仲良くて犯罪者や自殺者も出さず、みんなうまいこと結婚して子孫繁栄して……というのも、『そっちは違うぞ』というツッコミ系メッセージが来た時、無理に踏ん張らずにうまく行けそうな別の道を探してスッと移動するみたいな世渡り本能が高いゆえだったりして←華々しい成功を収めたセレブ的なエリートが良しとされる風潮が今はあるぽいですが、少なくとも数千年以上もの歴史を持つ人類がまだ科学や医学も発達しておらず病気や自然災害でわりとすぐ死んで当然な時代にもちゃっかり生き延びられたのは、こういう、『とりあえずしっかり生き延びて子孫を残す』という動物的な側面をちゃんとやる人々(生き残りスキル的にいえば超エリート)が一定数以上いてこそ、です。ビジネスでの金稼ぎなど、現代だからそれがすごいと呼ばれるだけで原始時代?にはだから何的に扱われて終わったであろう分野で天才と呼ばれるような実績をバリバリあげる人というのは、それはそれですごいですが、必ずしも人類の存続という意味でも同じように天才と呼べるかどうかはわからないんです。一生独身でこれといって性的なことに興味を示さず独身であるとか、いちおう結婚して子供はできたけどカミさんといろいろあって離婚して子供の養育費だけとりあえず払ってるというのは、動物的な意味合いで親が子をしっかり面倒みて育てるという観点からすると少なくともエリートではありません)

で。

自己啓発やスピリチュアルな教えというかが一般的になりつつある現代だからこそ起きてくる弊害なのかもしれませんが、

「そっちじゃねえよ。そうじゃねえよ」

というメッセージに、頑として歯向かっちゃう人、いるんですよね。

私がヒーラーとしていろんな人と接して来て思うのは、自分ならではの個性を認められない人。
それも、世間一般にいうエリートじゃなくてこっち、というような、本人からすると不本意なタイプの個性。

わかりやすく一流企業に勤めて出世して……というのがその人の神聖な計画やそれに沿って設定してきた今回の肉体の組成(人種や身長、肌や髪の色、容姿がその時代や国の基準からみて美貌とされるか否か、体質として頑丈かひ弱か、運動が得意かどうかetc)、得手不得手からみてそぐわない進路の場合。

「そっちじゃねえよ」

というメッセージとして、昇進試験に受からないとか、なぜか自分を毛嫌いする上司が自分を不当に低く査定するとか重要な仕事を担当させてもらえないとか、謎ふうなトラブルが起きまくります。

もちろん、「それを打破できるかどうかが問われるイニシエーションとしての課題、トラブル」もあります。
その見極めが難しいのですが(というか、だからこそ、ヒーラーやスピリチュアルカウンセラーがいるのです!!)。

「そっちじゃねえよ」系のメッセージに頑として抗(あらが)い、

「私はあきらめない!」

と真矢みき姉様の呼びかけに応えるかのようにいつまでも貫く人は、その意地によってかえって人生を実りの少ないものにしてしまいます。

何をどうやっても動かない現実、乗り越えられない壁があるなら、ある程度の期間、自分なりにあれこれやってみてもあまりにもビクともしない気配ならば、それは

しっかりあきらめるべきこと

かもしれません。

「そんな!人生には無限の可能性があるというのに、なぜあきらめなければいけないの?それはやはり敗北では?」

と思う人いると思います。

が、どうしても超えられない壁というのは実は、自分が生前に設定した、最高の人生を実現するうえで行くのがよくない方向性にガードレールとして存在しているのです。そのガードレールを設定したのも自分です。
よほど、生前に立てた神聖な計画を根っこから変えるところまでワークするならガードレールの設置箇所そのものを変えることもできるのでしょうが、そうなると今回どの両親の子として生まれたかなどまでもがすべてリセットされないと設定変更が完全にはできなくなるわけで、ほぼ不可能だと感じます。(少なくとも私はそれができた人を見たことがありません。し、そんなところまで変更する必要性が霊的摂理に照らして、あるとも思えません)

まぁでも、どうしてもあきらめたくない人は、いつまでもいつまでも、あきらめずに結果の出ない努力をして、「少なくとも私は努力できてる!ちゃんとあきらめないで前向きに頑張ってる!」と自己満足にでもニンマリしてればいいと思います。
そんな人間を他人は、社会はどう思うか、どう扱うか、何を得られるか、何を与えられるか、そもそもそんなものと関わる必要性が無いから与えも貰いもしなくていいのか、などなど、考えてそれでいいなら。



ちなみに私の場合、ちょっと前までは「万能である(はずだ)」という点に固執としてのプライドを持っており、心からは願ってもいないことをチャチャッとてがけて「できちゃった♪俺って万能!なんでもできるぜイエーイ!!」と好い気になりたくて、いろいろしていました。

が、だんだん、能力そのものじゃなくヤル気があるほうが採用されるとか、作品のクオリティでいえば自分のほうが高いのに本気でその道をキャリアとして行きて行くと神聖な計画で設定してきている人のほうが賞に選ばれるとか、本気を出せば難なくクリアできるのがあからさまな物事(難易度の低い資格試験取得など)になぜかまったく努力できないとか、自分でコントロールしきれないことが出てきて困惑しました。

ある意味それは、自由意思の法則がどのように働きかけているのか、それ以外の法則や神聖の計画といったもの、それらに基づいて選出される守護霊やその役割と働きかけ方etcを知るのにはとても役立ちました。
(世の中のルールもそうですよね。無難に普通にしてると誰からも怒られないぶん、どこまでやったらNGなのかがわからない。わざとルールを逸脱するようなことをしてみて、周りから怒られたり嫌われたり罰せられたりしてみて初めて、ルールの境界線がわかる。それの霊的版をやりまくったわけですw)

でも、ちょこざいなことをクリアできない(例:マトモに勤めるつもりもなく待遇も良くなく、仮に採用されたとしても自分の人生計画に照らしてプラスになる経験ができるとも思えない会社のバイト求人への応募)ことに、これまたちょこざいな自分の虚勢を張る意味合いでのプライドがカチンと来る。
それで何度もバイトに応募したり、資格試験の申し込みをしては1秒も勉強することなく試験本番を迎えて、どう考えてもべつに難易度が高いわけではないのに全く勉強してないから合格点をとれずに落ちる。
それを繰り返すことで、
「自分はあんな会社のバイトすら受からないのか。あんな簡単な資格試験にすら受からないのか」
という劣等感が募ってしまい、自尊心や人生を生き抜く自信までボロボロになっていき。

あるとき、
「原点を思い出せ。霊的な摂理の諸々を知るための実験としてあれこれヘンテコぽいことをしてただけだろう。本当にその会社にバイトで雇われたいとか、その資格試験に受かって職業にしたいわけでもないだろう(というか職業にして食っていけるような資格でもないだろう)」
と冷静に考え、バイトに応募して採用されることや、その資格試験に受かることなどを、

しっかりあきらめた

んですね。

そしたら、たとえばオリジナルのヒーリングモダリティをいろいろ開発するアイデアが湧いて来たり、それを具現化する作業は(作業量や大変さはあるはずなのに)べつに嫌じゃなくゴリゴリ突き進めた。寝ても覚めてもそのことばかり考えて、起きてる時間のほとんどをその作業に充ててすごく充実して幸せだった。これだ!という実感があって。
それでセミナーを開催してみたら好評で、もちろんお金も貰えて。

あぁ、そういうことなんだ、と認めざるを得ませんでした。

そもそも万能かどうかをいえば、人間全員、本来はそうなんですよね。だって全知全能の神の一部なんだから。

でも、そのままこの世に来たところで、誰もがあらゆる方向性において天才で無限に何もかもを手にいれて……とすると、この世に生まれる本来の意義(肉体や物理法則など制限があるふうな幻想で成立しているからこそ味わえる学びや喜びetc)そのものがなくなってしまう。

ちょうど30代も後半にさしかかるという頃合いで、もういい加減、若造若造した若造でいるのもなぁというのとも重なり、虚勢を張るみたいに「私、なんでもできるんです!」みたいなことする悪趣味なイタさは卒業した感じ。

そしたら面白いことに、自分が取得するのをあきらめた資格を持っている友人ができて力を貸してくれたりして、当初自分が思い描いていた「もし自分がこの資格をとったらこんなビジネスができる」という構想を、その人の協力によって実現できちゃったりと、夢が叶うようになったんです。

面白くないですか?

夢をあきらめたことで、夢が叶う

なんて。

あきらめずにひたすら、思い込んだら一つに懸ける(巨人の星)だけが能じゃない。

これ、少年ジャンプ感全開の精神年齢ガキな人には難しいんだろうなー、と思います(←さっそく上から目線w)。

でも、良い意味でのあきらめ方ができるというのも、素敵で成功したオトナの必須要件だったりして!?

んなわけないか。
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