コンクール(での受賞)、級・段位認定の是非

習い事や資格には、級や段などの認定、○○コース修了、なんとかコンクール入賞などといった、肩書きや箔付けとなるものがあります。
ヒーリングでも、モダリティとして確立されてると、いろいろありますよね。レイキでも、ファースト→セカンド→サードetcと段階があります。
(私、以前レイキでファーストディグリーだけ伝授してもらってレイキの実践会に出たら、『あなた、どこまで伝授うけた?』の質問責めに遭い、『まだファーストだけです』と答えると、失笑や下目使いで見下されたり、突然相手の態度がでかくなったり、まぁいろいろされました)

こういうのって、メリットもデメリットもあるんですよね。

デメリットとしては、先に()内で述べたように、

本来の実力と関係ないかもしれないところで、上下関係や優越感を得てしまう(ことで、自分が得た箔のうえに胡座をかいてしまう。勘違い的なプライドや自尊心が肥大化して、本来の道からそれてしまう)

ことが筆頭に挙げられると思います。

ほか、英検やTOEICに代表されるように語学には顕著ですが

検定試験目当ての勉強に偏ってしまい、試験には合格できても、本当の能力は身につかない

が挙げられるでしょう。

音楽やダンスなど芸事とされる領域になると、資格コレクターと同じ路線で、コンクール受賞歴コレクターとでもいうべき人たちが一定数、います。
英検に受かっただけの人が英語圏に行って全然英語が使いこなせないように、コンクールに受かりはしたけど、音楽家や舞踊家としては全然応用がきかない。コンクールの課題を機械的に完璧に覚えただけ……みたいな。

また、そうはいってもコンクール入賞や○段認定者を多数輩出、という触れ込みは、教える側のインストラクター・師範といった人からすると、自分の箔付けにはうってつけという事情もあります。
なぜって、日本人は特にかもしれませんが、箔に弱いからです。肩書きをステータスとみなして、それを欲するからです。
だから、生徒をたくさん集めるためにも、自分の業界内地位や教師としての名声を上げるためにも、とにかくコンクールや段位認定試験を受けさせて受からせることばかりに注力している教師がいます。そういう人が主催している教室もあります。
(そして当然のことながら? 名門的なイメージになり、実際に実力者が集まりやすくなったりして、そこそこ正のスパイラルに入れなくもないです)

で。

あえてデメリットばかりを先に挙げてきてしまいましたが、私はここでは、あまり語られることがないかもしれない?メリットについて述べたいと思います。

私は今年、某地方のとある芸事で複数のコンクールを受け、受けたコンクールすべて受賞・入賞・合格といった成績を収めることができました。
そしてその流れで、入賞者だけが出演できる発表会・コンサートにお声がかかり、まがりなりにも人前で演奏する機会を得ました。

そのことを、これといってコンクール入賞を狙わせるでもなく、実直に習い事としてその芸事を教えている知人に話すと、こう笑われました。

「コンクール入賞が箔付けになると思った?受賞できた自分はすごいと勘違いしちゃった?バッカだねえ。あんなのは主催者側が金を集めつつ、コンクールの賞という餌をぶらさげて、芸事をやめさせないようにする罠なんだよ?受賞できた快感が麻薬みたいに働いて、上機嫌にさせつつ、もっと上のランクの賞を狙いたくさせる。いちばん上の賞を獲ったら、今度は教師免許が欲しくなる。教師免許をとったら、生徒をたくさん集めて、コンクール入賞者をたくさん輩出して、先生として他の先生たちより偉くなりたくなる。キリがないんだよ。そのために何度もランク別にコンクールに出続け、教師免許をとる際にはどこかの流派の忠実な犬にならざるを得ない。栄光を与えられる体裁で、宗教みたいに束縛されるんだ。その芸事の世界に洗脳されていくんだよ」

と。
(ちなみにこう言った知人は、コンクール最上位の賞も受賞し、れっきとした師範の免許を持っている。なので、自分自身の境遇を若干、皮肉って言っているところもある。ほんとに嫌なら別の道に路線変更しているはずだから)

その教室に通う、コンクール入賞などは考えてないけど心のどこかで引っかかっているのであろう生徒さんたちからも、口々にあてつけがましいことを言われました。

「へぇー!賞を獲ったの!それじゃあさぞかし、上手いんでしょうねぇ!!」
「私の知り合いもその賞なら獲れたわよ。でもいざ演奏してみたら全然下手!こんな下手でも受かるコンクールなんて、受けても意味ないわと思った!」
「賞が欲しくて芸事をやってるの?見下げた根性ね。本当の芸って、賞とは関係ないものなんじゃないの?」

など。
(まるで私が、コンクール入賞だけに目がくらんで、点数稼ぎみたいに芸事を機械的に取り組む、芸事とは何かがまるっきりわかってないミーハーなチャラいニセモノ、なんちゃってミュージシャンみたいな決めつけだった)

あれ、メリットを書くはずじゃ?まぁしばし待たれよ。

個人的には、せっかく芸事をやっているのだから、人に合否の評価をつけられてしまうという、ある意味では下手な素人なら死んでもされたくないものに、勇気を出して挑戦してみようという純朴な想いが動機でした。
たまたま習いに行った教室が、良くも悪くも?(←悪いってことはないか)コンクールを受けることを推奨するノリのところで、ゆくゆくは教師免許もとって教える側になっていきたいという人が集まるところだったから、「それなら」と背中を押してもらっただけというような経緯もあって。

で、受けてみて、自分がまだ下手なのは自分が誰よりわかっているのに、合格しちゃっていいの?という困惑もあり。
受からせてもらっておいてなんですが、こんなに簡単に受かるならべつにもういっか、とも思ったり。
(でもそこに受からない人たちもいるので、なんとも言えない気持ちにもなったり)

そして迎えた、コンクール受賞者演奏会。

自分と同じランクの賞を獲った人たちがそれぞれ曲目にアサインされて、みなさんの演奏を聴かせてもらったわけだけど、同じランクの受賞者とはいえ実力はピンキリ。
賞なんかに浮かれてる場合じゃないなぁ、と思い知らされました。

同時に、上のランクの入賞者や、最高ランクの賞をもう随分前に受かって今は演奏会のときだけセミプロみたいに弾きに来てるベテラン(普段は会社員とかやってる)さんなんかの演奏は、ドン引きするほど上手い。自分なんかがここまでのレベルに一生かかっても到達できないかも、というくらいに。

そして、新人であっても、発表会では何曲も割り当てられ、それをソロで、あるいは自分の楽器は1人で他の楽器の人(←すごく上手い人の場合もある)たちと合わせることになったり、踊り手さんの舞いの伴奏として弾くシチュエーションだったり。
何もかもが初体験の嵐なのに、そのどれもを、「できて当然」ということを暗黙のうちに期待される。
れっきとしたプロとしての動きを要求される。
しかも、厳しくテンパってるのは新人の自分たちだけで、場慣れした人たちは「それが何か?」という感じで淡々とこなしている。
良い意味でそういう、「淡々とハイレベルな要求に応える」人たちにつられて、だんだん自分も、「それができて普通。そういうもの」と思えるようになってくる。
それが、せいぜい前日のリハーサル~当日にかけての、ほぼ1日半くらいの間で起きる。とても1日半とは思えないほど、濃厚で、自分がまるで何年も修行を積んだかのように成長できたのを感じる。
芸事は、練習百回より本番一回、と言われる理由がわかった気がしました。

そのあとで、コンクールをまだ受けてない人や、コンクールを受ける風潮がない教室に何年も通っている人と話すと、その人たちが

・コンクール入賞を、過度に高いハードルであるかのように、思い込みを膨らませて捉え、怖れ慄いてしまっている

・ある曲をちゃんとできるようになるのに何年かかる、といくらなんでもなスローペース&低レベルな習い方に慣れてしまい、実際、何年習っても上手くならない&レパートリーが増えていかない

・上手い人、プロ的に演奏会の本番や踊りの発表会の伴奏をガンガンこなしている人の実力や曲を覚えるペースを知らないため、目指すべき地点が見えず、ただ漫然と練習している(ためにいつまで経っても上手くならない)

などの状態に陥っているのがはっきりわかりました。

べつに偉そうにふんぞりかえっているわけではなくとも、井の中の蛙になっている感じ。
大海を知らないんですね。
本当の海の大きさを知らないから有頂天になる側もいれば、知らないからこそ過度に大袈裟に捉えて、自分が勝手に膨らませすぎた想像のなかの巨大すぎる海のイメージに恐怖を感じて「いいです!私はここでこぢんまりと習うだけで!」と必死でブレーキをかけて自分の伸びしろを制限して、それが安全でいられることだと思っている側も。
どっちの側も、不幸なんじゃないかな、と思いました。

私は単純に、その業界のベテランの実力、プロとしての(次から次へと別の演目を流れ作業的に、かつ1曲1曲を珠玉の名演奏としてのクオリティを外さずに)仕事をこなしていくさまを見られて、よかったと思います。

だって、

現実離れした妄想を抱かないで済む

んですもの。

それは同時に、

現実を見たことがないからこそ妄想が膨らみまくった、アテにならないデタラメな噂に惑わされない

ことにもなりました。

今の自分が業界内のどこらへんの上手さにいるのか。
そこからどのくらいのペース・練習量で上達していけそうか。
上達した暁にはどのくらい上手い演奏ができるのか(のイメージ)。

などが、具体的に把握できたんです。

一方、わけのわからない、実体のない怖れや想像だけで膨らませた、ありもしないかもしれない噂に惑わされている状態の人は、もうそのわけのわからないものに翻弄されまくって、消耗しきっちゃっているんです。
考えなくてもいいことを考え、あるいは、そっちの方向じゃないのに正しいと信じて突き進んで(当たらなくても乗り越えなくてもいい、コースから外れたガードレールとしての)壁にぶち当たってしまったり。

これ、「東大に受かるには」と例えると、わかりやすいんじゃないでしょうか。
実際に東大に受かった人たちが間近にいてどのくらい勉強ができていたのか、どのくらいのペースで勉強をしているのかを把握できたり、東大に受かるための塾に通って「どうすれば受かるか」という方向性の講師から習えていたり、東大模試を受けて順位を把握したり、をできている人は、もともとはたいした成績じゃなくても、受かる道筋が具体的に見えるし、どこまで学力を伸ばして入試で何点とれば受かるかがわかるんですよね。
一方、田舎のバカ高校的な、周りに東大に受かったどころか受けた人もおらず、そういう人がどのくらいの勉強をしているのかもわからず、過去問を見たこともなくどんな問題が出て何点とれば合格圏内なのかも知らず、したがって自分の成績をどこまでどう上げれば合格できるのかすら見当もつかないところにいる人は、そこそこ良い成績をとれていても「そんなの無理!だって、すんごい大変なんでしょう?」となってしまう。
それと同じです。

やっぱり、

生で、リアルに、実状を見る。見るだけじゃなくて、参加して、肌で感じる。
憶測や妄想でなく、事実として状況を把握する。五感をフル活用して全身で。


に尽きるなぁ、と思います。

長くなりましたが、コンクールなり、段位認定試験なり、大会や試合なり、何か自分の実力を思い知らされてしまう場、他人の実力と比較できる(比較されざるを得ない?)場、自分よりも実力が上の人間が手で触れられる距離にいる場。そういう場に行ってみるというのは、(ボッコボコのけちょんけちょんに傷ついて致命傷なまでの劣等感を抱かされてトラウマになって退場、の危険性もある一方で)口ばっかりとか頭でっかちでなく、具体的に現実的に今より向上していきたいなら、言葉では言い尽くせないほどの情報が得られます。

痛い思いをすることがあってもプライドがズタズタに引き裂かれても、自分で何もアクションを起こさず勝負にも出ないで口ばっかりでああだこうだ言って何かがわかった気になってるだけの無力なチキンでい続けるより、はるかに実りの多い人生が送れると思います。

そもそも、現実に出ていってみて、引き裂かれたプライドなんてのは、持っていても意味がないし役に立たない。
都合よく妄想ででっちあげた、架空の世界の中でしか通用しない無用の長物なわけです。引き裂かれて良かったと思う価値は十分にあるんじゃないでしょうか。現実で勝負しても引き裂かれないで済むプライドとはどんなものか、探るきっかけにもなるでしょうし。

そんなわけで、肩書きコレクターになっていないならば。
合格や認定された肩書きをブランド信仰的に求めているのでないならば。

コンクールとか、資格試験とか、段位認定などには、思い切って立ち向かうのも手かと思った次第です。そんだけ。



私は自分自身が何を隠そう、現実で勝負して傷つきたくなくて、貶されたくなくて、若い頃にはたとえば小説にせよ、音楽にせよ、演劇にせよ、勝負に出たり、現実と向き合うということをひたすら避けていました。

「私なんて才能ないし、趣味程度でいいんです」

と大嘘をついて逃げ回ってたんですね。そのツケが、冴えない中年という……。自業自得の権化。

もう、傷つきたくないだの才能がどーたら、なんて言ってるほうがアホくさいほど歳をとってしまって、自分より年下の蓮中がモノによっては審査員になったりする。それどころか、国民的大スターになったり、歴史の教科書に載るの決定、くらいの大物になったり、なんなら人間国宝認定の勢い。

「自分には才能があるんだろうか。でも勝負に出て万が一、才能がないかのようなコメントされたら傷ついてもう、生きていけないよ」
なんてクヨクヨしてる間に、この差がついてたわけです。

ちょうど神経が図太くなった中年ということもあり、
「だったら若い頃からいくらでも当たって砕けるなり、どっかしかにでも引っかかって、何かしらのおこぼれにでもあずかれたほうがナンボ、マシだったか」
とうんざりします。

そして、若い頃のほうが繊細だけれど、実は体力も精神的体力もあって、打たれても平気なんですよね。
トシとると、図太くはなるし大胆になるけれど、体力や精神的体力のほうは衰えてきて、平気なつもりで意外とあっさりガタがくる。
この仕組み、もっと若い頃に知ってたら、どうとでもがむしゃらに動きまくったはずなのに……。
いつまでも若いと思って、モラトリアム、モラトリアム、モラトリアムで、「ちょっとまって。もう少し準備してから」なんていって、ある朝目覚めて、

「もう、手遅れなんだ。。。トシをとりすぎてしまった」

と気づく。

なんてこったい。

その、歯が全部折れるほど悔しさを噛み締めて噛み締めて噛み締めて、ボロボロに泣きながらそれでもまだ少しでも何か今からでも形にできることはないだろうか?と、若い頃と比べたらすっかり減ってしまった選択肢を穴があくほど見つめて、あがいてるというのが今の私です。

若いみなさん、こんな中年にならないでね。。。
(と言っても言ってもぜったい、かつての自分のような愚行を繰り返す若者は一定数以上いるとどこかで諦めている)

ファイナルファンタジーってゲームあるでしょ?
あれって、序盤はなんとなく余裕かましてて、あのアイテムは後で獲ればいいやとか、とりあえず今はストーリーを先に進めることだけに集中しよう、なんて思ってると、終盤になったときには取り返しがつかないことになってたりするんですよね。
序盤のうちから、ストーリーを進める以外にも、あれもしておいて、この伏線も回収して、このミニゲームにも参加しておいて、と、あらゆる意味でソツなくイベントを網羅していった人だけが、終盤を余裕もって勝ち組的に迎えられるんです。
それって、現実の人生とまるっきり同じ。

まだ早いんじゃない?○歳までに~~できるようにしよう、今はまだ無理だけど……。などなど。
許されると思って自分にしている言い訳。その1つ1つが、着実に可能性を閉ざしていく。
確実に自分をショボくれた、たいしたことない中高年へと導いていくんです。
まるで虫歯みたいに。このくらいいいだろう、という油断が、チリも積もれば式に、ね。

とはいえ若い頃ならではの無茶もしたいし、遊びも満喫したい。
真面目にやってるだけが能じゃない。クソ真面目な努力家が報われないことのほうが多いこともわかってる。

だから。

ちゃんと現実を見て、どこをどうポイントとして押さえるべきなのか。どこなら手を抜いたり無視しても大丈夫なのか。
大事なポイントを外さないためには、何をどれくらいできるようになればいいのか。

それを知ることが大事なんでしょうね。

そのためには、生の、生きた人が現実にその分野の物事に取り組んでいる現場を見ること。
ちゃんとモノになっていけている人たちを選んで、その人たちの温度感や実力、やっていること、見ている視点、持っている思考を汲み取ること。
そういうできている人たちと自分がどう違うか。自分のどこを改める必要があるのかを見極めて、実際に改めたり向上できるように、空回りしない形での努力をすること。できている人たちができている上手な努力の仕方を盗むこと。
が大事なんじゃあ、なんてね。

これ、べつに若者に向けて年寄りぶって説教してるわけじゃないですよ。
すべてすべて、若い頃の自分に向けての、(今さら遅い)メッセージです。

若い頃に戦うことから怖がって逃げ回ったツケは、着実に中年以降の自分自身が払う羽目になる。
もちろん、良かれと思って成果の上がらない、空回りの努力を続けてしまった愚行のツケも同様。

「だって、しょうがないじゃない。仕方なかったんだもの」

好きなだけ、言い訳も弁明もできる。誰も聞いてないだろうけど。
自分が悪いわけじゃない。自分の落ち度じゃない、と、誰もいない空間に向かって、違う違うと両手を振って否定して。
それで何が変わるわけでもなくて。
「私は悪くない」と思い込んでそれでホッとできてしまうおめでたい人もいる。
「もしも私がちゃんと若い頃から恵まれた境遇で、しかるべき情報を与えられて、伸びていける境遇が与えられたならば、どこまでも実力を伸ばして今頃はすごい人になれたでしょうに」
とドヤ顔してしまう人もいる。
もし、たら、れば。どれも人生に存在しないものなのに。
でも、現実を見てしまったらそれこそ、自殺せずにはいられないほどの後悔と劣等感が襲ってくる。
現実と向き合う代わりに、現実から目を背け続けるスキルを若い頃からひたすら磨いてきた人は、それはそれでベテランなのだろう。

どっちにも転べない中途半端が一番惨め。

あなたが今、若いとして。どのポジションをとる?どの立ち位置で中高年を迎えたい?
あなたが今、中高年とされる年齢だとして。どのポジションにいる?そのことに満足してる?できてない場合の対処法は?

勝者からも敗者からも、学べることはたくさんあるのだろう。

ならばそこには本当の意味での、勝者も敗者もなく、「人生の先輩たち」が、多種多様な有様で生きている……そう捉えるのが、いちばん公正だったりするんだろうか。

かくいう私はもう、傍から見て自分がどの立ち位置ということになるのかすら気にする感性をほとんど失いかけている。
そしてこのまま、失ってしまうにまかせようと思っている。
火事のとき一滴の水をくちばしに含んで何往復もするハチドリのように、それが何らの成果につながらないとしても、他の誰かよりも著しく劣っているとしても、まだ死なない体を抱えて明日もまた目が覚めてしまうのならば。それを避ける手段が何一つないならば。

できることをやっていくしかない。

なんて単純な結論だろう。バカな俺にもわかるこの世のシンプルな仕組み。ありがたいこった。
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