どう先生を動かすかとか知りたい事を明確にして限られた時間を活用するかが、ワガママじゃないんだ

新年の抱負セッションを受けてくださった方からの感想です。

ヒーリングなどのセミナー開催を今年はやっていきたい、そのための準備として自分の声が嫌いで喋り方をうまくしたいので、話し方教室に通われているという方でした。

新年の抱負のセッションありがとうございました。

自分の声が好きじゃないとかどうでも良くはないけども、やる事から逃げる口実にしていてはつまらんなと思いました。

あと、話し方講座の先生に「この(話し方)講座を受けた理由は?」と聞かれて咄嗟に「自分で講座を開く為」と答えていた事を敢えて言わなかった気がして、ワークしてモヤモヤの原因も分かりました。

(ヒーラーに限らず)隠してる事を言い当てられたらちゃんと自分の事を深く理解してくれてる(愛されてる)という時間の無駄系な思い込み。

うちに来るお客様を見ていて、不健康になるような事を毎度、無意識でもしてくる方が目立つなぁと最近思ったりはしていたんですが、それでいて霊視して言い当てるとめっちゃ喜ぶ感じで。結局、不調になってくれることで、わたしにとっては、依存とまではいかなくても継続してうちに来るお客様が確保されていたわけで、悪化はしないが変化もしない固定客様にさせるところでした。
霊視への負荷も特訓のようにして、自分で上げていたんだなぁとも思います。
全部がマイナスに働くわけでは無いのも分かる微妙なメリットでしたが、マルチプルアバンダンスの「こうでなければこの社会では〜できない〜、」のコマンドが適当と創造主より言われたのでマルッと洗い流された感じです。

話が逸れましたが、今年のテーマに掲げた『自分を表現すること(自分を愛すること)』に関して、ぼんやりしたものを形にしていただけて、良いきっかけになりました。
ホームページにある各項目から選んでいたとしても、全てが繋がっていたんだなと納得できるセッションでした。
お話の中にあった、「生徒力」って本当大事だなと感じました。自分が学びたいと感じること得たい技術など、お金払ったんだから教えてよって、ただ黙って座って聞いているスタンスでは、例え先生が余すことなく知識全部晒してくれたとしても取りこぼしの方が多いんだろうなと感じました。
どう先生を動かすかとか知りたい事を明確にして限られた時間を活用するかが、ワガママじゃないんだと気づけたのもとても良かったです。

とりあえず嫌だ嫌だと嘆きながらBBAになって死ぬ気は無いので、楽しく抗って生きていけそうです。
ありがとうございました。長文失礼いたしました。

お伝えするなかで、

「本当は、やることに後ろ向きだからこそ、勝手に自分で『これがこうなっていなければできない』と一見、意識が高いかのような前向きなハードルを高くして、結局それをクリアせずモタモタうじうじして、やらないことを正当化する。逃げる口実にする」

のは人間あるあるですよという言葉が出てきました。

話し方にせよ声にせよ、「もっと綺麗な声でうまく喋れないとセミナーを開催するべきではない」と決めることで、暗に

「できてないからセミナー開催できない。できてなくてもいい(ホッと安堵のため息+してやったりのドヤ顔)」

ということにできちゃうんですよね。

それと、感想の中で出てきた「生徒力」。
感想にあらかた書いてくださってますが、要は、先生を上手に使うスキルが生徒側にある、ということです。

一昔前の師匠と弟子みたいに、絶対服従で何も考えないというのもアリだし、そうするからこそ身につくもの、そうすべきシチュエーション、そうするのが最善の場合というのは、あると思います。

ただ、全方向的に人生を預け切ってしまうほどの師事、帰依に近い習い方でないなら、ある意味、

先生とされる人、講座から、自分に本当に必要なものを上手に引き出す手練手管が必要

ってことです。

漠然と不満を抱きつつも耐えて、耐えてる自分を美化するみたいなのは、もはやナンセンス。

今は、料理学校に3ヶ月通っただけの素人が握る寿司屋がミシュランに何年も載り続ける時代です。
飯炊き3年……なんて悠長に構えている場合ではありません。

そもそも、よく考えてみてください。
インターネットもスマホもない時代、今より牧歌的で、みんなにそんなに知識がなく、ある意味ではチョロい基準で物事が動いていた時代の話でしょう。何年も下積み修行するなんてのは。

今は、とりわけ優秀な人でなくとも、器用にスマホなりなんなりを駆使して、情報を得たりできますし、物事を器用に以前の時代よりうまくできるように人間が進化してます。
(新しく生まれた赤ちゃんだけに適用されるのではなく、すでに生まれた人間たちも、バージョンアップがかかってどんどん進化していきます)

かつての時代には天才とされたような才能を、もろもろのレベルを、今の時代の凡人たちは追い抜いています。

そのぶん、競争というか、「はたしてうまくやれるかな?」というハードルは、難化してます。

「ひと昔前なら、それで十分、通用したんだろうにねぇ。評判になったんだろうけどねぇ」

という感じ。

これ、歌とかダンスとか楽器、Photoshopでの画像加工などでも、なんでもいえませんかね。

かつてなら一流のプロと名乗れたような実力を、そのへんの無名なアマチュアとされる人たちが、さらっとクリアしている。

有名になるかお金になるかは実力とは別にセールスの活動で決まってきますが、最近は芸能人にせよ何にせよ、売り方がうまくて人前に出てきはしたものの、実はそのへんの一般人のほうがはるかにレベル高いというタレントやアーティストがゴロゴロいますよね。
デキる一般人のほうがそういう芸能人を冷ややかにor生ぬるく遠くから見守る、というのがもはや、あるあるです。

そんな時代に。

「これこれが、完璧にこうすることができたら、そこで初めて、〜〜をしてもいい」

というハードルを決めて。延々とそのハードルを越えずにいるような選択をするとして。
あるいは「越えようと思ってはいるんですけどォ、でもォ、」を繰り返して、そのブロックをとるにはどうすればいいかをヒーラーに何度も相談して。足踏み、足踏み。
やがてGGI or BBA。お迎えが来た時、まだ足踏み真っ最中!
とかね。

感想をくださった方は、そこは嫌ということで、楽しく進んでいけそうとのことでなにより。

私は個人的には、ずっとずっと足踏みして、そうある自分を仕方ないじゃんだってこれこれが悪いんだから、と言い訳して人のせいにして正当化しつつそんな自分を認めてほしい愛してほしいと誰かに依存して。依存できる相手を探して被害者意識で弱者アピールして、うっかりひっかかったカモが現れたら付け入って脅迫して義務感や罪悪感を植え付けて首輪つけて支配してパシリにして尻に敷いて胡座かいて女王様っぷり満喫……みたいなクソ女を眺めて「ウンコより汚くて卑劣だなこういうバカ女。まさにウンコ。このウンコ女が!!」と茶化すのが好きなんで、全然足踏み路線でもアリだとは思いますけどね。

どっちも人間として精一杯、この人生を味わい尽くしていけたらいいと思います。どんな味かは個々人が好きに選べばいいのだし。
(私は選べないんですこんな味じゃ嫌ですと言いながら相変わらず何も行動を起こさずペロペロ嫌そうに舐め続ける人を鑑賞するのも大好きです)
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