エゴは捨てない。満たしてナンボ

スピリチュアルな考え方のなかで、エゴほど悪いもの扱いされるものもないと思います。

また、エゴというのが、もともと心理学で使われていた用語をスピ本でも使うようになった流れのためか、
「そもそもどれをエゴというのか」
が、個々人の中で曖昧でバラバラだったりの現状もあって。

で、このブログ記事のタイトルですが。

エゴと呼ばれるような自分本位な考えも、細かく分類すると、いろいろあるぽいのであえて割愛。
なんとなく、独りよがりな自己満足意欲みたいなものを総括して捉えることにします。

それはいけないことだ、といって否定し、捨て去ろうとする方向で修行だかをしてしまう人が、スピ系の人には多い印象。

まぁ、好き好きですわな。

で、個人的な印象ですが、そういう人たちの努力が実って「わぁ、本当にエゴを捨てられたんですね!すごい!」と思える人が続出していて、かつ、その状態の人が素晴らしいなと思えたら、自分もエゴを捨てようかなぁと思うかもしれません。

が。

エゴを捨てる、エゴはいけないことだと言ってる面々が、延々と相変わらずで変わってなくて、どちらかというと世間一般の平均よりもいろんな意味でのデキ度合いが低く、それによって身の回りのこともロクに満たせず、貧すれば鈍すどころか「貧すれば死に物狂いで恥も外聞もなくもがき苦しむ」の図式で、窒息か餓死寸前の人みたいに、もんどり打って傷つき、周りにも迷惑をかけている。余裕がないから、自分の欲を満たすことにしか目がいかない。それを「だってしょうがないじゃない。私はできるかぎりのことは、やってる。それでもできないんだから、仕方ないでしょう」と開き直っている。他人から白い目で見られたり、言葉などでも直接、責められたり、あるいは静かに嫌われてひんやりした人間関係内での立ち位置しか展開していかないとなると、より堂々と被害者意識に火がついて、「私は!エゴを捨て去ろうと!努力している!謙虚で!善良な!人間!なのに!周りが!意地悪で!悪人ばかりだから!苛まれている!!」と、もう支離滅裂なエゴイスティックな論旨を全開にして、「私はエゴを捨て去る!頑張る!」と、謎の気合いだけが高まり、どんどん切羽詰まっていく。
あるとき、心が折れて、手のひらを返すように「ラクになりたい」で哀れな新興宗教・カルト的にダメ人間を肯定して甘やかすスピ論の信者化。

エゴを捨てようとして、かえってエゴの奴隷に、虜になっている。エゴに自分を支配されている。
でもそれを認めるわけにはいかないから、なんとでも屁理屈をでっちあげて「これはエゴではない」と、どこかの誰かに向かって苦しい言い訳をし続ける(←誰も聞いちゃいないんだけどね、そんなの)。

エゴはいけないだのそれを捨てるのがいいことなのだなんてご立派なことをほざき放題のわりに、どっかの誰か(結婚相手や(義理も含む)親など)のスネをかじっている。
それのどこが霊的にいい方向に進んでいることになるのか、って話ですよ。

だったら。

自分のエゴが要求する無茶振りな要求を、全部応えて、満たしてあげる方向で生きればいいじゃない?ってこと。

それはそれで大変だよ?

でも、ある程度の年齢になって、何かしらの分野で大物とされる何かになった人たちの若い頃の頑張る動機を聞くと、

・自分が一番だということを証明したい、他人に知らしめたい
・自分はダメじゃないということを証明したい、バカにした他人を見返したい
・女に(男に?)モテたい
・優越感に浸れて気持ちいいから
・やればやっただけ金が稼げて贅沢ができて浮かれていたから
・(学歴や、勤務先の社名、服飾品など)ブランドを手にいれると自分が周りよりすごくなった気がして嬉しかったから

など、わりとエゴイスティックな理由だったりするんですよね。
そこまで大物でなくとも、そのへんの会社でとりあえず管理職になりましたみたいな人に若い頃のことを聞いても、だいたい似たようなことしか言わないでしょう。だいたいそんなもん。

最初から、他人だの文化や経済の発展だの、ましてや社会や国、人類のためにうんたらかんたら、なんてご立派な動機はもってない。
そういうのは、エゴを満たすことをさんざんやりきって、何十年も経って、いい加減それをやり尽くして、飽きて、次に見えてくるもの(他人への貢献の意義など)があったときに、シフトすればいんじゃね?という。

今年たまたま、某オリンピック金メダリストさんの本をつくるお仕事を担当させていただきましたが、現役時代は他人をどんな汚い手を使ってもいいから貶めて、自分が勝つことしか考えてなかったとおっしゃってました。
そのスポーツ競技がどう人の心を育てるかとか、子供たちがそのスポーツに取り組むことで情操面などでどんな教育的価値があるかなんて考えもしなかったそうです。

また、今から30年ほど前、まさにバブル全盛!の時代に、まさにバブルの申し子のように、いかにステータスとブランドもので身を固めて一般人がおいそれとは行けないような高級な店などで優雅に勝ち組の余裕を堪能するかを小説や漫画、脚本の題材に書きまくっていた作家さんなどが、今、50〜60代になり、「人生、お金じゃない、ということを若い人には気づいてほしい」と質素な服装でこざっぱりした髪でアクセサリーもつけずに力説するようになってたりする実例をたくさん見ました(実名はあえて挙げませんが、どこの誰というよりは、だいたいみんなそういう、『いっときの狂乱や若さに呑まれ、それを味わい尽くしたからこそ見えてくる達観』みたいな境地に至っている印象を受けました)。

そして、世の中、エゴが動機だろうとなんだろうと、がむしゃらに取り組んで力をつけてそれなり以上の実績を上げた人の言うことでなければ聞く耳を持たない。
仮に、何もやらずにウジウジウダウダと「エゴはよくない」といってひたすら、何かをやることを避けたり否定したり抑圧して生きてきた人間が、「これならOK」という結論に達したとして。それを誰が聞くでしょうか。誰が信じるでしょうか。どう、証明するんでしょうか。証明とまではいかなくとも、どう主張するんでしょうか。もっといえば、どのツラ下げてそんな大それたことをほざくというのでしょうか。……って話。

こう言うと、
「それじゃ、いつか善い人になるまで、エゴで荒ぶって他人を傷つけて他人から奪うような生き方をする人を許容しろってこと?」
と、眉をつり上げてPTA役員みたいに詰め寄る人が現れます。
荒ぶる実力者が神化するまでの期間、傷つく人がい続けるじゃないか、と。

じゃあなんですか。人間にはまったく間違いが許されないってことですか。
ていうか人を傷つけるのって、そんなにいけないことですか?
そこまで豪語する善人とやらは、普段、どんな生き物も殺さずに生き延びて、まったく環境を汚すことなく生活できてるっていうんですか。
あらゆる価値観が存在する中で、自分は何もしているつもりがなくても、ただ自分がいるだけで「迷惑」と感じるどこかの誰かがいないとも限らないのに。
自分は人を傷つけてない、迷惑をかけてない……と言える?
それとも、自分自身も含めて、人を傷つけたり迷惑をかけることはあるけれども、それは決して許されないことだといって、「誰も傷つけず、誰にも迷惑をかけない生き方を地球上すべての人類がする」という理想の実現に燃えるわけですか。

じゃあ赤ちゃんってどうですか。
親に迷惑かけてないんでしょうか。
誰も傷つけてないんでしょうか。

一定期間、自分の生理的な欲求一辺倒で、マナーや礼儀も知らず、ただ泣き喚いて、どこかの誰かが自分の生理的な欲求を満たしてくれるのを待っている。
そういう赤ちゃんは、ダメな生き物ってことですか。
生きてる資格がないってことでしょうか。死刑?

世界中に赤ちゃんがいて、ワガママ放題で我慢も知らずに他人(親なども含む)に迷惑をかけて傷つけるせいで、世界は酷いところになっていってるんですかね。
そういうワガママ赤ちゃんが世界じゅうで猛威をふるうことで、人類は荒廃して、傷つけられた人たちは取り返しのつかない事態に陥り、世界は終焉に向かっているということですか。

「いや、なにもそこまでは」

とおっしゃるなら、それが赤ちゃんならOKで、なんで大人だとダメなんでしょうか。

成人とされる年齢を超えてなお、生きていれば生きている分だけ学びや気づき(あるいは堕落など)変化があるし、何十歳になってもなお、
「あぁしまった。これまでの自分はなんてバカだったんだろう。これからは気をつけなきゃ」
と思う部分なんて、いくらでもあるんじゃないですか。

なんでエゴを満たす旅路の中で、その日々の中で、人が他人にある程度の迷惑をかけたり、本人も悪気はないけど拙いからなどの理由からわざとにいたるまでとにかくどんな理由にせよ他人を傷つけたりが、一切、許されないというんでしょうか。

じゃあ立派な大人がなるとされる政治家が決めた戦争はどうなりますか。
そこで派兵されて、個人的にはまったく憎いとも思っていない敵国の人間を、任務だからと殺す兵士は、許されざる罪を犯しているということなんでしょうか。

戦争が世界を滅ぼしたことがありますか。
そこまで戦争は、いけないことでしょうか。
戦争がなかったために滅びた文明がかつてあったという可能性について考えたことはありますか。

死刑は人を傷つけてないんですか。
刑務所で服役して自由を大幅に抑圧され不幸で苦しい生活を余儀なくされる囚人は、そうしている法制度をつくったり運営したり関係各所で勤務する人たちから傷つけられているといえませんか。
でもそれは法的に裁かれた犯罪者なのだからOK?
じゃあ、勝手に決まっていく法律で、国家権力だといわれて警察につかまって、本人がいいと思ってないのに「これは法律という決まりだから」と勝手に裁かれて有罪だ犯罪者だということで檻の中に何十年も入れられたり死刑という名目で殺される人がいるとして、それは学校のイジメとどう違うんでしょう?

などなど。

屁理屈のように聞こえるかもしれないけど、

・エゴはダメだ
・エゴに呑まれると人を傷つける。そして人を傷つけるのはよくないことだ

といった考え方も、突き詰めていくと「なんで?」という部分は多分にあります。

で。

ほとんどの人は、哲学者でも思想家でもないわけですから、あんまり難しいことはわからない。
毎日、合成洗剤で洗濯機で服を洗い、トイレも水洗で洗剤が入ってたりして、微細ながら自然環境を汚染してる。
食べ物はどこかの何かの死骸。自分という人間を生かすために死んだ魂。
人と人が常に完璧にわかりあい、お互いのニーズを100%満たし合い続けるなんて、現実的では少なくともない。

となれば。

たいてい、若い時分に、特に第二次性徴期や思春期とされる頃から全開になる、エゴ的な欲。
それがほとんどの人間に共通に、通過儀礼的に当然の成長の過程であるように起こってくるものだとしたら。

そして老年とされる年齢になったとき。
謙虚に善い人で周りに迷惑をかけないようにと自分自身を抑制・抑圧して生きてきた人がたいてい、表面上は笑顔だけどその実は他人を疑って信じず心を閉ざして、自分の得することだけを、自分が損しないことだけを考えている、無能で無知で誰の役に立つ能力も持っていない、みみっちいエゴイストになってるのが「世の中あるある」だとして。
若い頃は何かと問題あったけど、そのときどきで思ったことを、他人に迷惑をかけても傷つけてでも、不器用にでも、とにかく精一杯やって、やり続けて、中高年になる頃には若気の至りとしてのエゴ的な欲のほうはスッと引いていき、そのあとにはそれまで培った実力と、いろいろやらかしたおかげで積み上げた実績が残るとして。それまで赤裸々に自分というものを醜い幼稚な欠点さえもを周囲に晒したことで(嫌悪感を持つ人がいるにせよ、というか嫌悪感を持つ人たちにですら)自分がどういう人間なのかがわかってもらえて一定の信頼を得られるとして。
そのあとで改心するがごとくに、若い頃好きなだけやらかして自分の欲を満たしてじゅうぶんに満足した分、これからは世の中へ恩返しだ!といって、意気揚々と、損得で考えたら損なことも多いだろうに、ニコニコと嬉々として、まるでそれが罪滅ぼしでもあり、かつていろいろやらかしたバカで愚かでワルだった人間がより善い人間になっていけている手応えだといわんばかりに取り組んでいるとして。
若い頃にいろいろあったにせよ、とにかく、やるだけのことをやったからこそ身についた実力・経験・実績・立場などがあるからこそ、他人に奉仕する側に回るときも、それはそれで大きな成果と貢献をもたらせるとして。

ちょっとしつこくなりましたが。

あなたはそれでも、何もする前から、あれこれ頭でっかちに考えて、あれもいけないこれもいけないと(思い込みかもしれない、あるいは考えすぎかもしれない)思考に囚われて、何もせずにいますか。
何も問題を起こしていないということを誇りとして、自分自身を納得させる材料として、あるいは何かをやらかしている他人に向かって責める正当な理由が自分にはあるのだという証として、自分じゃ何もしないくせに他人を理想論で非難し続けますか。

ダンゼン!
自分じゃ何もできない・してない・する能力もないくせに、なにかとお騒がせでアクティブにあれこれやらかす人のことを、安全な場所(お茶の間、とか?)から、無責任に「あいつはダメだ」「終わってる」「クズめ」「死ね」とか、言い続けるほうがいいですよねー?
こたつでみかん、抹茶にせんべい。でもってテレビでワイドショー。
最高じゃないすか。
世の中にはこんな酷い人間がいますよ、こんなダメな人間が悪さをしていますよ、と煽り立てる報道に、
「かー、情けない」
と顔をしかめて。
そうすることができてる自分は善人の極みだ、っつって。つって。ね!!
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