タイムリープ(Do Over)からの学び(万人向け)
まどマギみたいに、ある時間が何度も繰り返されることをタイムリープと呼ぶらしいですね。
Do Overと呼ぶ人もいます。日本語だと「やりなおし」と訳されたりもして。
信じる信じないは別として、かつてこの時間があったとき、なぜに失敗(というか、とある、結末の在り方)したのか。じゃあ今回は前回(まで)と同じ轍を踏むことなくどうしようとしている(人が多い)のか、について少し書きます。
まず、直近の前回かどうかは定かでありませんが、
「ちゃんとした」「できてる」人たちが、「準備ができてない」「グダグダで波動が低い」人たちを無理やり引き上げようとしてぶっ壊れた
ことがあります。
(ぶっ壊れた、とは何が起きたのかはここでは触れません)
ちょい前?の受験戦争のように、「高学歴こそ絶対の正解!」といって詰め込み式の学習をさせ、ペーパーテストの点数をぐいぐいあげていくやり方。まるでフォアグラ用の鴨に無理やり餌を食べさせまくるようなやり方です。
それをスピリチュアルというか、精神面でも社会が大々的に「これぞ正しいやり方!」として、展開した。
完全に、北風と太陽でいう北風側のアプローチです。
波動が低かったり、幼稚な被害者意識メインの思考パターンで些細なことになんでも怒りや憎しみ、悲しみといったネガティブな反応を示し、そうした感情を湧き上がらせ、自他共に毒していく未熟な人たちをスパルタ式に
「それじゃいかん!なんたることだ!!」
といって、崇高な教えだかなんだかのもとに導いて、とにかくネガティブを捨てされ!エゴを克服しろ!愛に満ちたこういう在り方をしなきゃダメだ!……と、ひたすらすべての人に押し付けていったんです。
これ、ある意味では、迫害ですよね。グチャグチャと幼稚なところでネガティブ感情にまみれてグダグダして怖れを基盤に、霊的に成長していくほうを恐がっていつまでも前に進まずにいる……という在り方を選んでる人たちからしたら。
それで……、あ、この先は触れずにおくお約束でしたね。
で。
今回。
前回(まで)の反省を踏まえて、別の展開を起こすにはどうすればいいんだろう?とみんな、深いところでは考えて(きて)います。
それで、(私もちょいちょい述べてきてますが)
・エリート化しない(=いわゆる高い水準の良いとされるもの至上主義の価値観だけで人類全体を導かない)
・オタクに期待
・ゲイに注意
という3本柱?があります。
「は?なんで?」
と思う人もいるかもしれません。
そういう人をいちいち納得させるのは到底、無理なので、前回とどう違うかについてすでに起きてると感じることを述べます。
エリート化しないという流れは、インターネットが普及し、そのなかでもツイッターなど庶民的なカルチャー(それまで、身内には見せていたくだけた在り方を、『それはそれで1つの大切な本音なんだよ』と認める的な)の台頭に顕著だと思います。
それまでは、例えばいま30代の私が学生時代のときですら、オトナ社会はもっともっと形式的で何もかも完璧に演出して(=とりつくろって)、絵に描いたような礼儀と理想の体現ができてなきゃダメだ的なものがあった気がします。
文書や話し言葉なども、もっともっと、堅苦しいのが一般的とされていた。
が、「ぶっちゃけ」という言葉が流行語の域を超えて定着したように、そういう仮面をみんながそれほどつけなくなってきつつあると思います。
SNSが生まれたことで、政治家や有名人とされるような、かつてなら権威ある特別な人というイメージの人たちが、庶民とされる一般人となんら変わらない感性や嗜好性を持っているとみんなが気づいた。
一般人の間でも、良い会社に勤めてたりするエリートとされる人は、そうではない人と根本的に何か違うのだ……という思い込みが、薄れた印象があります。
その反動?で、「やっぱり学歴は大事」とか、「みんな同じだなんて幻想www もともと生まれた家柄から育ちから、金持ちエリートには庶民は敵わないwww」といった極端な思想も局所的には生まれたりして。
(でもその極端ふうな断言がかえって、『そう強く主張しないと崩れてしまうほど、普遍性を持たない思想なのだ(ろう)』ということを暗に示してもいて?)
今もなおその過渡期だと感じますが、いろいろみんなが良い意味でグチャグチャと議論なり論争なりを経ることで、
(学歴・家柄・社会的ステータス・所有財産など)形としてのエリートじゃなくて、現実でモノを言わせられる能力を持ってれば有能
ということが(一部、まだそれを認めたくない、まさに真の有能さで勝負できないからこそステータスを誇示することで優位に立ちたくて仕方がない人たちの反対・拒絶もありつつ)浮き彫りになってきている感があります。
同時に、形式的なカタさが払拭?されて、みんながぶっちゃけ合うからこそ、
(お互いに嘘と建前で塗り固めたハリボテとしての、演出された『ちゃんとしてる感』とは別の)本当の意味での気遣い、マナー、魅力
といったものに焦点が当てられるようになった+そういう価値観で人を見ることができるようになった、人が増えてきているような。
ぶっちゃけあったからといって、人類みんながナァナァのグダグダになるかといったらそうでもない。
むしろ、形式で守られるものや(ほんとは嫌いで尊敬してないけど、立場上、相手が上とされるから仕方なく丁寧に接するなどの)建前が通用しにくくなってきている。
地位や役職を手に入れたからと、それがまるで水戸黄門の印籠のような特別な威力を発揮した時代ではなくなってきているんです。
もっといえば、年齢的な上下関係、男女の性別による区分さえもが、かつてほどには問題とならなくなってきました。
年上だからといって尊敬されるわけでもない。でも老年だからと甘く見てもらえるわけでもない。
若いからといって軽んじられたり、また容赦してもらえるわけでもない。
男だから問答無用に女より優遇されることもなく、また女だからと蔑まれることもない。
ある意味、シビアで世渡り難易度が上がってきているといえます。
でもそれは同時に、チャンスが広がることでもあるでしょう。
かつてなら「それをするには若(or老け)すぎる」「男(or女)には無理だ、合わない」などとされたものが「そうでもないよ♪」と、実力次第でまかり通りやすくなっているわけですから。
今後は、「子供は黙ってろ」「年寄りなんだから優しくして」「女のくせに出しゃばるんじゃねえよ」「男なら結婚したら妻子を養ってよ」など、かつての(本来ならおかしいともいえる部分があった)価値観にしがみついて、実力や自律・自己管理といった精神力で勝負できない弱者が、いかにも自分は礼儀をわきまえたチャラチャラしてないマトモな人間だといった面(つら)をして、結局は依存でしかない権利を声高に主張する図式もちらほら随所で見られるでしょうね。
そう、形式としてのエリート化をしないほうが、実は難易度が高いんです。
かつてなら、印籠を掲げれば誰もが自分の言うことをきいてくれたであろうに、今そしてこの先は、自分がどんなに肩書きなどで立派でも、「ふぅ〜ん、で、それが何? 肩書きとかどうでもいいからさぁ、俺はアンタという1人の人間と交流してるわけ。で、俺の目から見てアンタがすげえ奴かどうかは、俺が見極めるわけだよねw」などと言われて終わり。
前回より進化の可能性はあると個人的には感じています。
もちろん、難易度が上がる分、ついてこられない人も出てくるでしょうが、そういう人はひとまず(あの世に)退却して、いろいろ養ってからあらためて、強い遺伝子の家系にでも転生して勝負してちょんまげ、って感じ?
あぁ、3本柱の1本目でこんなに文章量がw
2つめのオタクに期待というのは、上記までとカブるところありますが、一見変わっているとみなされる在り方でも、何かをつきつめたり、権威に流されないとか、生活の金のために義務で働く人にはできない情熱を持ってるとかに可能性があるということです。
やりようによってはそれまでの、「しかるべく学歴を身につけて良い会社に入ったら無難にペコペコして上の言うことを聞きつつ取り入って、出世コースを辿れば老後も安泰」などとなんでも上手に割り切って動く人には超えられない限界を、オタクならゴリゴリと誰に言われるまでもなく行けちゃうものでは、と。
実際、影響力のある映画やアニメ作品、Webサービスなどが、どうしようもなくオタク、な人によってつくられていることは、よくありますよね。
「オタク=キモい社会的落伍者」という偏見的な括りで見下すのは愚かすぎます。
(前回まではそれでうまくいかなかったとすらいえます)
3本目のゲイに注意は、すっっごく紛糾の可能性があるので、ここでは慎重に。
注意、というのは、「危険だから排除しろ」という意味だけではありません。
ただ、注意というのは気をつけろということでもあるのは確かです。
現在、急速に各国そして日本でも同性婚が制度化や合法化されていますが、そういう形式を生むに至った「同性愛を認めよう」の流れ、同性愛とされる在り方を手放しに容認することは、世界平和なり社会の発展なりに直結するとは限らない可能性があります。
私が個人的に要注意と思うのは、真性ゲイというより、仮性ゲイ。もっといえば、偽装ゲイの存在。
いわば、真性ゲイにもある意味、失礼(といえるかもしれない)。
いろんな歪みで、非行としてゲイを自称し、ゲイ的な生き方に染まることで良い気になってる的な人たち。
(つまり、その歪みが癒えた姿はゲイではなく異性愛者という人たち)
本来はセクシャリティで同性に惹かれるのをもってして同性愛と定義していたはず。
が、本当に同性とセックスするのは嫌で、同性にそこまで本当に動物的本能で性的に惹かれているわけでもない仮性ゲイはそういう、「ゲイなんだから同性とやろうぜ」というシンプルさ+ガチさには、耐えられません。
ゲイということにしておきつつ、ほんとにガチで同性とセックスするという真剣?深刻?ある意味、「踏み絵」的な局面には、陥りたくないんです。
だからこそ、ゲイリブと呼ばれるような社会運動的な立場だったり、ゲイナイトと呼ばれるクラブイベントなど「周辺」のところで動こうとします。
たいてい仮性ゲイは狡猾で知能が高い傾向があるため、真性ゲイなだけの素朴な人は、コロッと流され、影響を受けてしまいます。
それこそ、真性か仮性かは別として、雑誌や口コミ的に何か「これがゲイってもんだ」とされるものが謳われれば、やすやすと染まってしまいます。
(昨今は『シャイニーゲイ』といって、家柄に始まり学歴や勤務先企業名、ルックス、肩書きや外見の良さで人気ある友人関係など、それってある意味、昭和時代のサラリーマンの男のステータス競争をゲイ版に置き換えただけじゃん的に、ゲイヒエラルキーでの立ち位置の高さを自慢?する流行があるそうです。それなんかもう、どこにもセックス自体が介在しないファッション。あくまで『イケてる子とたくさんセックスができてる(という勝ち組的な)』印象づけ、ハッタリのかましあいでしかありません。しかもそれすら、口先だけというか、格付けはあくまで人の妄想内にしかない、子供のごっこ遊び同然。だってべつに、『この子とこんなセックスを何回しました』と正確なデータを嘘偽りなく全員が深刻したうえで、ランクづけを適正に評価したわけでもない。言ったもん勝ち。取り繕ったもん勝ち。厳しい見方をすれば、単なる現実逃避なんです←あくまで個人の想像ですが、ほんとに同性とセックスがしたい(だけ)の、真性ゲイであれば、そんな周辺のハッタリ合戦なんか世界一どうでもいいから、とにかく自分がほんとにヤれてるかどうかだけしか気にしないはずでは?)
(量産型ゲイ、とゲイたちの間で揶揄しあう?ように、ゲイたちの間で支持されるカルチャーに染まりきってしまうと、女性ファッション雑誌に洗脳されたバカ女よろしく、みんな同じ見た目を志向してしまうようです)
この、「本来の性的な意味合いを抜いた、カルチャーとしての、脳内ゲームとしてのゲイ(らしさ)」というもののほうが一人歩きするのが危険のようです。
「でもゲイなんてどうせ、一定数しかいないから社会的には問題ないのでは?」
という反論はもっとも考えうるものです。
が、私が予見している危険は、どちらかというと、もう、ゲイかどうかという、本来のセクシャリティの意味の範囲内のことではありません。
ゲイカルチャーが培った、「中身のない、脳内ゲームとしての勝ち負けやヒエラルキーの上下といった幻想(的価値観)」の図式、考え方が、ゲイ以外のいろんな分野に飛び火して変容してどんどんモンスター化することを危惧しています。
(ずる)賢い人なら、ゲイカルチャーの変遷を客観的に見て、洗脳ノウハウとでもいったものを見出してしまいます。
もともと確かにマスコミなどでも似たり寄ったりの手法は展開されてきましたが、もっとターゲットを絞って大々的な効果を上げる方法を、見抜いてしまうでしょう。
そして、ゲイという属性以外の領域に適用しはじめたら。
「え、ゲイ以外の属性というと?異性愛者ってこと?」
いえいえ、だからもうセクシャリティの領域ですらない。
冒頭に述べたように、これからは肩書きとしてのステータスは、それ自体あまり価値を持ち得なくなる傾向があります。
家柄、学歴、会社名、所有資産の額etc
でも、どうしてもそれを印籠として使いたい場合は?
ゲイカルチャーの図式からうまく人々を煽動し洗脳するノウハウだけを抽出して、家柄バージョンや学歴バージョンなど、世間一般とされる領域に適用したら。
それを行政や法制度といった、社会的強制力のあるもの各種まで総動員したら。
まだ、仲間内で「あんたは負け組ブス、アタシはシャイニーの勝ち組♪」と幼稚園児のごっこ遊びのようにキャイキャイはしゃいでるゲイなんか、かわいいもんです。
でももし同じような図式を、影の政府と呼ばれるような世界的エリートが
「ほう、面白いw この手法をうまく取り入れれば、我々の理想とされる社会の実現に有益じゃないか」
と思ったとしたら。。。
なぁんてね。
あー、やだやだ。
現実がタイムリープしてる?なんて信じるのォ?バッカじゃないの?
そんなこと言ってる暇があったら夏休みの宿題を終えてしまいなさい♪(←意味深)
それに何?オタクが力を秘めている?ゲイの集合意識がゲイという属性を抜いてその極端な差別意識や階級格付けの部分だけ別の一般的な属性に適用される?
ほんと、暑さで脳みそにウジでもわいちゃったんじゃないの?
これだからスピリチュアルなんてほざいてる頭のおかしい連中は困るのよねぇ?
でせう?
怖くない、怖くない……。(ガブッ)うっ!
ほら、怖くない!!
Do Overと呼ぶ人もいます。日本語だと「やりなおし」と訳されたりもして。
信じる信じないは別として、かつてこの時間があったとき、なぜに失敗(というか、とある、結末の在り方)したのか。じゃあ今回は前回(まで)と同じ轍を踏むことなくどうしようとしている(人が多い)のか、について少し書きます。
まず、直近の前回かどうかは定かでありませんが、
「ちゃんとした」「できてる」人たちが、「準備ができてない」「グダグダで波動が低い」人たちを無理やり引き上げようとしてぶっ壊れた
ことがあります。
(ぶっ壊れた、とは何が起きたのかはここでは触れません)
ちょい前?の受験戦争のように、「高学歴こそ絶対の正解!」といって詰め込み式の学習をさせ、ペーパーテストの点数をぐいぐいあげていくやり方。まるでフォアグラ用の鴨に無理やり餌を食べさせまくるようなやり方です。
それをスピリチュアルというか、精神面でも社会が大々的に「これぞ正しいやり方!」として、展開した。
完全に、北風と太陽でいう北風側のアプローチです。
波動が低かったり、幼稚な被害者意識メインの思考パターンで些細なことになんでも怒りや憎しみ、悲しみといったネガティブな反応を示し、そうした感情を湧き上がらせ、自他共に毒していく未熟な人たちをスパルタ式に
「それじゃいかん!なんたることだ!!」
といって、崇高な教えだかなんだかのもとに導いて、とにかくネガティブを捨てされ!エゴを克服しろ!愛に満ちたこういう在り方をしなきゃダメだ!……と、ひたすらすべての人に押し付けていったんです。
これ、ある意味では、迫害ですよね。グチャグチャと幼稚なところでネガティブ感情にまみれてグダグダして怖れを基盤に、霊的に成長していくほうを恐がっていつまでも前に進まずにいる……という在り方を選んでる人たちからしたら。
それで……、あ、この先は触れずにおくお約束でしたね。
で。
今回。
前回(まで)の反省を踏まえて、別の展開を起こすにはどうすればいいんだろう?とみんな、深いところでは考えて(きて)います。
それで、(私もちょいちょい述べてきてますが)
・エリート化しない(=いわゆる高い水準の良いとされるもの至上主義の価値観だけで人類全体を導かない)
・オタクに期待
・ゲイに注意
という3本柱?があります。
「は?なんで?」
と思う人もいるかもしれません。
そういう人をいちいち納得させるのは到底、無理なので、前回とどう違うかについてすでに起きてると感じることを述べます。
エリート化しないという流れは、インターネットが普及し、そのなかでもツイッターなど庶民的なカルチャー(それまで、身内には見せていたくだけた在り方を、『それはそれで1つの大切な本音なんだよ』と認める的な)の台頭に顕著だと思います。
それまでは、例えばいま30代の私が学生時代のときですら、オトナ社会はもっともっと形式的で何もかも完璧に演出して(=とりつくろって)、絵に描いたような礼儀と理想の体現ができてなきゃダメだ的なものがあった気がします。
文書や話し言葉なども、もっともっと、堅苦しいのが一般的とされていた。
が、「ぶっちゃけ」という言葉が流行語の域を超えて定着したように、そういう仮面をみんながそれほどつけなくなってきつつあると思います。
SNSが生まれたことで、政治家や有名人とされるような、かつてなら権威ある特別な人というイメージの人たちが、庶民とされる一般人となんら変わらない感性や嗜好性を持っているとみんなが気づいた。
一般人の間でも、良い会社に勤めてたりするエリートとされる人は、そうではない人と根本的に何か違うのだ……という思い込みが、薄れた印象があります。
その反動?で、「やっぱり学歴は大事」とか、「みんな同じだなんて幻想www もともと生まれた家柄から育ちから、金持ちエリートには庶民は敵わないwww」といった極端な思想も局所的には生まれたりして。
(でもその極端ふうな断言がかえって、『そう強く主張しないと崩れてしまうほど、普遍性を持たない思想なのだ(ろう)』ということを暗に示してもいて?)
今もなおその過渡期だと感じますが、いろいろみんなが良い意味でグチャグチャと議論なり論争なりを経ることで、
(学歴・家柄・社会的ステータス・所有財産など)形としてのエリートじゃなくて、現実でモノを言わせられる能力を持ってれば有能
ということが(一部、まだそれを認めたくない、まさに真の有能さで勝負できないからこそステータスを誇示することで優位に立ちたくて仕方がない人たちの反対・拒絶もありつつ)浮き彫りになってきている感があります。
同時に、形式的なカタさが払拭?されて、みんながぶっちゃけ合うからこそ、
(お互いに嘘と建前で塗り固めたハリボテとしての、演出された『ちゃんとしてる感』とは別の)本当の意味での気遣い、マナー、魅力
といったものに焦点が当てられるようになった+そういう価値観で人を見ることができるようになった、人が増えてきているような。
ぶっちゃけあったからといって、人類みんながナァナァのグダグダになるかといったらそうでもない。
むしろ、形式で守られるものや(ほんとは嫌いで尊敬してないけど、立場上、相手が上とされるから仕方なく丁寧に接するなどの)建前が通用しにくくなってきている。
地位や役職を手に入れたからと、それがまるで水戸黄門の印籠のような特別な威力を発揮した時代ではなくなってきているんです。
もっといえば、年齢的な上下関係、男女の性別による区分さえもが、かつてほどには問題とならなくなってきました。
年上だからといって尊敬されるわけでもない。でも老年だからと甘く見てもらえるわけでもない。
若いからといって軽んじられたり、また容赦してもらえるわけでもない。
男だから問答無用に女より優遇されることもなく、また女だからと蔑まれることもない。
ある意味、シビアで世渡り難易度が上がってきているといえます。
でもそれは同時に、チャンスが広がることでもあるでしょう。
かつてなら「それをするには若(or老け)すぎる」「男(or女)には無理だ、合わない」などとされたものが「そうでもないよ♪」と、実力次第でまかり通りやすくなっているわけですから。
今後は、「子供は黙ってろ」「年寄りなんだから優しくして」「女のくせに出しゃばるんじゃねえよ」「男なら結婚したら妻子を養ってよ」など、かつての(本来ならおかしいともいえる部分があった)価値観にしがみついて、実力や自律・自己管理といった精神力で勝負できない弱者が、いかにも自分は礼儀をわきまえたチャラチャラしてないマトモな人間だといった面(つら)をして、結局は依存でしかない権利を声高に主張する図式もちらほら随所で見られるでしょうね。
そう、形式としてのエリート化をしないほうが、実は難易度が高いんです。
かつてなら、印籠を掲げれば誰もが自分の言うことをきいてくれたであろうに、今そしてこの先は、自分がどんなに肩書きなどで立派でも、「ふぅ〜ん、で、それが何? 肩書きとかどうでもいいからさぁ、俺はアンタという1人の人間と交流してるわけ。で、俺の目から見てアンタがすげえ奴かどうかは、俺が見極めるわけだよねw」などと言われて終わり。
前回より進化の可能性はあると個人的には感じています。
もちろん、難易度が上がる分、ついてこられない人も出てくるでしょうが、そういう人はひとまず(あの世に)退却して、いろいろ養ってからあらためて、強い遺伝子の家系にでも転生して勝負してちょんまげ、って感じ?
あぁ、3本柱の1本目でこんなに文章量がw
2つめのオタクに期待というのは、上記までとカブるところありますが、一見変わっているとみなされる在り方でも、何かをつきつめたり、権威に流されないとか、生活の金のために義務で働く人にはできない情熱を持ってるとかに可能性があるということです。
やりようによってはそれまでの、「しかるべく学歴を身につけて良い会社に入ったら無難にペコペコして上の言うことを聞きつつ取り入って、出世コースを辿れば老後も安泰」などとなんでも上手に割り切って動く人には超えられない限界を、オタクならゴリゴリと誰に言われるまでもなく行けちゃうものでは、と。
実際、影響力のある映画やアニメ作品、Webサービスなどが、どうしようもなくオタク、な人によってつくられていることは、よくありますよね。
「オタク=キモい社会的落伍者」という偏見的な括りで見下すのは愚かすぎます。
(前回まではそれでうまくいかなかったとすらいえます)
3本目のゲイに注意は、すっっごく紛糾の可能性があるので、ここでは慎重に。
注意、というのは、「危険だから排除しろ」という意味だけではありません。
ただ、注意というのは気をつけろということでもあるのは確かです。
現在、急速に各国そして日本でも同性婚が制度化や合法化されていますが、そういう形式を生むに至った「同性愛を認めよう」の流れ、同性愛とされる在り方を手放しに容認することは、世界平和なり社会の発展なりに直結するとは限らない可能性があります。
私が個人的に要注意と思うのは、真性ゲイというより、仮性ゲイ。もっといえば、偽装ゲイの存在。
いわば、真性ゲイにもある意味、失礼(といえるかもしれない)。
いろんな歪みで、非行としてゲイを自称し、ゲイ的な生き方に染まることで良い気になってる的な人たち。
(つまり、その歪みが癒えた姿はゲイではなく異性愛者という人たち)
本来はセクシャリティで同性に惹かれるのをもってして同性愛と定義していたはず。
が、本当に同性とセックスするのは嫌で、同性にそこまで本当に動物的本能で性的に惹かれているわけでもない仮性ゲイはそういう、「ゲイなんだから同性とやろうぜ」というシンプルさ+ガチさには、耐えられません。
ゲイということにしておきつつ、ほんとにガチで同性とセックスするという真剣?深刻?ある意味、「踏み絵」的な局面には、陥りたくないんです。
だからこそ、ゲイリブと呼ばれるような社会運動的な立場だったり、ゲイナイトと呼ばれるクラブイベントなど「周辺」のところで動こうとします。
たいてい仮性ゲイは狡猾で知能が高い傾向があるため、真性ゲイなだけの素朴な人は、コロッと流され、影響を受けてしまいます。
それこそ、真性か仮性かは別として、雑誌や口コミ的に何か「これがゲイってもんだ」とされるものが謳われれば、やすやすと染まってしまいます。
(昨今は『シャイニーゲイ』といって、家柄に始まり学歴や勤務先企業名、ルックス、肩書きや外見の良さで人気ある友人関係など、それってある意味、昭和時代のサラリーマンの男のステータス競争をゲイ版に置き換えただけじゃん的に、ゲイヒエラルキーでの立ち位置の高さを自慢?する流行があるそうです。それなんかもう、どこにもセックス自体が介在しないファッション。あくまで『イケてる子とたくさんセックスができてる(という勝ち組的な)』印象づけ、ハッタリのかましあいでしかありません。しかもそれすら、口先だけというか、格付けはあくまで人の妄想内にしかない、子供のごっこ遊び同然。だってべつに、『この子とこんなセックスを何回しました』と正確なデータを嘘偽りなく全員が深刻したうえで、ランクづけを適正に評価したわけでもない。言ったもん勝ち。取り繕ったもん勝ち。厳しい見方をすれば、単なる現実逃避なんです←あくまで個人の想像ですが、ほんとに同性とセックスがしたい(だけ)の、真性ゲイであれば、そんな周辺のハッタリ合戦なんか世界一どうでもいいから、とにかく自分がほんとにヤれてるかどうかだけしか気にしないはずでは?)
(量産型ゲイ、とゲイたちの間で揶揄しあう?ように、ゲイたちの間で支持されるカルチャーに染まりきってしまうと、女性ファッション雑誌に洗脳されたバカ女よろしく、みんな同じ見た目を志向してしまうようです)
この、「本来の性的な意味合いを抜いた、カルチャーとしての、脳内ゲームとしてのゲイ(らしさ)」というもののほうが一人歩きするのが危険のようです。
「でもゲイなんてどうせ、一定数しかいないから社会的には問題ないのでは?」
という反論はもっとも考えうるものです。
が、私が予見している危険は、どちらかというと、もう、ゲイかどうかという、本来のセクシャリティの意味の範囲内のことではありません。
ゲイカルチャーが培った、「中身のない、脳内ゲームとしての勝ち負けやヒエラルキーの上下といった幻想(的価値観)」の図式、考え方が、ゲイ以外のいろんな分野に飛び火して変容してどんどんモンスター化することを危惧しています。
(ずる)賢い人なら、ゲイカルチャーの変遷を客観的に見て、洗脳ノウハウとでもいったものを見出してしまいます。
もともと確かにマスコミなどでも似たり寄ったりの手法は展開されてきましたが、もっとターゲットを絞って大々的な効果を上げる方法を、見抜いてしまうでしょう。
そして、ゲイという属性以外の領域に適用しはじめたら。
「え、ゲイ以外の属性というと?異性愛者ってこと?」
いえいえ、だからもうセクシャリティの領域ですらない。
冒頭に述べたように、これからは肩書きとしてのステータスは、それ自体あまり価値を持ち得なくなる傾向があります。
家柄、学歴、会社名、所有資産の額etc
でも、どうしてもそれを印籠として使いたい場合は?
ゲイカルチャーの図式からうまく人々を煽動し洗脳するノウハウだけを抽出して、家柄バージョンや学歴バージョンなど、世間一般とされる領域に適用したら。
それを行政や法制度といった、社会的強制力のあるもの各種まで総動員したら。
まだ、仲間内で「あんたは負け組ブス、アタシはシャイニーの勝ち組♪」と幼稚園児のごっこ遊びのようにキャイキャイはしゃいでるゲイなんか、かわいいもんです。
でももし同じような図式を、影の政府と呼ばれるような世界的エリートが
「ほう、面白いw この手法をうまく取り入れれば、我々の理想とされる社会の実現に有益じゃないか」
と思ったとしたら。。。
なぁんてね。
あー、やだやだ。
現実がタイムリープしてる?なんて信じるのォ?バッカじゃないの?
そんなこと言ってる暇があったら夏休みの宿題を終えてしまいなさい♪(←意味深)
それに何?オタクが力を秘めている?ゲイの集合意識がゲイという属性を抜いてその極端な差別意識や階級格付けの部分だけ別の一般的な属性に適用される?
ほんと、暑さで脳みそにウジでもわいちゃったんじゃないの?
これだからスピリチュアルなんてほざいてる頭のおかしい連中は困るのよねぇ?
でせう?
怖くない、怖くない……。(ガブッ)うっ!
ほら、怖くない!!
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