自動運転思考を止める

人間は、何も考えていないつもりのときでも数千〜数万の思考を同時に走らせているといわれます。

最近、こんな本を読みました。


そこでも、自動運転と称して、いわゆる雑念が湧くことの対処法が述べられています。

スピリチュアルヒーラーという観点から、思考と心身、特に身体の状態との関連性について考えたときの悪影響は軽視できないと思います。

雑念としての思考が走っているせいで、しかもその雑念がネガティブなもので恐怖などの感情を呼び覚ますものだと、人はどんどんビクビクして怖くなり、緊張し、萎縮していってしまいます。それで免疫なども下がり、ホルモンも乱れます。
その結果、風邪をひいたり、ニキビなどの肌荒れが起きることにもつながります。

そういうものがチリも積もれば式に雪だるま化すると、「死ぬほどつらい、いろんなことがうまくいかない」人生になったりもする。

思考についてワークするときは、その思考の元になる「わたあめ製造機」と、発生した「わたあめ」に分けて捉えることにしています。

対処療法としては、わたあめ製造機自体はそのままあるとしても、稼働していない、わたあめを製造しない状態にする(≒雑念を消す)のが第一。冒頭の本で紹介した本のような、わりと一般的な「気持ちのもちよう(の変化)」法もろもろは、これですね。

そして、すでに発生してしまったわたあめを掃除して消すのが第二ステップ。
これも、リラックス法各種や、想念としてのエネルギーを消すスピリチュアルなヒーリングが有効です。

一方、根本療法としては、わたあめ製造機自体を自分の中から撤去すること。
ここまで踏み込む人は少ないでしょう。科学的には、不可能(に近い)という人も少なくなさそうです。
ただし方法がないわけではなく、たとえばシータヒーリングを(正統な方法で十分に効かせる方法で実践できたとして)通じて、思考の様式そのものを消す方法が挙げられます。
(私が知らないだけで、他にも同様の方法が現存するかもしれません。し、その可能性は十分にあると思います)



何かで抜群の成果をあげる人は軒並み、集中力と持続力(忍耐力でもある)がすごいことが挙げられますが、雑念としての思考が湧かない傾向があると感じます。

仕事に向き合っているときはもちろん、日常的にも、「もし〜〜だったらどうしよう」「私、〜〜が大っ嫌い」といった、考える必要がない雑念があまり湧いていない状態を当たり前だと思う特性を持っています。
(それはその人が子供の頃から、無意識的にでも意識的にでも作り上げてきた習慣といえるでしょう)

逆に、何をやっても長続きせず、集中がもたず、あれやこれやに気が散って不安に呑まれて、と気分と思考の移り気さに翻弄されるのが、低パフォーマンスの、いわば無能と呼ばれてしまいがちな人の特徴。

どっちがいいですか、って話。




余分な思考が自動運転的に走ってるかどうかチェックして、ワークしてみてはいかがでしょう、というご提言。


P.S

私自身、最近、自動運転としての雑念思考が気になってきてました。
以前、ヒーリングを始める前などと比べたら格段に思考は統御され、手綱を握れているほうだと思うのですが、だからこそ、「もっと」という気になって。

だってヒーリングを始める前というのは、何も考えていないつもりでも常に
「今月はあといくらしかない。ほんとにたりるかな。借金地獄に陥るような変なことが起きないだろうか」
「あの親、殺してやりたい。あんなクズたちに育てられたおかげで人生を木っ端微塵に台無しにされた」
「あいつの服、ださすぎ。顔もキモいくせになんで生きてんの?同じ会社にいたくもない」
「こんな退屈なところ飛び出して、今すぐパーっと遊びたい!」
などと、雑念だらけ。その雑念いちいちに感情が揺さぶられるので、不安や恐怖、怒り、嘆きでいっぱいでした。
これを混乱と呼ばずして、なんと呼ぼう。
それでも「え、自分はマトモな人間ですけど?」と思っているからすごい。

ヒーリングをやるようになって、いろいろみっちりワークすると、数日、数週間、数ヶ月と経つうちにみるみる変わっていくのがわかります(特に最初の2〜3年の変化は著しかった)。

今では、なんでもかんでも不平不満を気まぐれに思いついた途端にぶちまけるような類いの雑念は湧かなくなりました(わたあめ製造機自体を撤去できている)。
ただ、半ば意図的に、
「あれをしないと。同時にこのことも忘れてはいけない」
と、マルチタスキングのつもりで、複数の思考を走らせていたんですね。

でも。
ちゃんとこなせるなら、それでもいいかもしれない。
でも私の中で、「いろんな考え方すべてを同時に把握し続けなければならない(そうしたい)」という、能力不相応なこだわりを持っていました。
「いつかは、これにも手をつけて、完璧にマスターしよう」
と、いろんなことに対して思っていました。

それをすべて成し遂げれば、カッコいいスーパーマン(←この例えも古いな)なんでしょうけど、自分ごときにはぶっちゃけ、無理。
また、できたとして、世の中に対して自分の身に着けた能力などを還元するルートを整備して流していけなければ、宝の持ち腐れだということも痛感して。
なんだかよくわからない万能っぽい人になって、どうするの?何がしたいの?という疑問を持ち。

それで、優先順位をつけて、低いもの(もっといえば、この人生では結局、成し遂げられないんじゃないかと思われるもの)は、どんどん手放していきました。

そしたら、汚部屋のゴミをまるまる捨てたみたいに、脳の中が広々!
本当に取り組むことに膨大な電力を注ぎこめるというか、雑念(これも脳内の電気信号であり、それを発生させるには消費カロリーが必要)のために注いでいた分のエネルギーを全部、狙った思考に注げるようになりました。

そして、そもそもなんでそんなにいろんなことに習熟しようとしていたのかの根底には、もう10年以上も前の失恋時の劣等感が!w

自分はないものねだりなのか、自分がなりたくてなれなかった仕事の人にどういうわけか惹かれて付き合うこともあったのですが(しかも、相手の職業を知ってから近づくのではなく、直観でいいなと思って仲良くなってみたらそういう職業でしたという図式)、付き合いながらも嫉妬と劣等感が募っていったんですね。

たとえばアナウンサー。
たとえばクラシック音楽演奏家。
たとえば売れて食えてる女優。
たとえば大富豪の家に生まれたお嬢様。

いろんな流れで終わった恋愛のあれこれですが、その人と別れたということが自分の中で
「結局、自分はそういう属性の、そういう世界に生きてる人間の一員・仲間としてふさわしくないから見限られた!見捨てられた!どうせ自分はどんなにあがいてもそういうところには手の届かない、無能な貧乏庶民なんだ!!」
といった嘆きの叫びとしてずっとあったんです。
(まさに、人の死体を埋めた上に犬の死体を埋めておく的な感じ。掘り起こしても、犬の死体を見つけた時点で掘るのをやめると、人の死体に気づかない)

それが、何千・何万という思考の中に紛れてずっと存在していた。
顕在意識は気付かずスルーしてるけど、身体はその叫びをちゃんと聞いている。そして感情的に反応する。
苦悩、悔しさ、悲しみ、嘆き。
そうした感情を生み出して、細胞に蓄積していってしまう。

それが物理的な不調や病気となって現れる。

たいていの場合、人はそんな仕組みには無自覚だし、現代医学では解明できないし、ましてや機械による検査で明らかにできるわけでもない。

だから、なんとなく「ストレスでしょうか」みたいに曖昧にぼかして、とりあえず薬だけ出して様子をみましょう的な流れになる。

あるあるですね。


汚部屋を大掃除するときみたいに、ワークをするのも骨が折れますが(←ていうかまず、『よし、やるぞ』と決意するときの腰の重さったらないね)、それ以上に、まさに要らないものを断捨離するときみたいに、

「この思考、要らないかも。でも、どんなに邪魔でも悪影響あっても、持っていたい!捨てたくない!」

という固執との戦いがすごい。

で、「これはできればとっておきたい」という思考を取ってみて初めて、その下にうじゃぁ〜っと潜んでいたゴミ思考、腐った生ゴミみたいな感情の膿が……。

なんていうか、ちゃんとした思考を整備しようとするのって、部屋を掃除して綺麗にするのとほんとに似ていて、

「これしか持たない、という制限」

がつきまとうんですね。

それまで思考が汚部屋状態でもなんでも、ゴテゴテに物(=思考)を持てていた人からすると、すっきり整頓された状態を維持するためにそれ以上、物を増やさないとか、すっきり片付いたといえば聞こえがいいけど物がこれしかないという中で生きていくこと自体が、ストレスになるんです。

どうしてこんなにつらい思いをしてまで、綺麗で整頓された、余計な物を持たない暮らしをしなきゃいけないのか。なんのための人生なのか。

どんどん大げさに、被害者意識的に嫌になりますw

そこはたぶん、決意なんでしょうねー。

その整頓された状態を良いと思うようにさらに思考を変えていくこともできるでしょうけど、要はそれって、自分の価値観を大きく変化させること。

大きな決断だからこそ、メリットというか「なんのために?」が必要になる人もいるのかも。

なんとなく「そのほうがいいらしいから」じゃあ、納得できないです、少なくとも私は。
(そして私の場合は『絶望』でした。いろんなことを抱えていても、全部を処理しきれるほど自分が有能な人間でもなければ社会から求められてもいないということを認めて、『自分には無理だ』といって手放す形でした)

情けない話ですが、いろんな思考を抱え続ける負荷に、老体が耐えられなくなったんです。

いろんなことを、諦める決意をした。

そしてどんどん、思考を手放して。

楽にはなったけど、なんていうか、学校や会社をつらいから辞めた人、みたいな楽さ。今は軽くなってほっとしたけど、それだけというか。その次がないというか。

まぁでも、背負い続けて心も身体も折れるくらいなら、やむない決断だったのかもしれません。

そして、屈辱と敗北感全開でやむなくしつらえた部屋を、他人からは

「うわぁ〜、余計な物が全然なくて、整頓されてて、素敵〜♪」

と褒められる。なんて皮肉なんでしょう。

結局、人って、他人に対しては、「世間一般でなんとなく良いとされる価値判断基準」を雑に当てはめて終わり、なんですね。

特殊なこだわりを感じると、その人がよほど芸術家として認められているなどでない限りは「変な人」で終わり。
しかも、他人のことを変な人呼ばわりするその人本人が、自分自身については、同じかそれ以上に変わったこだわりを持ちまくってたりするw

もう、この社会でもしうまくやりたければ、世渡りしたければ、やむなくやらなきゃいけない妥協というか、戦略なんですね。

絶対に譲れない1点だけは、どんなに他人が白い目で見ようともなんだろうと、真っ向から戦っていく。
でもそれ以外は、いちいち波風立てて角が立っていろんな人からイチャモンつけられても面倒なだけ。
だから、服装によほどのこだわりがなければ、無難に控えめにセンス良く見えるユ○クロで統一、みたいなw

星の王子様で、「行こうと思ってもたいして行けるもんじゃない」という一節が出てきますが、それを痛感するトシになりました。

しょせん自分は、たいしたことができない。

もしかしたらもっともっと早い、ある段階で知っておくべきことなのかもしれないけど、今さら、認めざるをえないと白旗を上げた形です。

自分の能無しっぷりを、認める。

能力に見合わない思考は、望みは、捨てる。

そうして、体が悲鳴をあげないようにするほうを選びました。

ほんとは、今すぐ死ねるなら、こんな負けて絶望した状態で生き続けるなんて選択したくない。

けど、自殺はよくないらしいし(適当)。まだ生きてる。

生きてるくせに、生きたがるくせに、すぐ悲鳴をあげる。

この肉体の低能っぷりが、疎ましい。

心や霊、魂がどれだけできる状態でも、それに体がついてこない。

体を鍛えようとあれこれあがいて、工夫して、努力もしているけれど&心などはべつに折れておらず全然平気なんだけど、それでもどうしても体が拒否する。
なんとしても、強くいろんなことを成し遂げる生き方をしようとするのに抵抗する。

いや、抵抗するというより、「そんなに性能がよくないから、もたない」というのが正確な描写かも。

人一倍、子供の頃から運動して鍛えてきたのに、物理的な体力や筋力という意味での肉体は頑丈なのに、それ以外の部分で台無しw

このあといつか、肉体をうまく制御できるようになって、体が鍛えられたとして、そのときはまた、いろいろ望めるのかもしれないけど、今のひ弱な肉体では、たいした思考も載せられない。

車みたいですね。
ポンコツには、高性能の制御コンピュータなんか載せても意味ないし、つりあわない。

あらためて、心や思考、霊的エネルギーと肉体の調和の重要性を知りました。

都合がいいかもしれないけど、今の自分はまるで

「ほんとは頭いいのにいろんな理由で大学進学できず高卒で一般職で就職したので会社では雑用しかさせてもらえず出世の見込みもないヒラのままの職員」

みたい。

やれる可能性はあるのに、いろんな思考を持つだけの何かはあるのかもしれないのに、肝心の肉体がダメ。

それだけで、すべてがパァ。

こういうのって、あるんだなぁ。。。

悲観的な愚痴みたいになりましたが、要は「心身霊魂のバランスがとれてこそ、何かができる」1つの例として捉えてもらえたらと。

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