即物的な損得勘定と洗脳された志望動機

某デザイナーさんと話していて、

「今後も算数を継続して学びたいかという質問に、日本の小学生は3割しか『はい』と答えないが、シンガポールの小学生は9割が『はい』と答える」

的な話題が。

なぜか、を聞くと、日本の小学生の場合、

「自分の将来の夢は◯◯(←職業名)になること。そのために算数は(必要/不要)だから」

という回答とのこと。

一方、シンガポールの小学生になぜ今後も算数を学びたいかを聞くと

「何かができないままよりも、できるようになったほうが、可能性が広がるから」

という回答が目立つとか。

もちろん、この例にすべての人間が当てはまるわけではないけど、あくまで傾向としてかもしれないけど、あるなァと感じました。

日本のほうが、具体的に職業名などで将来を思い描くことが多いそうな。
で、その職業に就くことに向けて、どこの学校に行くとか、どこの会社に就職するとか、どんな資格に受かる必要があるとか、それによって何を勉強しなきゃいけないかが決まってくる、と。

一見、最短で目標達成できてよさげに見えるこの考え方だけど、

・本人がいざその職業になってみたとき、それまでのイメージと実態が違い、やりがいを感じられなかったら
・その職業に就けなかったときのツブシが利くかどうか。別の仕事にやりがいを感じられるかどうか

という点を考慮すると、脆い。
(無事に目標達成できたうえに、一生、解けない洗脳というかで自分を成功者だと思い込み続けないと、ね)

で。

具体的に思い描くその職業名だけど、それ自体が

・夢を言うときは具体的な職業名で、という周囲のノリ、暗黙の了解、無言のプレッシャー

に起因していたり、いざ決めるときにも

・その職業について周囲や親などから植えつけられた損得勘定でのイメージだけを判断材料にして決める

ことをしてたり(=洗脳されてたり)、いったん決めたら

・目指す職業名を決めたら、それになるために直結することだけが有益で、それ以外は無駄

という価値判断基準で、やるべきこととやっても意味がないことを仕分けする。

そうやって、一見、賢く効率的に進路を選び取ったつもりで、実際は視野が狭く、人間としての器そのものの発達さえもを脅かす?かもかも。

で、うまいことその夢が叶っても、そうでなくても、志望動機がちゃんとしてないから、もろもろガタがくる(のを、無理やり押さえつけ続けないといけない!)。



一概にはいえないかもしれないけど、志望動機って、まずは

「自分は~~するのが好き。得意」
「世の中に、人に、~~を提供できたらいいなと思う」

など、まだ職業名が出てくる前の段階で、「どんな動き方」というかを好きだと思うか得意だと思うか、できるか、あるいはやっていきたいかを、あえて抽象的につくっていったほうが、本来は健全のような。

そこから具体的にしていって、職業名が浮かび上がってくるという流れ。

そのほうが、志望動機がしっかりしてるし、またその職業に就けない場合に軌道修正しやすい。いったんその職業に就いた後で見えてくる可能性もわかってくる。
(経営者層などデキる人側になると、業界を問わず会社を渡り歩いたり、担当する業務そのものまで変化したりしますよね。あれは、特定の業務や職種、職業に囚われるのではなく、もっと大局的な意味での仕事や貢献を意図しているからこそ拓けるし、実現していけるキャリアなのではと)

第一、職業なんてのは、そのときどきの社会のビジネスの流行り廃りで、新しく生まれたり、なくなってしまうことが珍しくない。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』でピエール瀧が、電気式冷蔵庫が普及したために消えゆく氷屋の憂いを演じていたのをお忘れですか!?

特定の業務のほうだけに目が向いていては、その職業がダメになったとき、アウトなんです。
その業務は、その背景として「何を提供したくて、それをしているのか」があって今、(たまたま諸々の条件が合って)就いたものなのかという志望動機があれば、別の業種に移行しても頑張れるし、生きがいを感じられるかもしれません。

ある職業に就けなかった絶望を一生引きずって、他の何をやってもやりがいを感じられないという、実は洗脳が解けていないことに起因する絶望を味わう人が、日本には多すぎる印象です。これはスポーツ選手やクラシック音楽の分野などに顕著で、ある大会やコンクールで賞が獲れないと、自分の人生は全くの無意味で、他のどんな拓け方をしようと絶対に埋め合わせはされ得ないという感慨を呼び起こします。客観的にみれば、一人の人間の霊的な本質的価値が、人間のつくったコンクールだかの賞の有無で上がったり下がったり生まれたり消えたりするなんて考えのほうが、どうかしてるともいえます。
(これはスポーツ系のコーチをしてる人から聞いた話ですが、日本の選手はほぼ完全にコーチなどから大会優勝目指しマシーンに洗脳されている一方、海外の選手は『今はこのスポーツに打ち込んで賞を目指す。けど、賞が獲れるかどうかは自分の本質とは無関係なわけだし、獲れても獲れなくても納得のいくところまで打ち込んで大会が終わったら、そのあとは大学受験に専念して医学部を受けて医者を目指す』などと、自分の人生設計を自分でしていることがほとんどなのだそうです。だから柔軟にのびのびと、そのときそのときの人生に訪れることを楽しめるし、その取り組みが報われてもそうでなくてもそれはそれとして次の段階に新たな気持ちで向かっていける人の率が高いのだとか)

これから先、まさかこんなものが職業になるのかというような職業がポコポコ出てくるでしょうし、その職業に求められる適性や資質、人としての指向性、嗜好性、志向性といったものは、既存の考えからすると意外に思えるものかもしれません。

今のトレンドに照準を当てて、流行の後追い的にスキルなり経歴なりを、他人の顔色を伺うかのように踏まえていったところで、それが「いまさら何の役にも立たない無駄なこと」とされてしまったら、終わりなんです。

「できることが増えれば自分の可能性が拓けていく気がして楽しいから、もっと算数を学びたい」
と9割の小学生が答えるシンガポールの子供たち。
10年後、20年後、
「自分の目指す職業に関係(ある・ない)から、算数は(やらなきゃいけない・やる必要がない)」
と答えた日本の小学生たちは、グローバル化されたであろう?ビジネスの世界で、彼らとどう渡り合えるんでしょうか。
案外、互角だったりして?いやいや、日本の小学生のほうが断然、優秀?
結果はフタを開けてみての、お楽しみ♪

P.S

私は形としてはヒーラーと名乗っていますし嘘でもないと思っていますが、同時に、霊的な意味での学者というか研究者、もしそう名乗るのがおこがましいなら「研究者気取り」でいると思っています。

これはお金を稼げるかどうかという商業的な意味での職業名に限定せず、生き方全般についていえること。

体も霊的な要素の一部という認識から、医者でもないけど解剖学について学んでみたり、それを美術の人体デッサンという角度からアプローチしたり、自分自身の肉体を実験台として筋トレやヨガなどの運動をしてみたり、といろいろやっています。

道楽かもしれないけど、自分なりに、この世に生まれて、この世ならではできることで、自分がしたいこと、してもいいと思えること、他のことよりするのが望ましいと判断したこと……などの集大成として、しているつもりです。

で、民族ごとの文化を紐解くことがひいては人間全体についての霊的な理解に通じる……との目論見や確証から、文化芸術についても(それこそ美大に入りなおしてまで!)学んでいます。
そのなかでも、美術はもとより、音楽や踊り、神話といったことから、その民族の特徴や、その民族にそうした特徴をもたらした時代や地域の必然、それらが起きるにいたった宇宙の摂理とその意味というかを逆探知的に探る、という(とても悠長で物好きな)ことをしています。

そんなこんなで、期間限定で「これは入門者の体験レベルに留める」などして、いろんな習い事をやったりしています。

簿記検定を取得するなど、べつに経理志望でもないのに、というか自分が経験したことがなく直接の志望動機とは関係ないからこそ見聞を広める意味で、何かを学ぶこともあります。
(だいたい簿記検定の勉強なんて、数日~数週間、1級でさえ3~6ヶ月で終わるのに、何をそんな大袈裟に、と思います。しかも、いったん身につけた簿記の知識は、細かいところは多少忘れたとしても大枠は忘れずにいられるものだし、その後の人生で何十年でも決算書などの財務諸表をパッと見て中身が理解できるようになれるという恩恵のためなら、あまりにもお値打ちな投資だと思えているのですが如何)

これらは、壮大な物好きと映るのかもしれないけど、少なくとも私にとっては、

「そのときの自分の生きるテーマに照らして、何よりも優先順位が高いこと」

だから、しています。

それをすることで潰れる時間や、その時間にもし働いていたら得られたであろう金銭的損失の可能性さえもを自分でリスク背負って、誰に迷惑をかけるでもなく、帳尻は合わせています。
習い事に没頭しすぎて金がなくなったから貸してくれと誰かにせがんだり、あるいは習い事のために仕事の腕が落ちたのをお客さんにご容赦いただくとかも、したことないです。
それどころか、まるで仕事の繁忙期みたいなもので、通常運転の生活スタイルに上乗せしてその習い事をしたりするので、油断したら一瞬で身も心も折れてしまう危険と背中合わせで、ギリギリのバランスでいたりします。
(そのギリギリささえも、自分で好きで選んだわけですから、誰に愚痴るわけでもないし、自分がギリギリでいることによって誰かに迷惑をかけるということもしてないつもりです)

で、何かをやったらやっただけいろんなものが拓けていく、というのを、身をもって実感します。その拓け方に「お金がより儲かる」というバリエーションも、もちろん、あります。

何かができればできる分だけ得する、良いことがあるということを、体験を通じて、ますます実感する日々を送ることができています。


ただ。

「会計士志望でもないのに、なぜ簿記を勉強する(なんて無駄なことをしている)の?」

「この前はホットヨガで、今度はフラダンス?……軸がブレブレじゃない?あなた、何がしたいの?」

「ちょっと待って。ヒーラーを仕事にしてる人が、なんでカフェラウンジの構想なんか練ってるの?」

「こないだせっかく会社勤めに復帰したのに、なんで辞めちゃったの?もったいない。無職に逆戻りね」

「スピ本ならまだしも、なぜ古典文学の研究まがいなことをするの?そんな時間があれば瞑想するのがヒーラーってもんでしょ」

などなど、その人の価値観からしたらとてもマトモなことを言えているつもりなのであろう、私からするとトンチンカンなことを、いろいろ、言われます。

「そのトシで新しいことを始めるなんてこと自体が、イタくて見ていられない。ここから先は、ひたすら守りに入るべきでしょう。今から進展していくことなんて、何もないからね?30歳になるまでに到達できなかったところへは、一生かけても到達できない。そういうものなの。身の程を知りなさい」

といった、もっと辛辣かつ生産性と建設性がまるでない指摘をされることもあります。

生き方の軸が定まらず、いいトシしてフラフラしている、と映るようです。

私には、そう見える人たちのほうこそ、洗脳されているように感じられてなりません。

ものすごくわかりやすい例ですが、

「ヒーラーをやめて収入がたとえ1/10以下になったとしても、一般的とされる業種の企業に正社員で雇用されて働き始めたほうが、人生は上向きで安定したことになる」

という考え方を前提として、あれこれ意見してくる人もいます。ホンマかいな!?

これは完全に趣味、と割り切って何かを始めたときでさえ、

「なんでそんな無駄なことを?人生を棒に振ってもいいの?どうかしちゃったんじゃないの?」

と動揺したり、心配する人がいます。
(月に2回のレッスンを受けるだけのペン習字などがそうです。そんな無駄で意味のないことのためにお金も時間も費やすなんて、どうかしている、と)

ちなみにそういう人に「1日何時間くらいテレビを見ますか?」と聞くと、少なくても1~2時間、だいたい朝も夜も合わせると2~3時間は見ていると答える人がいます。
「私はあなたがだらだらテレビを見ている時間を、習い事や芸事のレッスン、勉強に充てているだけです」
と答えると、逆上されますw
(そして『ちゃんとテレビくらい見なさいよ!』と、なぜかテレビを見るのが義務くらいの前提でダメ出ししてきます。それか『人生を楽しむことを知らない、愚かで哀れな変人ね』というレッテル貼り。まぁなんて妥当で真実味のあるご指摘でせうか)

ましてやお金のことを持ち出したら大変!
「あなたは月にいくら、稼いでいますか?月にいくら飲み代に費やしますか?要らない買い物に散財しますか?……なら私はあなたの◯倍の収入がありますし、この習い事にかかるお金はあなたが1ヶ月に飲み代や不要な買い物などの散財に費やす金額の1/◯以下です。ご心配ありがとうございます」
とか言ったら一生、尾ひれをつけて悪口を言われ続ける勢いw

(男の場合、人によってはソープランドなどの性風俗あるいはパチンコや競馬といったギャンブルに、たいして稼ぎもない若いうちから1回◯万円、というレベルで突っ込むのがわりと一般的とされます。私は風俗にも行かないしギャンブルもやらないので、『じゃあ、習い事や勉強が、俺にとっての性風俗・ギャンブル代わりだ』というふうに、安直かもしれないけど思考が成立しやすいのでした)

習い事なんてつらいことよりも、楽しく飲み会や買い物での散財のほうが人生は楽しいでしょうよ、という指摘もありますが、これも私には正直、ピンときません。

とりあえず人並み以上に飲んだり買い物での散財もしていますし(ヒーラーとして独立してから一時期は毎週、ダンボールゴミの日に『引越し!?』というレベルで通販中毒になってたりもしましたw その時期にお越しになったお客様には、買ったけど使ってないし今後も使う予定のないものをもらってもらうことがよくありましたねw)、なにより

いいトシしてただ長時間飲んで騒いでバカ話しただけで潰れた時間へのがっかり感は半端ない

わけです。

マスコミ勤務者や航空会社の客室乗務員などは、ストレスが溜まるわりに時間がないから、だらだら一晩中飲み歩くのではなく2~3時間と決めてガッと騒いでスカッとして終わる……といった話も聞きますし、私もドカン!と1~2時間バカやってストレスだかを発散させ終わったら「さぁ次!」と行くほうが性に合ってます。

ブログなどで一切、書かないだけで、そういう飲み会というかのイベントは、そこそこ企画して友人に付き合ってもらったりしてるほうだと思うんですが。

なにより、自分に有益だから、いま本当にこれをなすべきだからと感じていろいろ習い事なり勉強なりの予定を入れているわけなので、「人生にはゆとりが必要」という名目で過ごす無目的な時間のほうが、発狂するほど嫌なんです。

読んでおきたい本が無数にあります。
習得したい技能が膨大にあります。
それらを通じて身につけたことを世の中に還元していく目論見と野望が山ほどあります。
(同時に、死ねるならいつでも死ぬに越したことはないという変な割り切りというかもありますw)

すでに世の中で大きなことを成して名実ともに一流、人間国宝!みたいになれた人なら、べつにいいのかもしれません。
が、私の場合、(周囲の評価という点ではもちろんそうだし、他ならぬ自分が思い描く『なりたい自分』に、まだまだ程遠いので)遊んでる暇なんか、ないんですよ。ほんとは。

なので、あれこれ動き回っている。

のを、

「あんた、いいトシしてそんなフラフラして、なにやってんの」

と言われる。

面白いですねw


人ってのは、結果が出た後でしか、人を評価しないものだとわかってます。
(べつにされなくてもいいという前提ではいますけど)

いまの私の動きが、無目的な、ただの時間潰しの道楽に見えてるんでしょうね。

もし、結果を出す前に説明したところで
「へえ、そんな考えがあったの。でも変わってるわねw」
と一笑に付されて終わりですし、その次には
「でもさ、その目論見どおりにならず頓挫したらどうすんの?w」
の、生産性0の不安煽りが来るだけw

パターンは、読めてるんです。

そして、ああだこうだ言ってくるわりには、「もしその忠告どおりにならなかったら切腹してでも詫びる」みたいな気持ち、ないですもんね。無責任の極み。
もしこちらがうまくいった暁には、
「え?そんなこと言ったっけ? あなたが失敗するかも、なんて? 言わないよー。ずっと応援してたよぉ~」
ですっとぼけるに決まっている。

でさ。

もし仮に、俺の目論見とやらが、何一つうまくいかず、何も成し遂げず(と他人には見えるような有様で)死んだとして。
人ってそんなもんでしょお?
いつか死ぬわけでしょお?
そもそも人が「あいつは何かを成し遂げた」と思うかどうかなんて、その人が生きたリアルな人生からしたら、ただの横やりでしかないわけじゃない?ただの雑音としてのゴシップごときに、人の人生の価値なんて、ほんとに決められるわけ、ないじゃん?

もう、年下がバタバタ死んでいく年齢になってきちゃったからね。
明日は我が身。もう今回の人生、あとどれくらい時間が残されているのか、わからない。

だから大げさじゃなく、ほんとに毎朝、目がさめるたびに、

「今日が人生で最期の日になるかもしれない」

と覚悟して、起きる。

もしそうなっても絶対に後悔しない、という時間の使い方しかしない。

そして、俺がまさかそんな、シノギ直前のヤクザみたいな心境で生きてるなんて、おくびにも出さない。誰にも気付かせない。(相手を無駄に緊張させちゃうだろうし)
のほほ~んと、テキトーなキャラのように見せかける。そう演じる。

でも、実際は。
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