ジョブ(Job)とキャリア(Career)

某ヒーリング創始者のVさんもWebセミナーで

「ジョブは、単に就業などをして従事してる仕事という意味。でもキャリアは、就業時間中かどうか・勤務先に勤めてるかに関係なく一貫してその人の人生のなかで形作られる、職業人としての在り方」

と解説してましたが。

よく、

「できれば働かないで、毎日遊んで暮したい」

という人がいます。

そういう人に限って、ほんとに何年も毎日遊んで暮らしたことがありません。

また、それが幸せかどうかも、ほとんど考えません。というか、それは幸せなことだと漠然と思っていることが多いです。

さて。

本当に、人は毎日遊んで暮らせれば、幸せでしょうか。

幸せについて学術的に研究する流れは21世紀に入ってからハーバード大学を中心に急速に発展しつつあるようですが、なかでもハーバード大学の教授、ハワード・スティーブンソンは、単一の目標や願望の成就だけでは人は幸せになれず、仕事や余暇、人生のあらゆる活動についてそれぞれ目標を持ち(=1人の人間が複数の目標を持っている)、そのうえで

長く続く成功の4つの必須要素

①幸福感=人生についての悦楽感と満足感
②達成感=活動領域での見優りする業績
③存在意義の実感=身近な人にポジティブな影響をもたらしているという感覚
④継承=誰かの将来の成功につながるような価値や業績の確立

出典:(ハーバード流 幸せになる技術

を提唱しています。

まぁ、学者のいうことなんてアテにならねえよ、という考え方もあるかもしれないし、ほんとに毎日遊んで暮らして幸せになれる人もいるかもしれませんが(実は私はそのケというか、才能があるほうだと自覚してます、遺伝的にいっても)。

毎日遊んで暮らす生活が、上記4点を満たしているならまだアレでしょうけど、そうじゃない遊びとなると、ねぇ……。
(金持ちのご隠居なんかは、キャバクラとか飲み屋の常連になり、けっこうなお金を使って店側を潤し、新人を教育するような説法も垂れるといったやり方で、ある意味、職業でも仕事でもないとはいえ、事実上『社会的役割を果たす』ような動き方をし、それによって幸せを感じているという人もいなくはないようです。欧米の大富豪の奥様なんかも、毎日遊んで暮らせばいいものを、積極的にいろんなことやってますよね。なんとか協会の理事とか、チャリティーオークションイベントの主催とか。趣味のつもりで通ってたヨガ教室で、迷いなく全力で惜しみなく努力して取り組むから凄腕になり、インストラクターまで取得しちゃったりして。もしそういう、作業としては手間がかかることをするのが100%嫌なら、お金に困ってるわけでもない人が、わざわざやるわけないと思いませんか。総資産からしたら鼻くそみたいな金額の利益しか生まない、小さいヨガ教室などで教えるなんて酔狂なこと、するはずないと思いませんか)

となると、実際は人は、仕事を、しかもジョブに留まらない、キャリアとしての仕事を持っているほうが、幸せでありやすいということのようですね。

しかもポイントは、

長く続く

ってことですよね。

人は、志望校の入試に合格する・賞を受賞する・プロとして何かの業界にデビューするなど、たった1回のとある栄光的イベントを手に入れることを成功とみなし、そのために、つらい道のりに耐えるという考え方をしがちなようです(特に、遺伝的に成功の秘訣が入ってない大多数の人は)。

でも、そういうイベントの興奮や幸福感は一瞬。数週間もてばいいほうです。ましてや、その幸福感が「みんなが私に注目してくれている」という、他人のアクションに依存する図式だと悲劇。どんなにすごい人でも、継続的に花火を打ち上げでもしない限り、人々の記憶からは、あっという間に忘れ去られます。

なにより自分自身が、ある栄光について、それを得た瞬間ほどの喜びを、キープできません。遅かれ早かれ(たいてい、思っているよりもずっと早く)、色褪せ、興奮は冷めていきます。

そもそもそういった栄光を手に入れることができるかどうか自体、怪しい。
どんだけ努力しても手に入らない確率のほうが、手に入れる確率よりは低いものです。

ということは、長く苦しい努力の果てに、欲しいものが手に入らないという最悪ケースが、かなり高い確率で、というかほぼ確実に成立します。はい、不幸まっしぐら。

それだと人生としてどうなの、という。。。

では逆にベストな在り方とすると、上記の最悪ケースの裏返しで、

目標は、ありはするけど、それを手に入れることだけに囚われず、その目標に向かって生きている日々自体が、やり甲斐を感じられて充実した幸福感を得られるスタンス
(結果的に目標が達成できてもできなくても、それに費やした年月全体やそれ以降の日々への幸福度への悪影響が限りなくゼロ)


ではないでしょうか。

だとすれば、単なるジョブに留まらないキャリアを持つことの重要性は、増すばかり。

裏返していうなら、

キャリアのない人生で幸せでい続けるのは困難

ともいえたりして!?

(ここで『主婦など仕事に就いてない人は、キャリアがないから不幸なの?』と思う人いるかもですが、個人的には母親業というか主婦業というかは、実質的にその人のなかでキャリアとして成立し、そのことが誇りなりアイデンティティなり日々の充実感、社会のなかでの自分の立ち位置といったものを示してくれているような安心感につながっていることが大半なのではないかと思います。ジョブじゃないキャリアも確実に存在すると私は個人的に思っています)

ところで。

毎日遊んで暮らせたらいいのに、といいながら、実際は、やりたくもない会社の仕事をジョブとして毎日続け、その取り組み方という精神的姿勢から実質的に仕事を通じて得たスキル・実績からいってキャリアにまではなりえてない……という生活を(何年も、十何年も、何十年も)送っている人。

幸せですか?

(上に挙げたハーバードだかの教授の説を、誰か覆してみせてくれたら爽快なのに!
 『ああ、俺はキャリアにつながらないジョブとしての仕事を嫌々続けて、幸せさ!』とね)


P.S

被害者意識+言い訳だけを武器に生きてきてる人あるある「私もぉ、そういう、キャリアがあるような環境がもし成立したら、幸せになれてたと思うんですけどぉ。ていうかキャリアを持つのが大切だよ、って教えてくれる人が周りに誰もいなくてぇ。キャリアを築く生き方を身近で見せてくれる人もいなかったんで、わからなかったんですよね(だから私は悪くないでしょう?それどころか被害者ですよね?私にしかるべく、キャリアの重要性を教えてくれなかった他人や社会、この世界、神が悪いわけですよね?)」

ハピネス心理学がハーバード大学で発展したのは、100%偶然といえない気はしています。
よほどでなければ、幸せについて考えたり、それを手に入れるにはどうすればいいかを建設的に考えるなんてこと、日々の苦しさにもがくことで精一杯の人たちには、難しいからです。
高い能力と心を持ち、身の回りのハードな試練各種をどうにでも対処できてさらに余力があり、疑問を解消するほうに頭も時間も労力も割けるだけの人、そして実際そうしたとき答えを導けるだけの知性がある人でないと、考えるだけ無駄でしょうし。
(迷信や教訓としての『こうすれば幸せになる』的な名言でいいなら、どこにでも転がってますしね←もちろん、そういう名言には、アカデミックな連中の研究とは違った深い含蓄が、それはそれであるものですが)

ていうか、世の中って、情け容赦なく、何かの競争に負けた側には、チャンスが与えられないわけです。(もし与えられたらラッキーというか、具体的には、そういう境遇の人にもチャンスをあげようと権力なりを持った人が情け深く対処したときだけなのではないでしょうか)

学校の入試でいっても、落第ギリギリでも合格すれば、進学校の授業を受けられます。最低点の合格者と僅差であっても落第したらもっと低い偏差値の、質の低いかもしれない授業を受けるしかなくなります。スポーツもそう。会社でもそうでしょう。

いわゆる難関・一流とされる学校や会社、スポーツのチームなどが、必ず絶対に素晴らしいものとは言い切れない側面もあるかもしれません。
ただ、誰でもできる、なんでもOKな、ナァナァで敷居が低い場や、そういうところに流れ着くしかなかった人たちの輪の中で、世界最高の質の高い何々、を求めたところで、手に入る確実性は低くなっても仕方ないといえるのではないでしょうか。

だからこそ、確実な結果が得られるとはいえなくても、みんな一流の学校や教師、スポーツチーム、会社に入れるようにありとあらゆる手を尽くすわけです。

「もし自分が最高の教育を受けることができたら、もっとすごくなれたはず」

と、それがいかにも、世の中の理不尽を指摘してやったぜ的に言う人がいますが、そんなの当たり前じゃないでしょうか?

人なんてぶっちゃけ、よっぽどでなければ、誰でも似たり寄ったりなわけです。元は。
それが、教育なり訓練なり、その後どう生きるかで、びっくりするような、もう後からは取り戻せないような差となっていくわけです。

才能を過剰に信じて、その有無についてやたら気にする人がいます。

でも、その才能というのがどういうものを指しているかはわかりませんが、最高の環境で教育されたら、誰だって一定のところまではすごくなれますよね。

絵や音楽のように、才能だけがものをいうと思われがちな分野でも、しかるべきメソッドなりで能力ある教師が教え、ちゃんと生徒がやる気を持って取り組むところまでもっていきさえすれば、どう考えても適性0な人でさえ、向いてる人が独学でなんのサポートもなく努力した場合よりはすごくなれます。

その差は、いい環境に恵まれるように立ち回れたか、そうでないか(←さんざん努力したけどそうなれませんでした、というのは『いい環境に恵まれるように立ち回れた』うちには入りません)、で、実際、不公平に不平等に容赦なく理不尽に、つけられてしまうのです。

そのことをわかっているから、教育に力を入れる親がいます(入れ方が空回りしてる親もわりといるのが世の常ですがw)。

ものすごい理不尽の嵐の中で、運といったもの(厳密にはその人の潜在意識も含めた意図なのですが)も絡んで、いい環境に入れるかそうでないかが、決まっていってしまうんです。

さんざん努力してもそうならなかったならまだしも、なんとなく学校に通い、なんとなく退学にならない程度の成績で、なんとなくテキトーに入れそうな進学先や就職先を選び、なんとなく働いて。

そんな人生を歩んでおいて、

「世界最高の指導者や成長できる環境を与えてもらえなかったから、私はいま、こんなに不幸で能力が低いのだ。悪いのは、私に世界最高のものを惜しみなく与えなかったこの世界のほうだ。人々のほうだ、社会のほうだ」

だなんて。

その発想、参考になりマース♪
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