ビリーフワークやフィーリングワークはシータヒーリングの技法の1つに過ぎない

先日開催したシータヒーリング基礎DNA講座に出席された方の感想いただきました。
あらかじめ他のインストラクターさんから習われており、再受講いただいた形です。

こちらのワガママで、仕切り役というか、アシスタントのようなお手伝いをしてもらったりして、感謝です。怒ってないならよかった。

お世話になっております。

先日の基礎DNAはありがとうございました。
「いつかusamimiさんから再受講したい」と思っていたので、初日の前夜は興奮で寝付けませんでした。

始まってみて、とても素晴らしい時間を過ごさせていただきました。
usamimiさんを介してもたらされる情報の濃密さや、他の受講生の方々のスムーズな進み方に、思わず「自分が初受講だったらついていけただろうか?」と思いました。
ここまで色々と準備してきたからこそ、ようやく参加できたのだろうと思っています。

また、練習の時間をファシリテートさせてもらったり、あるいはペアで実習をさせてもらったりする際に、「再受講生としてどう接していくのか」ということをあれこれと考えさせられました。
こうやって他の受講生の方々に関わらせていただいたことも、必ずどこかで役に立つのだと思っております。

「とにかく創造主とチャネリングして共同創造する」という基本の大切さをあらためて実感しました。
なんでもビリーフワークに持ち込もうとしてはいなかったか、あるいは自分のエネルギーでリーディングしようとしていなかったかなど、様々な自分のとらわれに気づかせていただきました。
「創造主を介して創造する」というのがあくまでも本質で、ビリーフワークやフィーリングワークは技法の1つに過ぎないということを再確認しました。

あれから、コマンドをかけて物理的な変化を起こすということも練習しています。
下りなかったファスナーが下りるようになるなど、物理的な変化がしっかりと起こることもあって、「シータでやっていることは嘘ではないんだ」とあらためて確信しています。

そして、セミナー中や休憩中に、「業界」によくある話を聞かせていただけたのも良かったと思います。
「業界」と今後どう関わっていくのか、そして「業界」にとらわれずにいかにシータを使うのか、といったことを考えさせられました。

初心に帰ったつもりで、基本を疎かにせずに練習を重ねていこうと思います。
3日間ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

P.S.

休憩中に「自分でも気づいていない願望」を見ていただきましたが、考えれば考えるほどにしっくり来るので、胸の内に確かにある願望だと思います。
そして、usamimiさんの肉体は、見させていただいたビジョンに確かに近づいていってらっしゃると思います。

誰のどこのファスナーを下げられるようになったの!?
(超能力で遠隔で、気になるあの子のあんなファスナーを下げて『イヤぁ~ン』みたいな←絶対に違う)

と、深読みすると大変な妄想ワールドが広がる感想ありがとうございます。(←酷い)

ちなみにP.Sにある文言は、お互いに、相手が「自分でも気づいていない願望」を創造主に尋ねて教えあうというおふざけ実習をやったときのことです。

私が観えたことをお伝えすると、まさに「自分でも気づいていないが、言われてみると確かにそう望んでる自分がいることに気づいた」といったリアクションで、さらに後日の、この感想。

お役に立てたならなによりです。

P.S

ちなみに私が気づいてない願望としてこの方から教えてもらったのは、美ボディ化でした。
ボディビルとも少し違う、あえていえばベストボディ・ジャパンが目指しているような、自らの肉体でつくる彫刻というかを体現するというもの。

言われてみると納得!

もともとサプリとか体型情報をこのブログでもしょっちゅう言ってますし、ツイッターだと美貌(orブサイク)についてのつぶやきがやたら多いのは自覚してましたが、それでもまだ

「っつったってさぁ、べつに誰かからモテたいわけじゃないし、モデルを仕事にしたいわけでもないし、美ボディをつくるなんて、意味なくない?自己満足で体鍛えてドヤ顔とか、寒すぎなんだけどw」

という顕在意識の思考に邪魔されて、本当はそれを望んでいるということに気づけてなかったんですね。
(この流れでこうカミングアウトするのもアレですが、自分が美ボディを積極的に目指そうとしない根底?には、『短足すぎて、いくら筋肉やら肌やらを磨いたところで、足の短さによる比率の問題で、どうやっても自分が目指す美には到達しえないから』というのがあります)

これまでも折々に、肉体美を褒められることは(特に23歳のとき、就職活動に失敗して美ボディである必要性をまったく感じなくなり、むしろ狙った職業に就けてもいないのに美ボディでいることがかえって惨めに感じられて25kgの激太りを意図的に実現する前は)よくあったのですが、当時は自分自身、ギリシャ彫刻みたいなわざとらしく立派な体格であるのをコンプレックスに感じて恥ずかしく思っていましたし、なにより自分自身が「男が綺麗な体を持ってたって意味ないじゃん。女として生まれることができなかった時点でダメ。男としての肉体美を体現しているなんて、女からしたら死ぬより屈辱的な恥でしょうに」と頑固に否定していました。

激太りして今のような体型になった後は、今度は
「絶滅危惧種としての、古き良き日本男児体型を理想的に体現している。この胴長短足イモ顔は博物館展示ものだ」
的な(どこからどう受け止めてみても、当時の私の価値観からするとイヤミにしか聞こえない)褒められ方を、わりと年配の方々(しかも、映画や演劇、美術、音楽などアート的な業界にいるそこそこ以上にちゃんと身を立てた男性陣←ゲイじゃね?←偏見)から言われ、そのたび速攻で首を吊りたくなったものです。

(でも、こういう体験のおかげで、『太っているから醜い』、『やせているから綺麗』といった、美の基準を形にあてはめるのではなくて、『美というエネルギーがその人ならではの特徴もコミでその人から発せられており、それは体格が痩せたり太ったり、年齢が若いときや歳をとったりの外見的変化があれど、本質的な美のエネルギーは変わらず、単にやせたり太ったり老けたりといった変化に応じてニュアンスや風情が変わるだけなのだ。美そのものは不変なのだ』という思いに到達できたりもしたのですが←自分は美しいという都合のいい思い込み前提乙)

私は絶望的なまでに絵が下手なのですが、一昨年に人体デッサンの学校に通ったり去年からは美大に進学したりのなかで、四六時中、頭のなかで人体をスケッチするようになっていっていました(←初めてカミングアウトしたw)。

異常なほど、街を歩いていてもなんでも、視界に入る人の体を犯罪的にじっくり見ては、その体型を頭のなかで描く。そうして、自分なりの「人間の体のこの部分は、こうあると美しいなぁ。こういう曲線だとこういうニュアンスが出て、こういう感じの肉付きだと、こういう印象につながるのか」といった法則というかまで編み出して(←一歩間違わなくても変態同然)。

幼少の頃から女に生まれたかったということで、男としての自分を、そして男という性別をひたすらに嫌悪して拒絶していた分のツケというかを、「自分の苦手意識、嫌悪感を払拭して、理解できるものはしたほうが得」という年寄りじみた割り切りができるようになったこともあり、一気に清算している感じ。

中学~高校の頃は、100%女性の絵ばかりをひたすらに描き続けたのですが(この作業を通じて、女性の美のいろんな形を見出すということは10代のころにやっていた。自分が絶対にこの人生では手に入らないものだからこそ、やぶれかぶれな気持ちで、絶望的なまでに憧れが募って、描き続けてました)、今度はあえて、男性の絵を描いてます。

不思議なもので、男性の肉体の絵を描き続けるうちに、男性そのものに対する嫌悪感や拒絶意識もうすれていきました。それどころか、以前の偏見なく、男性の良さを見出すことができるようになっていった実感があります。

そしてこれも面白いことに、(あらかじめ女性の絵を描きまくったあとで)男性の絵を描くことを通じて男性についての理解を深めていくと(←ほんとにいけてたらいいんですが)、

性別を超えた、人間という生き物の良さがわかるようになった

んです。(少なくとも私はそう感じることができています)

さらにさらに面白いことに、男性の肉体の特徴を捉えていくことで、今度は女性の体を見たときに、

女性としての肉体のなかにもプラスの魅力として体現しうる、男性的な要素を見出せるようになり、女性の美についての造詣まで深くなった(と少なくとも自分では感じられるようになった)


んです。

具体的にいうと、筋肉ってそれ自体が男性的なイメージあるかもしれませんが、その要素というか度合いによっては、女性の肉体に筋肉がついてるのって、美としてのプラス要素になりえますよね?ダンサーのようなしなやかな筋肉美もあれば、女性ボディビルダーのようにガチガチにあえて鍛え上げる筋肉美もあって。

「美とは、こういうもの。それ以外は醜悪」

といったせせこましい感覚・価値観から抜け出して、様々な形の美を発見することができました。

で、そこまで来てようやく、胴長短足イモ顔の自分の素材でも、どう加工したら、「あえてのこの素材だからこそ体現できる美」になりうるのかな、と前向きに捉えることができるようになったんです。

むしろ、素材として絶望的な分、挑戦意欲をかきたてられるというか。

ここまで(世間一般の美的感覚でいえば)醜い、救いようのない見た目の自分を、どこまでどうにかこうにか、やれるかな、、、という、彫刻家的なプライドをくすぐられて。

とはいえ私はトレーニングの知識や実践経験も(トシのわりに)ほとんどない、ヘナチョコすぎる人間。挑戦意欲をかきたてられたところで、「じゃあ、やるか!」という最後のひと押しがなく、ずーっと放置していた……的な。

あと、

「他人から求められるなら、ニーズがあるなら応えるよ」

という受け身な性格ゆえ、自分がやりたいからやる!というのがどうにもしっくりきてなかったんです。
(もし仮にカンペキボディを手に入れたところで、それが何の役にも立たず、自分でメリットを一切感じないとしたら、単純に、そのボディをつくりあげるまでに費やした時間なり労力なりお金なりのすべては『無駄、浪費』と感じられてしまって)

でも、ほんとは、やりたいんだ。

最後のひと押しをしてもらえた感じです。

何の役に立たなくてもいい。死ぬまでもう、この人生はなんのチャンスもないヒマつぶしでしかないとしても、というかそれなら尚更、役に立つか立たないかなんて考える必要なく、やりゃあいいじゃないの、という。。。

もしこのまま人生が落ちぶれてホームレスになったとしても(←はたして人生の落ちぶれた形がホームレスと断言できるかは怪しいですが)、カンペキボディマッチョホームレスジジイ、ってなんか、観光名物ぽくていいかも、なーんて。

ちょうど去年は、自分の「これ以上やって壊れたら嫌だから力を出し切らずセーブする」という思考をぶった切ってぶっちぎって、限界をガンガン超えてもまだ自分は壊れず、それどころかどんどん強く変わっていけるということを経験もコミで学べたわけですしおすし。

今年は本格的に、体を改造しちゃおうかな。

その次は、そこまで行ってみないと、見えないからずっと、今の位置にいると見えてないままなのかもしれないですしおすし。

若くして引退した売れないプロレスラーとか仕事が少ないけど引退せず安定してチラホラ出てる俳優とかが、お金持ちに拾われて、犬として飼ってもらえる(本当に全裸に首輪で飼育されている)・妾的に囲ってもらえるみたいなのも、さんざん見たわけだし。(世界って広いですね)

自分にはない価値観の人からみて、美ボディは価値のあるものなのかもしれないし。

「美ボディったって、若くないと意味なくない?」

という考えのほうが(特にロリコン万歳な日本では)主流だけど、世間の主流とは関係なく、

「いや、あえてオヤジがエロいマッチョのほうが」

みたいなのも最近だと認知されつつある価値観だったりもするらしいし。

もうね、他人の顔色と意見を伺って振り回されててもね、なんにもいいことない。

どんだけ「バッカじゃないの?」「なんの意味が?」とか言われようが笑われようが、もうこの人生も残りわずかなわけだし、もう気にしてられないよね。

あれをやっておけばよかった。
もしやったら、うまくいっていただろうか?

とか、考えながら臨終のときを迎えるとか、ありえなさすぎる。

だから、(こっちが他人や世の中のために尽くそうとしたところで、つれなくあしらわれ、お前なんか必要ないと言われてしまってるならなおさら)自分が納得する生き方をしないと、死ぬに死ねないよなぁ、と。

たぶん私はもうすぐこの世を去るからこそ、30代ながらにここまで達観なのか思い詰めてるだけなのか、の心境に至ったわけですが、いずれにせよ、変に手を抜いてそのときだけラクして、後から後悔するみたいな繰り返しは、もう、うんざりなの!!!

自分は他の人と比べたら「ラクになりたい」とは思わないタイプだけど、それでも、(やりすぎないほうがいいのであろうという前向きな慎重さで)結局、ラクであることをいつも選択していた。

その結果が、中年を迎えて何も成し遂げることができていないというこのザマだよ!!!

ラクになりたいと思い続けてそうした結果がこれだったらまだしも、「自分の活躍の時期はもう少し後だから」なんて根拠ゼロの直観でのんびりふんわり生きてきて、世間で何も為せてないボンクラどまりだなんて。死んでも死にきれないじゃないの!!

どこにぶつけたらいいのかわからない怒りでいっぱい。

なにやってたんだよ!何を呑気に手を抜いてたんだよ!!

手を抜くつもりはないけど今の境遇ではいまひとつ力を出し切れない、、、という不便さに悩んでることのほうが多かったけど、それならそれで、どうして「これなら全力を出せるし、それをプラスに受け止めて評価してもらえる」という境遇を構築しなかったのか。
今さら言っても何にもならないけど、とにかく若い頃の自分の愚かさと弱さがあまりに不甲斐なくて地団駄。

こんな無能な人間が、なぜまだ生きてるのか。

正直いって、わからない。
(人間が生きていていいかどうかと無能かどうかが関係ないことも知ってるから、いまひとつ怒りきることもできない)

だからこそ。

そんな無能な人間に、意味なんて(もし仮にあっても)正しく理解できてないとしても道理。

なら、意味があるかないかなんてことを気にすることさえもをやめて、世界一の愚か者みたいなつもりで、なんでもやりゃあいいじゃないの、と。

トシもトシだし、世間一般によくある、どこまでもあさましくあつかましいオバサンになっていきますよ、私。

それがどんなに哀れでもみすぼらしくても、そうするしかない無能なバカは、自殺するわけでもないなら、そうやって生きてるしかないもんね。

そこで思う。

「子供の頃に思い描いていた大人の姿とは、かけ離れてしまったなァ」

と。

どっちにか、って?

俺ごときがここまで来られるとは思ってなかった、って方に、ですよ。

ここまで、世間的に見たらひどい落ちぶれようだとしても、それでもまだ、子供の頃に思い描いていた「大人になった自分は、きっとこうだろうな」という予想よりは、マシなんです。

そのことが、救いにも、絶望にも、なっている。

その狭間で、まだ生きてる。生きてられる。

……ようするに、「どこにでもいる、よくある話」ってことです。長々と読んで損した人、ごめんなさい。w (←反省する気ゼロ)
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