いつまでもデブと思うなよ・電子版プラス

読みました。
  ↓


ちょい前に新書で出て流行ったダイエット本。
飲み食いしたものをメモする(だけ)の、レコーディング・ダイエットが一世を風靡した感あります。
著者が栄養学やフィットネスの専門家ではなくヲタク学とでもいうべき分野の学者さんで、このダイエットで50kg以上も痩せたことがインパクトと説得力を増した印象。

レコーディング・ダイエットにも、段階があるんですね。

まずは記録をするだけの段階。どんだけ食べ過ぎでもそれはべつによく、とにかく飲み食いしたらそれをすべてメモする。
この時点でかなり痩せる人がいるとか。
(私はなんと10日間で4kg痩せました)

そして1日の摂取カロリーを1500kcalにする段階。

それが定着すると、著者が証明するとおり、何十kgもの減量も夢ではない、と。

運動について全く触れていないのも特徴的。

個人的には、ダイエット理論やその有効性もさることながら、まえがき的に述べられている「これからの時代は外見至上主義」に、感銘を受けました。

外見至上主義とは文字どおり、見た目からの印象でその人を判断する考え方のことですが、これからはそれが、これまでよりも顕著になるであろうと著者は予測します。
その経緯というか理由というかにも言及してるのですが、「かつてのような、家柄や学歴による人の判断が頼りにならないということがわかってきたから」と、ツッコミを入れようと思えば入れられるけど一理あるなぁ、という内容がてんこもり。

ある意味では、外見至上主義なんて、差別的だと思うわけですよ。
「人間、中身が大事」とはいまどき、幼稚園児でもすぐ言えます。
でも、この言葉ほど上滑りするというか、まともに取り合われないことが多い概念も珍しい。
そもそも、相手の情報をこれといって書類などで与えられていない場合、人は何で人を判断するんでしょうかという話。
雰囲気からの直感? ではその雰囲気って何で作られてるんでしょう? 直感って、どこからくる、どんな基準での判断なんでしょう?
結局、外見なんですよね。少なくとも一次審査としては。

そして大多数の世間一般の人は、デブを嫌います。
偏見としての嫌い、というニュアンスも多分にありますが、多かれ少なかれ、「病気」「異常」「普通のことを普通にできない劣っている証」といった、「人として何かがダメになっている」意味合いで捉えています。

本人も無自覚なところで、デブを見ると
「あ、ナメてOK。俺より下の存在。三枚目で面白いいじられキャラ。心は優しい善い人なんだろうけどだから何、デブなんざまともに相手する必要ないザコ。クズ」
と見下し、侮った見方をする人がほとんどです。
もしくは、「かわいそうな人だから優しくしてあげなきゃ」と、実は見下しているからこそ親切に接するといった、歪んだ扱われ方をします(そういう人は、デブが下手(したて)に出ている間は笑顔で優しいのですが、その人を超える能力があることを見せたりすると途端に冷たくなり『何よ生意気にデブのくせに。可哀想だから優しくしてやったのに勘違いしてつけあがってんじゃねえよ』と敵視してきます)。
この場合、問題はデブを見下す人にあるわけですが、もしその人に何かしらの決定権があるとか、デブである自分の評判を形成する集団(例:会社の同僚)の一部になっている場合、「デブを悪く思うお前がおかしい」とデブが吠えたところでそのデブが世渡りに失敗することは想像に難くありません。

著者も述べていますが、デブは、自分の評判が、もう少し人格というか、発言内容や取り組んでいる行動に基づいて形成されると信じています。
でも「デブ」という時点で、大多数の人は判断を終わらせます。
デブがどんな偉業を成し遂げようと、なにか立派な実績を打ち立てようと、ほとんど見ていません。
「でもデブじゃんw」
でおしまい。

過剰にデブを嫌う人が最近のアジア(もちろん日本も含む)で増えた原因を霊的に見ていくと、いろいろあぶなっかしいものがあるにはあるし、デブを偏見なく見られるようにみんながなっていくに越したことはないでしょう。
でも大きな流れとしては、デブを「100%誰が見てもどう突っ込んでもOKな欠点」とみなす傾向が確かに強くなっていくようです。

どうしてもデブい体型でいたいならそうするのも自由だし、少数派とはいえデブを良しとする人たちとの人間関係を充実させ、デブ嫌いな人との縁を切っていけば、幸せに生きていくことは可能だと思います。

ただもし、べつに自分がデブでいたいというこだわりがなく、できれば自分のイメージが悪くなる要因は潰していきたい……という場合は、いまデブなら脱デブするというのは、大変かもしれないけど成し遂げる価値のある最も手頃な属性チェンジではないでしょうか。

P.S
いまどきは紙のメモより、スマホのアプリで食べたものを記録するほうがやりやすいかも。
かなり使いやすいものがいくつもあります。


=自分で1ヶ月、レコーディング・ダイエットに取り組んでみての感想=

「全然痩せるつもりないし、痩せるわけねーだろ」

というつもりで始めたのですが、始めて2〜3日も経つと、食生活への美学が芽生えてきました。

自分の場合、デブのわりには摂取カロリーが極端に多いということがなかったのですが(普通は『こんなに食べてたの?』と驚く)、それでも、栄養が偏っていたり、外食ばかりだったりと、「ある1日の食事を理想的にできたか」を考えると残念なことに気づきました。

摂取カロリー過剰がないのにデブっている私にとって、原因の1つはこの「偏食」にあるのではと着目。

それで、4〜5日目くらいからは、食事のタイミングと栄養のバランス、食べるものの質というかにこだわり始めたのです。

べつに高級食材だけを食べるとか、オーガニック食材のレストランに通うとかではなくて。

食べる時間を一定間隔にしたり、コンビニで飲み物を買うときは無調整の豆乳を買うようにしたり、身近なこと。

そんなこんなで10日間、体重計にも乗らずに、食事制限もせずに、あえて運動も休んで、食事記録だけしてみたのですが、なんと4kg減。

あっけにとられました。どういうこっちゃ。

ある意味、腹立たしかったです。
必死で運動したり、頑張って食事制限して痩せなかったあの日々はなんだったのかと。

そしてその後も記録は継続し、3週間が過ぎる頃には、記録の習慣は定着したし、そもそもその日に何を食べてどのくらいのカロリーでどのくらいの栄養かが頭で目安として覚えていられるようになりました。

そして、ドカ食い欲のようなものもなくなり。
自分は食べたメニューを一覧から選択すると摂取カロリーも加算されて画面に表示されるアプリを使っていたのですが、はじめのうちは

「え、一食、外食して普通に食べただけなのに、こんなにカロリーいっちゃうのかよ」

と面白くなかった。

でも10日で4kg痩せたのを知った後は、

「カロリー神話は嘘、とはいうものの、なんらかの目安にはなっているのかもしれない」

と、本に書いてあったことを思い出し、

「たった一食であんなにカロリーいっちゃうならもったいない」

と、外食でドカンとカロリーを摂取してしまうのを避けるように。

同時に、低カロリーの一品料理などが、2〜3品目となれば塵も積もれば式にけっこうなカロリーになることも再認識。
(サイゼリヤの199円メニューなど、ヘルシーでよさげなものが実は何品も頼むと危ない)

逆に、低カロリー至上主義に陥って、たとえば春雨ヌードルスープなど「一食たったの○kcal!」みたいな謳われ方をするものを食べると、栄養がたりず、また満腹感にもつながらないことを学習。

それで結局、
「適度にカロリーも栄養もボリューム(食べ物としての体積)もあるものを、適量、食べる」
のがいいという、当たり前といえば当たり前の結論に到達。
そして、何が適度なカロリー・栄養・ボリュームで、どのくらいが適量かも感覚的に学習。

食べ方に気を使うためか、食べた後に眠くなったり体が重く感じたり、どのくらいお腹にたまっているかの感覚が鋭くなりました。

そうなると、たとえば糖質過多なものを食べて体が重苦しく眠くなり摂取カロリーも跳ね上がり、それによって1日のうちに食べられる残りの食べ物の量も減り、そのわりにたいして栄養も採れてないというのは単純に損失だなぁと思うようになりました。

これまた当たり前のことですが、目先の欲を満たすために何かをドカンと食べると、必ずそれは自分自身でツケを払うことになるのだ(逃げきれないのだ)ということも痛感して。

実年齢が中年にさしかかってきているというのもあり、食べるものの質が大事だなと思うようになり。

同じ1日1500kcalでも、どんなものを食べての1500kcalなのかを意識するようになりました。

そして今は、まだ始めて1ヶ月経っていないほどなのですが、いろんなファストフードを美味しいと感じなくなってきています。

以前のように、味の濃いポテトチップスを食べても、あの麻薬のような高揚を感じない。
これはいい栄養にならない、余計な成分が入っていて嫌だ、という体の本音のほうが優ってしまうのです。

そして食べる量を制限しようと意識しているわけではないのに、自然と外食1人前を頼んで食べていても、半分〜1/3くらい食べただけで、
「充分」
と思えます。
満腹感が満ちて、それ以上食べるのは毒と感じる。
(申し訳ないかもしれないけど残します)

そして、頼んでもどうせ残してしまうと思うともう、外食の店に入らなくなる。
(お金がもったいないので)

そして、外食などをしたのと同じ値段をどうせかけるなら、と、それまでは買うことを躊躇した、ちょっと割高だけれど食材の質がよく栄養バランスもとれている惣菜などを買うようになりました。

まさか3週間でこんな変化が起きるとは思わなかった。

それまであった

「たくさん食べ物を好きなだけ食べられないのは貧しさ」

という思考がなくなりました。
(途中で気づいて解除しました)

私は、子供の頃に食べるものやお金(もらったお年玉など)を親から抑圧されていたことで、

「食べるものがないのは、お金が自由に使えないのは、貧しさ。自分が奴隷として制限を受けている状態」

と捉えるようになっていたのでした。

それで、大学進学で親元を離れてからは、好きなだけお金を使い、食べたいだけ食べることで

「もう自分は自由だ!もう貧しくない!!」

と主張できた気になっていたわけです。
でも、いくらお金を使っても、食べても、思考パターンとしては
「私は自由を抑制されている」
があり続けるため、無限に繰り返すんですね。

わざーと、必要のないものにお金を使い、食べたくもないものまで無理してたくさん食べる。

「俺は自由だ!もう束縛されてない!欠乏状態じゃない!ほらみろ!こんなにお金も食べ物もあるぞ!」

と、痛々しい自由アピールを続けていたんです。

それは、さよなら。

この思考のワークをスピリチュアルなヒーリングでしっかりやったら、食べ物に対する意識がまったく変わってしまいました。

むやみに食べたくならない。
ちなみに、お金もむやみに使わなくなりました。
(それまでは、毎週、ダンボールゴミの日に、『引っ越ししてきた人?』と思われるほど大量のダンボールを出す始末。毎日何箱も、amazonや楽天から商品が届いていたのです)

まだ体重自体は何十kg単位では減っていないのですが、早くも「他のデブたちを見て、(病んだ)デブ思考に気づく」ようになりました。

自分がデブであることや、食習慣などのもろもろについて、デブはそれぞれ、哲学といっていいほど立派な信条を持っています。
そして、「デブはダメ。ダイエットして標準体型になれ」という、日々、自分に襲いかかる「敵」に対しての反論を、理論武装を、鉄壁なまでにします。
私自身、それをしているタイプでした。

が、体型ネタになったときなどに他のデブが自説を力いっぱい展開するのを見て、その言ってる内容の歪みや都合の良さ、破綻などにすぐ気づくようになりました。
そしてデブが「デブでいいんだ!」と主張する(姿がいかにおかしいか)を目にするたび、それは逆説的に「やっぱり、デブじゃないほうがいいんだな」と思う契機となりました。

そもそも私はもともとデブだったわけではなく、どちらかというと美しい体型をキープしてる人ばりにバランスがいい体型だった時代が長く、体型維持のための意識というかも高めで、しっかりちゃんとできているほうでした。
23歳のときに人生に絶望して、わざーと負け犬としての余生を無様に惨めに生きてやる!と逆ギレして非行に走る一環としてデブ化したという流れです。
だからこそ、我に返るというか、デブを肯定するひねくれた思考を自分で取り入れる前の自分を取り戻したり、またいつ、どうして、どんなひねくれた思考を取り入れてしまったのかにも気づきました。

一言でいうと、「誰得?」という感じ。

なんていうか、
「もともと顔立ちや骨格もバランスがとれていて一般的にいう美形なのに太ってしまって、それがイケデブという魅力に結実している……のに、本人は自分の魅力に気づかず、『痩せたい』とコンプレックスに思っている。そういう人が可愛い♡」
という、どこの誰ともつかない誰かの勝手な好みを、この身で体現してあげようとしていたのでした。

雑に言えば、デブ専を喜ばせるために自分がデブになってあげるというか。
頼まれてもいないのにw

洗脳されていないつもりで、人間は洗脳されているというか、自分の意見だと思って言っていることが全然そうじゃないことがこんなにあるんだ、と思わされました。

体型だけでなく、仕事選びや生き方、社会的階級といったものまで、(新卒で希望する職に就けなかったので)どうせならどこかの誰かに明け渡してしまおう、と自暴自棄になっているのを思い出し、確認できました。

本当はできることを「できない」と演技したり、本当にできない人たちと「仲間〜」と群れたり、人生を棒にふるつもりで、自分の人生を虐待してケラケラ笑うみたいなイタズラなつもりで、自分本来でないものになりきろうとしました。
もっといえば、本来の自分というものを粉々に打ち砕いて消し去ろうとしたわけです。
(なぜなら本来の自分を発揮したい職業に就けなかったから)

そこから、「仕事での成功だけが望み、生きがい」となっていることも再検討。
ほんとにそれでいいの?と。

ちょうどよく今の時代は、かつてのように「大物芸能人は永遠のスター」といったブランド感覚で人の一生の価値をなんとなく決められる時代ではなくなりました。

「就きたい職業に就けなかったというだけでなにもかも自暴自棄になっているけれど、じゃあもし、就きたい職業に就けていたとして、どうなの?」

と考えてみたんです。

いまどき、超大物とされる人だって、いろいろ紆余曲折や突然のまさかの何々、がある。
(前からあったんでしょうけど今はネットなどの普及でいろんな人の身に起きたことがわかりやすくなってるんでしょうね)

一方、無名のサラリーマンですら、新卒で就職した会社で順当に出世・昇給して定年を迎えるなんて珍しい。

つまり、仕事での成功というものを、ひと昔ふうの、まさに10代の自分の感覚で憧れとして捉えているけれど(&それが叶わなかったからこそ、現実的なイメージに修正されることなく憧れのまま放置されてしまっているけれど)、そんなものあるのか?と。

それよりは、形として仕事とされる職業で成功したかどうかも広い意味では人生の一部。
そして、世間で有名になったから成功というわけでも、無名だから失敗というわけでもなくて(←それは愚かなテレビ教信者)、自分が、仕事の成功さえもを人生の一側面と捉えて、どんな納得する生き方を創っていけるかなんじゃないの、と。

そうなると、新卒で、どこぞの会社からその職業名で採用されることは、あくまで形式でしかないということがわかります。
裏返すと、会社に就職してその肩書きがあるからその職業なのだというわけではなく、自分がその職業的な人間として生きていられるかどうかなんじゃないのか、と。

実際、タレントを目指して芸能事務所やオーディションを受けまくるフリーターよりも、別の路線で自分の信条を貫いてきた人(某デブ女装とか)が、一流芸能人として花を咲かせるなんていう例も珍しくなくなりつつある。

そういうふうに考えを改めて、

「新卒で目指す職業に就けなかったから負け犬。そして負け犬は惨めな一生を送るべき」

という思考で自分を虐待することから自分自身を解放しました。

第一、誰が自分のことをなんといって騒ぐかどうかさえ、外野の声。
そういう周りの反応のほうを優先すると、承認欲求に呑まれた名声乞食になる。

ちょうど、中年で神経が図太くなりはじめたこともあり、

「なぁ〜にが新卒での就職の失敗だ!だからどうした!うるせえよ!俺はいつでもいつからでも、生きたいように生きてやるよ!」

といった開き直りも起きて。

自分をデブにし続けて、虐待し続ける必要がどこにある!?

というところに至りました。

これだけの思考の変化が3週間のレコーディング・ダイエットで起きるんだもん。

もちろん3週間の使い方によっては、逆に思考が変化して「デブ至上主義」になることもできるんだと思いますけどね。

なんていうか、数週間という時間で人がどこまで変われるかについて新しい可能性を見出した気がしました。

同時に、根拠はないけれど、変なふうに自分が自分以外の考えにまたどんどん染まって人生を虐待していく……というのは起きない気がします。
一度は見て知っておきたかったけどそれは一度で充分、という感じ?

あと何年かで40代。

そろそろ、年貢の納め時なんでしょうね。

自分はデブ時代を汚点とは思いません。

醜く太っていたわけじゃなく、(特にガチムチ至上主義のゲイや大柄な体格好きの女子からは)ヒエラルキーの頂点!くらいの勢いで、かっこよく魅力的なデブだったと思います。

感覚としては、相撲取りが引退して、体重を二桁kgに戻すような感じ?
せっかく一度は頑張って手に入れた体重と力が、失われるに委ねる。
積み重ねたものが、なくなる。

その大いなる喪失。
(ここは、醜く贅肉で太ってしまったと感じている人なら感じない感慨かもしれません)

その喪失をも受け入れる覚悟。

ちょうど、若いころに美貌を売りにした女性が老人となっていくのを受け入れるような感じ?

過ぎ去ったものにしがみつこうとしても実りない、という割り切り。

これからどんどん自分が痩せると思うと、正直、涙が出ます。

大切に可愛がって育てた家畜を自分の手で屠殺するような覚悟。

少なくとも私にとっては、大幅に痩せることは、そこまで手放しで喜べることではありません。

でも、ここから先の自分にとっては、デブでい続けるメリットのほうがない。
むしろ、デメリットのほうが大きいといえます。

何かを手に入れるためには、何かを手放さなければならないこともある。
私にとってそれが体重、体型です。

これからは、若い、逞しいガチデブを愛でるほうに回ります(笑)。
体を大きくすることに前向きで野心的で、でっかくなれたことに純粋に喜びと誇りを感じていられる、若い男を。
自分には過ぎ去ってしまったその時期を懐かしむように、あの高揚をまた思い出せるように。
そして、(世間がどれだけ痩せた体型至上主義の偏狭なものの見方に染まって行こうとも)ごつくてでっかい男はかっこいいんだ!ということをわかってくれて体現している次世代の男たちがいることに安堵もして。

こう書くと変な性的な好みについて言ってるみたいですけど、どちらかというと純粋なというか、清廉な気持ちで、
「今のお前のその姿は美しいよ」
と褒め称えるような気持ちで、大きいガタイに憧れ・手に入れ・謳歌する若い男たちを思います。
そうできていることがいかに幸せなことか。
それが許される年代がどれだけ奇跡的な恩恵か。

自分にはその年代が終わりかけているからこそ、切に思います。


P.P.S

私が太り続ける固執から解放された最大のきっかけは、(魂の)息子の一言でした。

「もう年も年だし、成人病も怖いから、健康的に痩せていくことにする」

息子は36歳。地方で生活しているので、東京で生きているよりも、ジジイ扱いされたり自分を年寄りだと思うことが多いようでした。

息子は体重100kgくらいのバルキーマッチョデブを最高の美と捉える価値観の持ち主で、本人もそれを実現しようと努力し、できているクチでした。

その彼が、痩せるという。

相変わらず、体重100kg前後のゴツデブ至上主義は変わっていないとのこと。
だけど、痩せようと。

つまり彼は、せっかく目指して手に入れた自分の理想を、将来的な健康のために手放すことを決意したわけです。

そこにどれだけの葛藤があったかは、聞くまでもありません。

そして息子のその発言を聞いた時、自分もそれまで頑なに無理していた部分が、するっとほどけました。

アラフォーのおっさんが言う言葉ではないのかもしれないけど、

「青春は、終わったんだな」

と思いました。

なんていうか、10代の青春とは別に、20代の青春とか、30代の青春とか、もっといえば40歳までの年代の青春とか、「青春」って単語は不適切かもだけど、あると思います。その年代だけに許された、特別なあり方というかが。

私の場合は20〜30代を、大人ではあるけれどまだモラトリアム的でもあり子供でもあり未来に期待する若さもある時代と捉え、その時代ならではの在り方を存分に謳歌してやろうという気持ちもあったのです。
(これ、SATCの影響が大きいと思います。早い人は20代前半で結婚して現実まっしぐらだけど、30代半ばになってもまだ20代みたいに若々しく時に愚かしく生きるSATCの面々のような生き方を自分は選びたかったのです)

それが、終わる。

もっと写真を撮っておけばよかったのかな。

でも、今から2〜3年前に撮った写真の自分には、今の自分はもう勝てない。

あぁ、折り返し地点をすぎたんだ、と思いました(笑)。

ナルシスト丸出しで恥ずかしいかもだけど、デブだデブだと一般的には貶されたけれど、私はこの体型に誇りを持っているし、美しいと思っています。
(そして言い訳するわけじゃないけど、いわゆるデブ専の人が好きそうな、ぶよぶよした肉感ではありません)

まぁでもね。

花は枯れかけたら、思い切って切ってしまうほうがいいらしい。

みすぼらしく、盛りを過ぎたこの肉体の美しさにしがみつくよりも、きっぱりとやめます。

もう、量産型おじいさんに向けてまっしぐら。

しかるべく、骨と皮だけのヨボヨボになっていかないと。様式美って大事だと思うし。

ってなわけで、生きることそのものへの欲をすべて捨てた出家としての決意で、私はこのまま脱デブしていく予定です。
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