自分の考えなのに、まるで誰かから預言があったような言い回しすんなよ

ヒーリングセッションをしていて、(わりとプライドが高い中高年女性の)クライアントさんでこういう人たまにいるなぁ、ということで書いてみます。

タイトルのとおりなんですが、会話をしていて、「あなたはどう思いますか、どうしたいんですか」と、相手の考えを伺う質問を投げかけたとき。

一般的にいえば、一人称で

「私はこうしたいと思います。こう考えています」

と答えますよね。

それを、

「あなた、〜〜がしたいんじゃないの? って感じがします」
「お前は〜〜をしていけ、という声が」

などと、他の誰かから何かを言われているような言い回しをするんですね。
(精神病としての幻聴や統合失調症の症状という意味ではなくて)

さらに(それで本当にいいんですね?などと)追い詰められると、

「お前はただこれこれをやりさえすればいい。それがお前の使命だ」

などと、末尾の「〜〜っていう感じがします」の一人称部分すら、なくなる。

人によっては、両手で耳を塞いで目を閉じて、暗示をかけるみたいに叫びながら

「お前は何も迷わなくていい!そのままでいい!ありのままで進んでいけ!余計なことを言う人間の言葉に惑わされるな!!」

と、まるっきり自己洗脳に走る人もいます。
(目の前でそういう態度をとられるこっちの身にもなってもらいたいものですがw)

面白いのは、そういう人であっても、当たり障りのない会話のときは一人称で話すんです。

重大な決意や、問題をつくりあげている土台としての思考の歪みなどに直面するとき、この第三者視点の客観的表現を使います。

そうすることで、「こう考えている部分が自分の内面のどこかにあっても、それは私のせいじゃない」という、意味不明な言い訳・責任逃れになる感じがするんです。

えー?そんな変な人がいるの?と思いますか。

でもたとえば想像してみてください。どう考えても自分が悪くて謝るしかない状況のとき。それでも、プライドや意地などがあり、どうしても相手に謝るのが癪だと思っているとして。

「私が悪かった、ごめんなさい」

と一人称で謝るのと、

「あ、私の内面に、悪かったっていう気持ちがあるのを感じる。こういうときは素直に謝ろう、って感じがするよ。謝りたい気持ちは、あるみたいね」

と客観的表現で謝る(←ことになるか微妙ですがw)のと、どっちが悔しくないですか。

まぁ、誠実な人になると今度は、客観的表現なんかでお茶を濁す自分のほうが恥ずかしくなったりもするんでしょうけど(←そういう人、いま、どのくらいいるんでしょうかね)。

心の持ちようの話なので断言はできないですが、おそらく大多数の人にとって、客観的表現で、まるで自分自身を分析するような言い回しをするほうが、上手な逃げ道を行けた感覚がして、ラクだし、ばつの悪い思いをしなくて済むという意味ではニンマリ。しかも、客観的に分析するという体裁で自分の非を認めた感じもして、「私って良い人!偉い!」と有頂天になったりもできます。

これやっちゃうとねー。せっかくの決意などから逃げ続けるから、結局、問題として変わらないんですよ。

セッションのその場しのぎとしてはうまくいくかもしれません(←私は逃がしませんが)。

でも、うまくその場を取り繕えたとして。

その後の人生を生きる指針が、結局ブレてしまう。

心底、自分で決めて悪いと思って改めてないから、変わらない。

本気で自分がこれをしたいと思っていると認めきれないから、腹もくくれない。

それでまた、都合の悪いことが起きたとき(←それは、『そんな有様じゃこの先まずいよ』という貴重でありがたいサインなのに)、また逃げる。逃げ続ける。

うまいこと、現世利益としての日常が、上っ面が、物質的側面が、体裁が、よろしく整っていさえすればそれでいい。
そのまま墓場までどんな秘密もゴミも持って逃げ切れば、自分の人生は何一つ問題のない成功、少なくとも失敗ではないと言い張れる。思い込める。(←もはや、その人の人生がどうだったかなんて、有名政治家や芸能人でもなければ身内ですら真剣には成功か失敗かを考えないし、考えるときもテキトーなこと言うだけだし、仮に何を噂されたところでその人の人生の価値を本質的に決定しうるようなもんでもないでしょうに。ていうか、誰に向かって取り繕ってる体裁なんだよ、って話。世間はそこまでお前ごとき見てねえよ、的な)

あー、でも、そのほうが大人って感じがする。

うん。それは悪いことではない、むしろ賢さだと気づけ……っていう声がする!!

そういう生き方を貫いて死ぬまで体裁を取り繕えたら勝ちだ、成功だ!それができるのも才能のうちだ!それを実行に移せたのは、一生を通じて貫けたのは立派なことだ!!

って?
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