きちんと絶望して希望を抱かない

ほうがかえって生きやすい、うまくいく場合が多いですね。

特に、

他人の自由意思など、自分側ではどうやっても直接は変えることのできないこと
(あくまで『働きかける』ことしかできないこと)


については。

単純に、意図のエネルギーを、自分で変えることのできないことを変えようとするほうへ向けるというのは、(いくら強く長時間・長期間、意図してもスピリチュアルな仕組み上、絶対に叶わないので)無駄といえます。

このことはもしかすると、スピリチュアルに傾倒したり理解がある人というよりは、一般的にいう常識の範囲内で生きてる人にこそ、有効かもしれませんが。
(スピリチュアルに理解がある人は、他人を変えたいというエゴを手放せない甘ちゃん以外は、この点はさくっとクリアできてるものなので←でもなー、『宗教的に、自分の思いと同じふうに他人を染めたい、カルト集団的に、1つの思想を共有するグループを形成したい(そのために、自分が気に食わない思想は排除する)』という方向性でスピリチュアルに傾倒する人はむしろ、ここは頑固かもね。いかに相手を自分たち色に染め上げるか、しか考えてないので←でもそれってほんとにスピリチュアルなのか?と私は思いますが個々人の自由なんでしょうねきっと)

これは、べつに他人の自由意思が絡むことについてはありとあらゆる面で絶望して何もしないのが良い、と言っているわけではありません。

社会問題についてそれを解消しようとする活動をするなどは、「働きかける」という点で有意義な面もあると個人的には思っているし、そうしたことに取り組むのは、ぼけーっと何もしない人より単純に「頑張っててすごいなぁ」とは思います。
ただその姿勢が、
「どうしてわからないんだよ!どうして(私がよくないと思う)こういうことをする奴がこの世にいるんだよ!」
という、支配願望とそれが今すぐは叶っていないことへの怒りや恨み、嘆きを原動力にしてると、それってどうなんだろう、と。
いや、原動力にするのもそれは自由だけど、少なくとも
「今すぐ私の理想どおりになっているのが当然であろうに、そうなっていないのはおかしい」
というスタンスでいると、単純に苦しいんじゃないかと思うわけです。
それよりは、
「他人が、そして他人が寄り集まってできてる社会情勢が、私の思い通りでないのなんか当たり前。そのことはわかってるし、むしろ道理。自然にしていて私が思う理想どおりに社会が変わっていくなんて希望のほうが理不尽で不条理。私の手も頭も及ばない動きをするのが他人、そして他人の集まりでできている社会。私の価値観からして、どんなふうにヘンテコリンと感じるようなふうにも変わってしまう可能性があって当たり前。だから他人や社会が自分の望まないほうに変わっていってしまってショックを受けたり怒ったり嘆くなんて、他の人たちからすればお門違い。それは、わかっている。
 そのうえで、働きかけ次第によっては他人は、その人自身の自由意思を変えてくれる可能性があるのは事実(と信じる)。うまくいくかどうかは、自分の働きかけ方の上手い下手、活動の度合いが十分かそうでないかで決まってくる。つまり、自分次第。やり方やタイミングによっては、自分がどんなに真摯に全力で頑張ったところで、まったく報われないリスクも当然ある。それもすべてわかったうえで、自分の信条どおりに、働きかけることを決めて実行する。もし活動のすべてが無駄になったとしても、それは自分のしたことの結果。どこの誰も悪くない。恨みっこなし」
という割り切りというか位置づけであれば、一番無理がないような。(←ただし、この割り切りがちゃんとできる人って、相当ちゃんとした一部の人だけな印象もあります。ほとんどの人はここまでちゃんとは割り切れず、他人に依存する形で期待し、希望を持ち、他人からしたら理不尽な要求を無意識のうちに平気でつきつけて、それを叶えてくれないと怒ったりする幼稚さと愚かさがあるのが実状だろうなとも思います)



と、他人や社会など自分の自由意思で直接変えることができない領域にしかるべく絶望しておく、というのは(それを実現するうえでのその人の人間的成熟が問われるので)至難の技だったりしますが、1つ、ヒントとして手軽に活用できそうだなと私が思うのが、

この世は広い

ということ。

もっと具体的にいうと、

いろんな人が(ちゃんと)いる


ということです。

人って結局、自分が会ったり、せいぜい本やテレビ、新聞などのメディア、そしてインターネットで間接的に知った情報をもってして、「この世は〜〜だ」といった判断を下すのが一般的ですよね。

で、どんだけたくさんの人に会ったよ、たくさんの情報に触れたよ、という人でも、この世に存在する人すべて(しかも同時代だけでなく人類の歴史の中で生きたことがある人全員を対象とした場合)、この世に存在するすべてのあらゆる情報を全部触れた、なんて人はいないわけです。

ある人がその人生のなかで実際に会って交流を持ったことがある人なんて、(現代でいえば)数十億人の人口があるなか、せいぜい千人いるかいないか。
(マンモス校や巨大企業に勤めている人、大都市に住んでる人は、そりゃ、すれ違うレベルでいえばもっと多いかもしれませんが、相手の人となりがある程度以上わかる付き合いまでは、至っていないのでは。何万人もの観客を集めてコンサートをやる芸能人などでも、べつにその何万人と深い付き合いを持ったわけではないでしょうし)

情報にせよ、この世に存在するすべての情報のうち、いったいどれだけ?……おそらく1%にも満たない情報量しか、見聞き理解していないのではないでしょうかね。

ツイッターやブログなどのWebメディアでも、実在するすべてのツイッターアカウントやブログの記事を全部読んでる人って、たぶん、いないのではないかと。

また、こまかくいえば、ある1人とべったりガッツリ付き合うとして、果たしてその人のことを100%完全に理解するって、ありえるのかよ、という。
(ええ、私はあの人のことを、何もかも完全に理解しきっていますよ、と豪語できる人は、ごく稀か、あるいはそう思い込んでいるだけのおめでたい人ではないでしょうか)

しつこく書いてきましたが、人間1人が見てる世界なんて、ほんとの世界全体からすればみみっちい程度でしかないと言えるんじゃないでしょうか、ってことです。

その、せせこましい見聞のなかで

「世の中はダメだ。みんなわかってない」

みたいに、全部をわかったようなツラしてくくってしまうのは、滑稽なんじゃないの、と。賢明じゃないんじゃ?というご提言。

もちろん、探せば絶対に自分の理想どおりの他人や集団がいる、あると信じ込むのもそれはそれで違うかもしれませんが、

「探せば、いるんじゃないの」

くらいには、思っててもバチは当たらないんじゃないかと。

これを、希望……というよりは、(←そう思うとまた、その希望が満たされない場合に不満になるので)「希望も期待もしてないけど、もしそうだったら御の字」くらいのユルさで、頭の片隅に入れておくと(←この位置づけの塩梅もコツがある気がしますけどw)、自分が余計なフラストレーション感じずに済むんじゃ、という。

また、ある時点では全然わかってない変わらないと感じた人が、べつのタイミングで突然、変わることもよくある話。
ただしそれはやはり、自分が思う都合のいいタイミングどおりではありえないし、また変わり方も自分が想定する理想どおりでもなかったりします。

なので、実は可能性としてはあるけれど、そこには期待しない。

悲しいようだけど(というかそれを悲しいと思うこと自体、自分のエゴ的な都合の良さ由来だし)、そう割り切って余計な意図のエネルギーを割かない。ましてや時間や労力を割くなんて、まさかまさか。
……というスタンスで、自分の意図でちゃんと変えたり創ったりできる領域に意図やら時間やら労力やら、なんならお金なりなんでも資源は投入したほうが、まだ、見込みがあるよね、という。

私が、というよりどうやらこの世でうまいこと行ってる側の人になればなるほど、ここがちゃんと成立してる印象あります。
これまた、私のせせこましい見聞の範囲内だけに限った話かもしれませんけどね(笑)。

P.S

先日、「もし世界最高の上司や教師、親が私を全力で育ててくれたら、私はもっと素晴らしく伸びられただろうに!」と、まるでそうならなかったことが理不尽であるかのような、また「世界最高の上司や教師、親」といった人々が当然、そうすべき義務を担っているかのように言う人がいました。

そう思い続けるのは自由かもしれませんが、他人からしたら、その人のために世界最高の面々が全力を注ぐ価値も意味も理由もわからないわけですよね。

この、「私は世界で一番、優遇され大切にされて当然である」という思考があると、(実際そうならないことがほとんどなので)単純に、ストレス溜まるだろうなぁと思います。これも、希望にすがってしまっているが故にかえって不幸になってるパターン。
(スピリチュアルに傾倒する人って、庶民の生まれで能力的にも実績的にも全然そのへんのエキストラ的なくせに、こう思い込んでる人、少なくないんですよね。特に女性。なんでだろう)

現実的に見れば、人間1人なんて、なにもせずボーっとしていたら、誰からも見向きもされず、人間としての価値なんて見出してもらえるわけもなく(誰だって自分のことやその家族・友人・仕事など直接関わりのある人たちのほうを、見ず知らずの人より優先して注目して当たり前ですし、まったくの見知らぬ赤の他人に注意をむけろといっても、そんなのどうやればいいのか、なぜやらなきゃいけないのかわからず、やろうとしてもその意義がわからないのでできないんです)、いいように見捨てられる(というか、捨てるも何も、最初から拾われない)のが当たり前。
(でもねー、現代病というんでしょうか。法律やら人権といった倫理があるから、というのを水戸黄門の印籠みたいに据えて、『ちゃんとやれよ!』と、自分は何もしないで他人には要求する人、多くなっていってる?ぽいんでしょうかね←でも、いまの子供たちはかえって、自己責任というかをわかっていて、やり方次第でどうとでも幸せにも不幸にもなれるということをわかっている印象。いちばん、平和とされ景気が良かった?30〜40年前を若いうちに生きた、今の40〜60代くらいがその点では無知で幼稚なのかも、と感じます。何もしなくても全部、与えてもらって当たり前、という)

だから、注目されるためにアピールが必要だし、優れた人たちの集団に自分が入れるように、受験で進学校に入るとか、一流企業に入るとか、スポーツの大会やら芸術のコンクールやらといった場でぶっちぎりの成績を出すとか、するんじゃないんでしょうか。違うの?

「でもアピールするのが、怖くて。ちゃんとアピールしてるすごい先輩が周りにいれば、アピールするのは悪くないと思えるだろうし、アピールの仕方もちゃんと教えてもらえたら、できるとは思うんですけどォ」

これを無限にやるわけかw

べつに一流企業やら進学校やらスポーツや芸事の一流とされるところで動いてる人たち全員が、自分から見て最高に立派、というわけでもないようですけど、でも少なくとも、なんにも行動せず、あるいは行動したとして月並み以下の実績で、そんな人でも所属できる集団にうごめいてる人に、選りすぐりの難関をいくつもくぐり抜けて乗り越えて到達した人たちのグループにいる人たちと同等なものを求めるって、ちょっと都合が良すぎない?とは思います。

「それってあなたの感想ですよね?このブログに書いてるとおり、あなたの見聞だって、世の中すべてと比べたら、みみっちいんでしょ?つまりあなたの意見なんて、正しくないかもしれないじゃないですか?いわゆるエリートとされる集団にわざわざ行かなくても、世界最高の人はどんな場にもいるかもしれないし、その人たちが私のためだけにすべてを捧げて尽くしてくれる可能性だって、否定できないわけでしょう?」

はい、おっしゃるとおりです。ぜひ、その希望を胸に生きていってください。
叶うといいですね。(笑顔)
関連記事
スポンサーサイト