シータヒーリング掘り下げ実況中継型実践会の感想4

1,2,3に続いて4弾目。いただきました。


先日19日の掘り下げ実践会で初参加させていただいた者です。
usamimiさんのセミナーやセッションを受けた事がなく、ただずっとブログを読んでいただけの者でしたがいきなり参加させていただき恐縮です。

今まで、ほぼずっと同じインストラクターさんに教わっており他のインストラクターさんの実践会にも行ってみようとは思っていたものの行きたいと思えなかったり都合のつかない日だったりと機会が訪れませんでしたがこの実践会は日も時間もちょうど行ける!という事で申し込みさせていただきました。

掘り下げについては最近何とかようやく要領を得てきたとはいえ、まだまだ腑に落ちていなかったり、苦労する事が多く、例として出していただいた当日のセミナー内でのセッションと実践会でのお二方のデモセッションの解説により
「途中でこれは違ったと一見思える掘り下げでも、プロセスとして本当の土台へ繋がる為に意義がある」
という事が、この先のペアワークやセッションでとても心強く進められるのではないかと思っています。

また、
「シータヒーラーは『通訳者』だから『自分が』ふがいないなんて思うのは傲慢!」
とおっしゃった事も今後自分の中に強く留めておきたい言葉でございました。

HAPPIERについては、アマゾンで頼んだのですが(中古で買った私が悪いのですが)当日まで届かず、普段の生活で見つけ出したイシュー(A)に決めようとしていました。

しかし会場までの道すがら創造主に尋ねましたら「いいや、こっち(B)にしなさい」と受け取りました。

デモセッション後の「イシューを話しあう時間」の中でBを持ち出して見ました所デモでクライアント役をされていた方が掘り下げを行って下さったのですが例と同じようにいったん「これは違う」となり、最初の主題に戻り掘り下げる事になり
結果的にAのイシューが炙り出されるという事になり(ここでタイムアップ)創造主がすごすぎて(今更ですが)一人でふるえる事態になってました。

私にとっては掘り下げを詳しく勉強する以外にも創造主への信頼を改めて強める事のできた、とても意義深い実践会でございました。

今後、機会がありましたらまた参加させていただきたいと思っています。
とても濃密な2時間45分でございました。ありがとうございました。


あざっす。

実は、これを言うと元も子もないのですが、この実践会はインストラクターとして仕切っている最中ずっと

「こんなくだらない、中身のない実践会で本当にいいんだろうか」

という疑念というかが内心、渦巻いてました。

それをおくびにも出さずに平然と、それどころか「どうだい、ちゃんとお金と時間をかけてでも来た甲斐があっただろう?」くらいの、自信ある態度と表情、口調をキープしていたわけです。
(騙すというより、もはやマナーだと思ってます。自信がないからって、お金をいただいてる以上、『すいません、こんなんで。どうか、金返せなんて言わないでください。これでも私なりに一生懸命なんだから、どうか見逃して』みたいなスタンスでは、セミナーなどを開催したくないのです)

でも感想をいただいた方々の反応を見る限り、何かしら意義のある場として成立していたようで、なにより。

これは偶然と言ってしまえばそれまでですが、なによりインストラクターである私が、創造主を信頼して、チャネリングで降りてきたことだけを忠実に行う、ということを、できていたことでもあるのかなと思っています。
だって、私個人は「この内容でいいのか?」と訝しがる感想を抱いているけれど、そこで決して自分なりの意見に沿ったアレンジを加えずにやり通したわけですから。

受講生の方が「良かった」と思った以上、私が「こんなのくだらない」と思ったところで、「私の観点からは、受講生が良かったと評価するということが見えていなかった」ということになります。
うっかり、「私はこうしたほうがいいと思う!」という方へ内容を変更してしまったとして、それが受講生から見て良かったと感じるかどうか、怪しいわけですもんね。

シータヒーラーは通訳者。
伝える内容が良いかどうかなんて、そもそも口出しをする立場にないわけですし。
(勝手にアレンジを加えて喋る通訳ほど信用できないものはない)

通訳者として、お役に立てたなら、よかった。


実践会などを開催して一定数いるのは、

「学びたいという体裁で参加していながら、実はいまより良くなりたいとは思っておらず、単に『私はこんなに努力してるのにできない』と愚痴を聞いて欲しいだけ」

の人。

これはね、ある意味、仕方がないというか、お金を払ってもらったらべつにどんなつもりで来ようが関係ありませんよというスタンスをあえてとっています。こちとら、業者ですから。

ある意味、第三者的に、

・今より良くなろうと、少しでも自分にとってプラスになるものを探し、見つけたら「逃すものか!」という勢いで食らいついて学び取ろうとする人

・今まさに学びとなることが会で展開されてるよ、というときにつまらなそうに所在なさげに、そして飽きてたり眠そうに馬耳東風の極みでスルーし、感想を聞かれたときには(その日の実践会などで学んだ内容なんかそっちのけで、というかそもそも頭に入っておらず)ここぞとばかりに愚痴の大演説! 他人の注目を浴びて「私、いま、アイドル!みんなに見てもらえてる!悲劇のヒロインを演じて、きっとみんな私のことを、『可哀想だけど健気だから愛せる』と思ってくれているはず!」と気持ち良さげに、その場の空気も読まず、時間配分などに気を配ることもなく、ひたすら、言いたいことをゲロ吐きみたいにぶちまけて、周りがどんよりうんざりする一方で吐いた本人だけはスッキリして快感の笑みをうかべる、的な人

との行動の違いというかを見てるのは、面白いです。

何かがうまくいかない人、上達しない人は、本人いわく

「私は、やれるだけのことは、やっている。なのに、自分の力ではどうしようもない理不尽のせいで、うまくいかない。だから私は被害者だ。(そんな可哀想な私がうまくいくように、この世界のすべてが私に尽くすべきなのだ)」

的なことを言います。

でも第三者的に見ると、上達していける人が何かを学んでいる真っ最中のとき、何もしていないのです。

もしそのことを自業自得だと指摘しようものなら、

「私は……精一杯、やろうとしてるんです………けどォ!(泣いて沈黙)」

みたいな態度をとることが常套句(←なんかね、ここ、もっとみんなバリエーションねえのかよ、と張り合いなく感じます。全国津々浦々、それどころか国籍や人種を問わず、みんな同じ対応をするのね)。

そして、

「自分は、やろうとしているけれど、それをできなくさせる心の?思考の?呪いの?『壁』があるのだから、できなくても仕方ないじゃないか。私は悪くないのに、まるで私のせいであるかのように責められるいわれはない!どうして私を苛めるの?」

みたいなことを、いけしゃあしゃあと思うもののようです。

そしてえてして、インストラクターのことを、

「無理やり私に勉強を強いる、傲慢なエゴイスト。何様なスパルタ苛めっ子」

みたいにマイナス印象を持ちます。

もう、どこから手をつけていいんだか、って感じです。

(別にこちらが出てくれと頼んだわけでもない、よりによって超能力養成セミナーになんか、もし上達したくないなら、出なきゃいいじゃん!と思います。

しかも、だからといってほんとに、こちらが受講生を見捨てるつもり満々で冷たくドライにしているわけではないのですよ。その時々に集う受講生1人1人の課題や、『こういう教わり方をすれば理解できる』というようなクセ?傾向?を霊視で見抜き、最大公約数的だったり1点集中だったり臨機応変に、その場にいる人たちにとって自分がもたらしうる最良の場を作ろうとは尽力します。が、その尽力はなにも、『私はできないの。だから特別に構ってちょうだい。他の誰より大切に、手取り足取り教えてちょうだい』という人をえこひいきするという意味ではないわけです。

どちらかといえば、真摯にその場から学べることを吸収していく受講生のほうが態度は控えめで、周りに迷惑をかけるような振る舞い・言動もしません。べつにおとなしく黙っていろというわけではなく、要所要所で質問をするとか、礼儀と分別をわきまえたうえで主体的にアクションを起こすのはむしろ歓迎します。

が、誰よりも怠惰で何も努力できていないのに、はじめからおんぶに抱っこのつもり満載で、一番大切に構ってもらえるつもりムンムンで、受け身100%で他人への期待・要求だけは世界一の完璧なものを求めつつ、いざ何か実習をしたりコメントを求められたらなんとしてでも後ろ向きで消極的でネガティブなことをしたり言ったりして『私ができないのは仕方ないことだ。私は悪くない』と開き直るようなパフォーマンスをするだけ……みたいなのは、どうなのよ、と思うわけです)

構ってちゃんになるのは、十分な愛情を受け取っていないから

なのは言うまでもないことです。

そして、

子供の頃に、十分な愛情を受け取れなかった家庭環境や学校生活になってしまったことには、本人には責任がない

とするのも、妥当なことでしょう。
(実際は霊的に見れば、子供だろうとなんだろうと、自分の意図で現実を創ってはいるのですが、えてして子供時代というのは、もし大人になって分別なり能力なりが育ってしまってからでは経験できないならではのネガティブな体験を、はしかや水疱瘡ばりに済ませてしまおうと設定している人も少なくありません。よって、子供時代のネガティブな思いは、あえて追及しないというのは、人としての優しさといえるのでは、と)

でも。

子供時代に十分な愛情を受け取れなかった家庭環境や学校生活になってしまったことで生まれた歪みや傷、育て損なった能力やセンス(感覚)、知識などを放置して治さないのは、大人になったらその本人の責任。

ましてや自分の落ち度によって他人に迷惑をかけたら、どんな事情で自分がそれをできていなかったとしても、「すみません、すべて私が悪いんです。子供の頃に受けたトラウマを癒すことをサボった私が、あるいはさんざん努力はしたけれども結果的に癒すという結果につながらずまだ傷ついたままでのうのうと生きて他人と接して迷惑をかける形になった私が、悪いです。

子供の頃に友達がいなくて人付き合いのコツやその場の空気を読む能力を育て損なったまま大人になった今もそんな状態で他人様と接している自分が、なにもかも、悪いんです」と謝るべき


といえるのでは。

あくまで私個人の信条になりますが、子供の頃だかにどれだけ酷い目に遭って傷つこうが、常識やら人間関係のコツやら知識やら技能やらを身につける機会を逸したとしても、それは大人になった以上は、一切、言い訳にならないと思っています。

これは厳しすぎる考え方かもしれません。それは自覚しています。また、霊的な真実ともズレているというか、あくまでも個人的な意見。それこそ信念であって、真実ではないことくらい、わかっています。

でも、だからこそ。

他人に、というよりは、自分に、適用する意味合いで、こう思っています。

昔なにがあろうと、今、目の前で接している人の前で粗相があったら、何一つ言い訳をすることはできない。自分が至らなかったせい。子供の頃に受けたトラウマやら精神的な苦痛やら失われた学習機会やらによってもし、育て損なった能力なり感覚なりがあるなら、それをしかるべく修正したり、後付け的に学習して遅れを取り戻すなり、できていないのは、どこまでもどこまでも、本人の落ち度。

そう思っています。

ちなみに。

今はメンタルヘルスを病むとか、あまりにも気軽に「鬱」という単語を使いすぎているんじゃないかな、と思います。

そういう状態に陥った人を責めるつもりはないのですが、個人的にどうかと思うのは、

「だって、メンタルヘルスを病んだのだから、鬱なのだから、しょうがないじゃない。ていうか、人より可哀想な私に、優しくしてよ。尽くしてよ」

という態度の人。

もはや、病んでいるという状態が、水戸黄門の印籠ばりに効力を発揮するステータスと化しているのです。

先日、会社員の若い男性たちが、

「あいつも鬱になって会社辞めたぜ?」

「うーわ!脱落者、乙!ギャハハハ!」

と、どうやら同じ会社の同期か何かにあたる人が鬱になって会社を辞めたらしい話をしているのを耳にしました。

もうそのグループの間では、鬱になるということは、ましてやそれが原因で会社を辞めるなんてことは

「エンガチョ!」

扱いなわけです。

何一つ、同情してもらえる余地はないのです。

この会話をしていた男性たちは確かに、人間的な優しさや配慮に欠けているのかもしれません。

でも本来、弱肉強食のこの世界においては、病んでしまうとか、本来ならできてしかるべきことができなくなるというのは、同情どころか、敗北の証。恥ずべき汚点と捉えることもできるわけです。

冷徹と思われるかもしれませんが、私はこの会話をしていた男性グループの感覚というかを

「近年、稀に見るノーマルで健全な感覚」

と感じました。

いやね、ほんとに鬱で苦しんでる人をザマアミロと貶すつもりは、毛頭ないんです。
それどころか、誰にでも陥る可能性がある精神面のマイナス状態各種については、誰もが恥やレッテルと感じずに医療機関で治療を受けられるだけの理解が普及すればいいと思ってはいます。

でもそれでも、実際に弱ってしまったら、病んでしまったら、怪我をしてしまったら。
動物的な感覚からいったら、どこまでいっても「汚点」であり、「忌むべき穢れ」ともいえ、「この世を生きるうえで不利」なんです。
(実際、動物の親は、子供が障害を持って生まれたら食べてしまったり、育児放棄をして死ぬにまかせたりしますよね。生まれたときは健康でも、病気や怪我で弱った場合はその時点で、親は治す方向で面倒を見続けるか、見捨てたり殺したりするかを判断します。人間的な思考でいうエンガチョともまた別に、実質的に、動物的本能からして、健全とされるステータスから外れることは、『あらざるべきこと』なんです)

そんなこんなで、自分が肉体的にせよ精神的にせよ病気になったり怪我をしたら、それはそれで気落ちせず、また恥と感じることもなく、療養なりを堂々と受ければいいと思いますし、回復不能な状態(手を切断などで再生が現状の医学などでは方法がない場合)なら、その状態でもどうにか生きられる方法を模索していくのが望ましいとも思います。でもどこかで、「だから病気でもいいじゃない」「病気なんだから、特別に優しくしてよ。甘くみてよ」と思うのは違うと感じるのです。
自分自身が傷つくこともなく「まぁでも、五体満足で健康なのが、本来はいい(んだろう)ね」と思って、しれっと、自分の病気やら怪我やらの治療に専念したり、治らない怪我や病気ならそれはそれで付き合っていけばいいと思っています。
(ただ、ここで書いていることは、実践が非常に難しい類のことだということも自覚しています)

うーん、ちょっと過激に書いちゃったけど、なんていうか、

「私はなんたって鬱!どうよ!無敵でしょう?これで誰ももう、私のことを攻撃できないよね?そして、鬱という苦労を背負って、それに耐えてる私は尊い!どうよ!?健康で人生が幸せに豊かにいってるような甘ちゃんとは、ワケが違うんだから!」

とドヤ顔している、

ほんとの意味では鬱でもなんでもない、悲劇のヒロインを気取りたいだけの卑怯な嘘つきが多くて呆れる


ってだけなんですけどね。

(怒り?の代理人になるのも、とは思うけど、『自分は鬱だ』と、べつに精神科医の診察を受けるでもなく勝手に自分でそう言ってる人を見ると、『ほんとに鬱で苦しんでる人に失礼じゃないの?』と思うんですよね)

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