努力はタイプ別に。(コツコツ=メンテ用、ガーッと=向上用)

コツコツ努力する、継続することの大切さは(主に庶民の間で)さんざん話題にされますよね。
そのちょっとしたコツコツ継続ができない人も多いから、永遠のテーマ的になっていて。

ただ。

全員が絶対にそう、とは言い切れませんが、あくまで傾向として、

コツコツ程度の努力では、能力は向上しない

があるかと。

でもこれ、「コツコツとはどのくらいか」を数値で示せないから、議論が紛糾しやすい分野だとも思うのですが。

しかも時間の長さとも違う。

あえていえば

現時点での限界を超えようとしてその努力的行為に臨んでいるか&できたか

の問題。

いつもやってることを、腕がなまらないように・知識を忘れないように的な意味合いで、疲れない程度に繰り返すというのは、あくまでメンテ用かと。
あるいは、すでにできている技能が、より精度高く速く綺麗にできるようになるといった「ブラッシュアップ」といった意味での向上。これなら、コツコツでもいい。

でも、勉強でもスポーツでも芸事でもなんでも、今ある能力を超えるときには、ちょっとした集中というか緊張というか、「せーの!」といった気迫でジャンプする的な瞬間があるもので。

ある程度ほとんどの人が通過儀礼的に経てきてる例でいうと、「鉄棒で逆上がりができるようにする」なら、「あぁ、納得」となるのでは。

コツコツと逆上がりができるようにする練習をする……というのは、どうでしょう。
それでもいつかはできるようになるのかもしれませんが、つらくない程度に落ち着いて、毎日の日課だからという感じで「よいしょ」とやって、

「できなかったけど、また明日もやろう。毎日やるのはえらいこと。コツコツ努力を継続するのが美しい」

という日々を繰り返していたら、どうですかね。

いま逆上がりができない人の「よいしょ」は、もう意識の時点で、「逆上がりをせずになんとなく鉄棒につかまってピョンと跳ねてみる」動作しかイメージできてないですよね。

ペースとしてはコツコツでも、頭の中で「さっきのジャンプの仕方だとできなかったから、今度はこうしてみよう」といった試行錯誤をして、さっきまでとは違う、自分が生まれて初めてやってみるジャンプの仕方で挑戦……と、ちょっとずつでも自分の限界を打ち破るような動き方なら、それは「ガーッと」型の努力といってもいいと思いますし、それならいつか、できる日は来るでしょう。
(そして、どんなにちょっとでもなんでも、いまの自分の限界を打ち破ろうとして何か行動を起こすときは、恐怖も押し寄せるし、また失敗したらどうしようと不安になるし、実際に失敗したときの落ち込み、何度やってもダメだったという落胆にさらに打ち勝って次の挑戦をするという苦難が訪れます。そしてそんな意地悪ふうに理不尽に訪れる苦難から逃げていると、永遠に、できないまま)

今の能力ではできないことを、能力側を伸ばすことでできるようにするという場合は、コツコツではダメ。「ガーッと」型の努力が必要になります。
この「ガーッ」というのは時間の多さや長さのことではありません。集中というか、意識というか、ちょっとカッコつけていえば「己と勝負して、克(か)つ」べく取り組んでる状態のこと。
たとえ短時間であっても、集中するというか、限界を振り切る「せーの!」というものが求められます(←漠然としすぎw)。

でも、「コツコツと、やろうとしてみる。参加することに意義がある」的な意味でほんとにコツコツしてるだけだと、延々とできるようには、ならないのでは。
というか、それはもう、コツコツを標榜したダラダラです。


このことは、私程度の人間が以前から思ってはいても、大々的に人に言うのも……と思って、言ってきませんでしたが、この本に書いてあり、「本に書いてあるよ」というのをメインにして「そういえば自分もこう思う」という流れなら言えるかな、と思った次第(セコい)。
   ↓

うぅむ、発売から2年が経過してるのに、しかも文庫本なのに、amazonで値崩れを起こしていない……。
(内容が支持され評価されている指標かと)

この本の著者は歯科医で、しかもニューヨークに留学するなどして歯科医療の先端を極めようと奮闘したような、意識高い系?っぽいです。

自分自身が凹んだ?ときに自己啓発の分野の存在を知り、本を書く側・セミナーをやる側にまで回り、何千人何万人の支持者がいるとか。すげー。(←あくびまじりに)

この本、バランスがいいというか、(K間K代などの著書と違って)一般人がドン引きするような行き過ぎた意識の高さや宗教臭さ、アブない思想といった雰囲気がなく、

トイレの後には手を洗おう

みたいな、小学校の標語的な、誰もが違和感なく「前向きで、いいね」と思える塩梅で書いてるのがヒットの要因かと勝手に分析しています。

ぶっとび自己啓発にもスピにも及び腰な「自称ノーマル」な大多数の人たちに、おすすめ。

って何?本の宣伝なわけえ?(〆)


P.S

ここに挙げた努力のタイプの話をヒーリングのインストラクターとして人様に教える経験を積んだ人間として言わせてもらうと、能力が伸びるのに必須な「ガーッと」型の努力(とはどんなものかという知識・経験・感覚)は、

子供の頃から勉強ができたとか運動ができるとか、何かに得意意識を持っていてその分野でのスキル向上が自分のアイデンティティになってるとか、人に自慢してみせたいとかなどで『できないことをできるようにする』経験を自然と積んでいる人は、身につけている

ことが多いです。苦労を苦労とも思わずに、成功してできるようになって得られるメリットのほうがもう見えているから、成功した状態を夢見て、いくらでも努力できてしまうんです。
(いままだ成功してないことに取り組んでいても、できる子は、頭の中ではもう、それを完璧に習得して他の人に披露して『すごーい』と言ってもらえている光景を頭に思い浮かべ、デレデレニヤニヤした気持ちでいます。その嬉しさのほうが味わっている苦労よりも大きいと、子供は……というか、人は、いくらでも努力します)

そして一般的な子供にでも実現可能なレベルの技能(一輪車に乗れるようにするなど)であれば、あらかじめその分野を得意だと信じて努力する子は、当然ながら高い確率で、できるようになります。
それを学校で(テストの満点や体育での実技、部活などでの活躍を通して)披露し、すごいと賞賛されるという「成功体験」に結びつけます。
それで「そうか、何か新しいことをできるようにしたり、それができるように自分の限界を打ち破って伸ばすのは大変だけれど、その苦労を補ってあまりある嬉しいことが得られるんだ」と、何かを身につけることとはどんなことなのかを現実的に学んでいきます。

でも。

そうではなくて、できないことをできるようにする経験があまりない人生を送ってきた人は、これがわからない(人がけっこういる模様)。


それで、昨今、本のタイトルやセミナーなどの分野で流行る『カンタンにラクしてすぐわかり、完璧マスターできる方法』みたいなものに飛びついて、

「騙された〜。カンタンでもラクでもない。すぐできなかったよォ〜。内容が悪いのね。もっとちゃんとした、ラクにカンタンにちゃちゃっとできるやり方を教えてくれる別の本・セミナーを探さなきゃ」

というほうに思考が及ぶw ←だから、いつまで経ってもできるようにならない。

このなー。業者側が買ってもらうために

「誰でもラクにカンタンにできますよ!」

と謳う風潮、どうかと思うんですよね。

あまりにも多くの業者がいまは、それを掲げている。

そして、以前よりはるかにワガママで気が短くなった一般消費者の、無限に高くなる都合のいいハードルに、合わせていかざるをえなくなる。

CMなんかでもそう。
「私、これこれを我慢するの、イヤなんです」
「根性のない私でもラクしてできちゃうもの、ないですかぁ?」
などと、見るからにワガママなことをオシャレ風に正論であるかのように美人タレントに言わせて、

「その欲求、叶えます!」

と商品が紹介され、冒頭の美人タレントがそれを使って喜び、

「うん!これなら納得」

と笑顔。みたいな。

通販CMなんかでもそうですよね。

旧来からの不便な道具で大変な思いをしている(たいてい、不美人で太っていて老けている女性)モデルの光景が流れ、

「そこで!」

といって宣伝したい商品がでてくる。

と、今度は金髪ナイスバデーの若いモデルがその新商品を使って、ラクラクで楽しそうに掃除などをしている、ってやつ。


買った側に苦労を強いる商品は、ダメ。という評価を下す風潮が加速しまくってるんです。

怠けたがりの一般消費者ほど、そういう宣伝に食らいつく。

いやね、家電など、ほんとにさらに改良の余地があって、そこで人が苦労しなくて済む類の作業を時間なり手間なりを短縮するのは、べつにいいと思うんですよ。

問題は、そういうふうになんでもかんでもラクにできて当然、という考え方を、人生全般にまで広げて普遍化してしまう、怠けたがりのバカ人間のほう(←べつに誰かを特定するというのではなく一般論であえてバカという)。

それはあくまで業者が提供する商品やサービスを、しかるべきお金を払って手に入れた場合でしょ、というのが、抜けている。

世の中なんでも、自分が苦労することなく、どこかの誰かや社会システムやらがしかるべく整備されて、ラクしてなんでもやらせてもらえて当然、と思う。

それも自由なんですけどね。

なんでももちろんいいっちゃいいけど、自分が何かをできるようになる場合に、具体的にどういうことをどのくらいやればできるようになるものなのかを学習して、

「しかるべき苦労が伴うとはいえ、自力で何かができるようになった人間には、それができない人間には拓かれない可能性が開かれ、その現実を選ぶとることができるようになる」

と知り、

「ならば、どんなことをできるようになって、どんな人生を生きてやろうかな!!」

と前向きに野心的かつ楽観的、達成&成功できるという自信を持って生きるようになれないと、誰も何も自分の欲しいものを与えてもらえないとき、ひたすら泣いて

「うぅ〜。私の欲するものを自動的に完全に満たしてくれない他人は、社会は、世界は、神は、酷いよぉ〜」

と嘆いて苦しみ続けるという選択肢のみ。

それも自由ですけどね♪



いまの時代は、自己責任という単語が普及したり、ネットなどを通じて「これ(=みんなが漠然と不可能だと思っていること、あるいは思いつかないこと)をやってみたらできちゃった」一般人が存在するという情報は入って来やすいです。

つまり、以前の時代に比べて、やろうと思えばできる選択肢に気づいたり、その選択肢を実現するための道を歩んでいける可能性は格段に広がっています。

かつてのような、その時点で自分の周りにいる人のアテにならない後ろ向きな情報だけを鵜呑みにして
「そっか。◯◯しようと思っても、できないのか」
などと、自分で限界を設定する必要は、少なくなってきています。

ただその一方で、都合よくラクして誰でも良い思いができて当然であるかのような勘違いにも、陥りやすいといえます。

よく、「私の友達、どこどこ大学に受かったよw (どこどこ会社に入れたよ/何々という資格に合格したよetc)」と、知人に何か成功した人がいる人は、それが自分とまったく別の他人が創出した現実だということをどこかで忘れていて(あるいは意図的に認めようとせず)、あたかも自分がそうであるかのような、あるいは自分もいつでもその気になればすぐその人と同じ成功ができるかのような錯覚に陥りますよね。

その現象も、起きやすくなっているのが現代です。

しかもその「他人」は、厳密にいえば知り合いですらなく、ネットで勝手に自分が読んでいるブログの書き手だったりして、現実に会ったこともない人だったりします。

自己責任という概念の強化と、誰でもラクして無限にオイシイ思いをいくらでもできるという勘違い幻想。
それが同時に起きているというのが、面白いですね。

ちょうど、新薬が開発されるとウィルスのほうも耐性ができて強くなっていってしまう現象にそっくりです。

要はシビアな時代に突入してきているということなのでしょう。

さて。

あなたはどう生きますか?(←余計な御世話だよクソが)
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