適職を意識した瞬間

くっだらない、ほんとにほんとに、無名の一般人がブログで書きそうな内容。

小学校の頃、ずーっと学級委員トップ当選させられ続けたワタクシは、当然ながら卒業文集の編集委員というものにも組みこまれました。

で、小学生なのに休日出勤?して、当然、無給で、お遊戯レベルかもしれないけど、いちおう作業としては、ほんとに出版社とか編集プロダクションの人みたいなことをやるわけです。

で、自分はまぁなんとなくそういうもんだと割り切って(児童会長からなんとか委員長みたいなものまで、肩書きがいくつあるんだという感じで兼任させられまくってたので、慣れたというか、感覚が麻痺した)、作業に取り組んでたんですが、

「あ、これは私がやるから、いい」
「ちょっと!それはそうじゃないって決まってたでしょ!勝手に手出ししないで!」
「あのさ、もう少し能率よくやってくれない?」

と、携わる仕事にいちいち同級生からダメ出しをされ、なんとなく「やるにもやれない、ぽかんと浮いたヒマな人」みたいな感じに。(これも、普段そんなことはないのに、不思議な瞬間だった)

そこへ担任の先生(いま思えば確実に犯罪者になっていたであろうキレやすい暴力教師。かつて県庁がある市の学校で教えてるとき、児童に往復ビンタしすぎて鼓膜を破ってしまい、左遷されてド田舎の、私が通う小学校に赴任してきた人)が

「お前が今、この場にいる存在価値はなんだ?ただそうやって突っ立ってるだけなら、いないほうがマシだろう?」

と、凶悪上司みたいにガツガツ詰めてくる。

そんなに言わなくても、、、とも思いつつ、もう、作業らしい作業は他の人が「ここは私のテリトリー」とばかりに占領しているし、何をどうすればいいか、わからない。

右往左往した中で、さっき自分のことを存在価値0となじった担任の先生が、

「あー、これは……」

と頭をボリボリかいて悩んでいる。

様子をみると、(べつに文才があると決まっているわけでもない小学生たちの文章なので)文字数やら誤字脱字、表現やらが合ってないのに提出された原稿を、どう収めるべきか、担当教師も考えあぐねている様子。
文章が下手な子になると、そもそも何を言おうとしてこの文章を書いたのかさえよくわからないのもあって、添削するにもどこを削ればいいのか、わからないみたいだった。

もちろん教師とはいえプロの編集者じゃないから、印刷した暁にはこうなる、というレイアウトを書面で見てはいたけど、誰の文章をどこに配置し、どこに挿絵を持って来れば見やすく、美しく見栄えのする、論理的構成も一貫したものになるか、見当もついていないようだった。

でも瞬間的に自分はそれを見て、

「ここをこうすれば……できそうだけど?」

と、わかった気がした。

そこで、

「自分にやらせてください」

と名乗り出た。

これは、ある意味、何様な申し出。

だって、文章の添削は教師というか、書き手よりちゃんと知能がある人間がやるもので、いくら学級委員とはいえ、同級生の分際で買って出ていい類のものではない。

でも、自分には、もう、それしか担当できそうな作業が残ってなかった。

また「何を生意気な!お前は教師になったつもりか?」と怒鳴られるかと思った。

けど、(これも不思議なんだが)担任は「やってみろ」と、椅子から立ち上がり、譲ってくれた。

その椅子は普段、担任が座っている椅子なわけだから、教室全体を見渡せるし、児童が座っていい椅子じゃなかったこともあり、なんかゴージャスなような、胸がドキドキした。
日頃、自分が座っている、児童用の机より、はるかに広い。

挿絵のデザインなどをしている同級生たちをも見渡せる立場。

偉くなったという優越感よりは、「これで全体を統括できる」という安心感のほうが大きかった。

無給の休日出勤で気が進まないのもなぜか全部消えて、作業に没頭できた。

これといって悩むでもなく、初めから答えが見えてるみたいにサクサクできた。
同時に、こんなに楽にやった作業は、クオリティがロクでもないものなのかも、とも思って罪悪感?みたいなものまであった。

当初決まっていたレイアウトにも、生意気かもしれないが「ここを詰めて挿絵に差し替え。この文章をこっちに回す」などと指示を書き込み、原稿の文字数が合っているか律儀に数えて。改行で空くスペースも考慮して、紙面全体の「黒さ」の均一性みたいなものまで意識して。
自分で勝手に決めるとよくない点は、挿絵担当の同級生を呼んで「ここに配置するのでいい?サイズは合ってる?」などと相談して、担当者の意見も汲み取って。

誰に教わるでもないのに、そういうことを、自然と、全部、やっていた。

ついさっきまでお邪魔虫的に仕事できてない私を疎んでいた同級生が、いつの間にか自分の指示を頼りにして、かえって安心してやる気を出して仕事に取り組めるようになっている。

チーム、という感じが、出た。

とはいえ、「やれてるつもりなだけでは?」と自分で自分の仕事の価値を疑う気持ちは払拭できず、また

「こんなんだったら、やらないほうがマシだ!この役立たず!」

と担任から罵倒されるかとヒヤヒヤ。

そういうドキドキと、たぶん何をやっても自分は怒られるのだろうという開き直りもしつつ、

「できました」

と担任に見せたら……。



あ、余談ですが、(そして回想からいきなり今に話が飛びますが)このへんの本、どれも参考になりました。

まずは「編集者って、どんな仕事?」というのを教えてくれるもの。









続いて、実務で手元にあると、知っておくと便利(というか、知らないと話にならない)なハウツー?業務知識?大全的なもの。



時代性というか、「かつての王道としての、確立されたルーチンとしての作業員」としての編集者から一歩踏み出して、プロデューサー的というか、コンセプトやメディアの在り方から考えさせてくれる本。




業界の末端のヘタレ編集者のはしくれ的な経験しかできてない自分が言うのもなんですが、「コンセプトを形にするプロデューサー」みたいなかっこいい、職業価値としてもっとも高いと評価されるような在り方の編集者になるには、それこそ大勢から慕われて社内外や業界単位での地位や信頼、人望、金ヅルとなる企業などとの何らかのコネなどが総合的に必要です。

で、編集者としてのレベルが上がっていくと、それは不思議なことに、本来の、紙面レイアウトを考えるとか企画を形に落とし込むといった作業的要素がどんどん薄くなって、「人と人をつなぐ架け橋」としての、人間的価値みたいなものの占める比重が大きくなっていく印象。
(ほんと不思議な皮肉。手と頭を動かす作業に習熟していけばいくほど、手と頭を直接は作業のためには、割かなくなるんだもの)

大半の編集者は、そういう肩書きでかろうじて職業扱いしてもらえるだけの、ただのパシリ。便利屋。なんの専門性もない、作業員というのが実情。

だから、カリスマ編集者とはなんぞや?ということを、ただ編集者という肩書きで働いてる「工員」としての人に質問してしまうというのは、

シモキタの場末の芝居小屋で舞台をやってる、バイトで食いつないでる貯金ゼロの自称俳優に
「妻夫木聡という俳優として生きるって、どんななんでしょうね?どこにどう意識を向けて日々を生きることが、ただの俳優ではなくて妻夫木聡という俳優たらしめているんでしょうか?」
と質問するようなもの。

どの職業でもそうかもしれませんが、そういう開きがあります。

で、これまたどの職業でもそうかもしれないけど、

・仕事内容への興味はどうでもいいから、ただ稼げればいいだけの人
・実力をつけるとかやりがいを感じるのはどうでもよく、とにかく出世してセレブ化したい人
・あくまで実力ややりがいにこだわってしまい、世渡り下手で稼ぎも少ないが実直な人
・こんな職業に就くつもりなどさらさらなかったのに、どういう流れか、なってしまった人

などなど、いろいろいます。

ただ。

すごい偉そうに言っていいなら、インターネットの普及やそうしたメディアの発展に伴い、新聞や雑誌、書籍などかつてのマス媒体は、以前ほど人の注目を一心には集められなくなってきている。

また、時間をかけていいものをつくればそれをみんなが「いい仕事をしている!」と、これまた時間をかけてじっくり誠実に読み込んでくれるという時代でもない。

どんな情報でも瞬時にスマホで調べて、1.5秒で内容を把握して、次の情報へ。

ある作品(映画でも本でもなんでも)について、

「読む(観る)価値があるかどうかだけ、教えて」

「あらすじだけわかればいい」

と、ネット上で見知らぬ誰かに意見を仰ぐ。

まとめサイトを流し読みしただけで、その作品のすべてを知り尽くしたような気になって、批評を始める。

その見知らぬ誰かが「クソだ」といえば「なんだクソか」と信じ込み、「処理済」とばかりに脳内から抹殺する。

……こういう時代の中、そもそも「編集」という概念は、それまでマスコミ業界(そのなかでも出版、印刷など各分野)で「こういうもの」と捉えられていた概念から脱していかざるを得ないのかもしれない。のでは?

だから、ここに挙げた書籍も、下手すると近い将来、

「かつては、こういうことをするのを編集と呼んでいた。そんな時代もあった。そういうことをして編集者と呼ばれる人たちがいた」

という、歴史的資料の類いになってしまうのかもしれない(笑)。

そういう時代の流れで、やりたいことと求められることがズレてきてしまったと感じた編集者の反応も、それぞれだろう。
ノスタルジックに、「かつてのやり方」を相変わらず踏襲する(そうする余裕がある)ところで、古き良き、慣れ親しんだ「編集」をする人もいるだろう。
し、「それのどこが編集?いまどきはそういうことを『編集』と呼ぶの?」というような動き方をする編集者もどんどん増えて行くだろうなぁ。

(自分がかつていた会社では求人サイトをやってたんですが、その求人サイトに『編集長』という肩書きがあり、いわゆる編集としての興味も関心も知識も実務経験もゼロの、ただ営業畑で出世してどこかのポジションをあてがわれたというだけの人がその地位に就任して、その実は何一つ編集らしきことはやっていない、なんてのもありましたしw )

ちなみに自分が今後、メジャーになっていく「編集者」とは具体的にどんな?と聞かれたら(←誰にも聞かれていないがな!)

「まとめサイト職人」

と答えます。

媒体はやっぱり、ネット。Web。

今は、情報ソース各種にリンクを張りつつ、ブログ記事ふうな体裁で文章を展開して伝える、という編集がメインだけど、もっとIT技術やデバイス(いわゆるスマホ的な)の発達によって、もっとなんていうか、今の時点では想像がうまくつかない、

「スッ、スッ、と指でなぞったり、声で何かを聞いただけで、欲しい情報が『編集』されてパッと表示される」

仕組みができてくるはず。そしてまさに、その、登場してきた仕組みに沿った形で、情報がみやすくわかりやすく整理された形で表示されるその諸々を担うのが、編集者。

もしかしたら、そのいちいちの処理は手作業ではなくて自動でコンピュータでなされるなら、その編集アルゴリズムを設計するプログラマとしての側面を持つでしょう。

古き良き紙の印刷にあえて、こだわる。

……という人も、数十年単位でもちろんまだまだ、なくなりはしないはず。手元で何かする際には、きっとどうせ紙に出力するというのは今後数百年単位で変わらないだろうし。

ただ、それでも。

せっかく生まれた、というか、編集という可能性を無限大にまで広げてくれる形となった、インターネットというのは、今後「編集者」というジャンルの仕事内容を、職業としての在り方を、変幻自在に変えていくんだと思う。

その意味では、むしろ紙媒体での視覚的な情報構成というチマチマした1つの領域にだけ固執して、そこだけを指して「編集」と呼んでいた狭量さから、人々は脱することに成功できるのかもしれない。





なーんて。

ほんとに業界の末端の、しかもヒーラーの片手間でチンタラ編集の真似事なんぞをやって好い気になってるクズ人材が何を言う、って感じですが。

ほらね?読む価値のないゴミ記事w
だから最初に言ったじゃない!?

読む時間と労力を損したと思われても、謝りませんよ。w
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