『セールスマンの死』は時代を予見したか

言わずと知れた、アーサー・ミラーの戯曲。1949年、実に第二次世界大戦終結直後に執筆・出版されています。

内容は解説するまでもないかもしれませんが、セールスマンという、主人公が花形と捉えた職業の権威や社会的地位?の失墜の1つの形を描いています。

(それだけでなく、父親の尊厳や人付き合いにおける義理人情など、『ひと昔前』は皆が重んじ、それができていることが重要とされ、それができている人が尊敬されるという文化・風潮自体の死、衰退について悲哀を込めて?綴られます)

また同時に、普遍的にもはやどの社会・家庭を見てもセールスマンがダメで父親の尊厳は失われ人付き合いの義理人情といったものが失われ、重んじられなくなっているかというと、もちろんそういうわけでもなくて人それぞれなんだよね、ということも示唆されます。

さてこの記事のタイトルですが。

セールスマン限定というよりは、いま人間が行っている仕事、職業とされる役割が、機械やコンピュータにとって代わられないかどうかというニュアンスでよく考えることがあります。

セールスマンという職種が世の中から全滅したわけではありませんが、活動領域としてかなり狭まっていきている印象はあります。
印象の問題だけでなく、事実、たとえば物を買うとき、ネット通販が年々、隆盛して一般化していますね。パソコンに疎い高齢者なども、タブレットなど操作しやすいデバイスの登場により、ネットショッピングをしやすくなる流れは今後ますます定着するでしょう。
証券の営業は最たるもので、ネット証券の普及により、わざわざ高い手数料を払って人間のいる店舗窓口に足を運んで証券売買をする人というのは、少なくなりつつあります。
(あえていうと、未公開株を割り当ててもらえるなど、『人とコネを築くからこそ』得られるメリットのため、あえて高い手数料を払って窓口に行き、担当の人と顔を突き合わせて信頼関係を築くという人もおり、そうした『計算や法則に基づかず、あくまでも人間が(恣意的に)意思決定を下す』領域であれば、今後も恒久的に、たとえどれだけテクノロジーが発達しても、人間がそこに介在する意義や価値はゼロにはならないでしょうが)

宅配・配送業務のように、(人間の持つ職業的専門性ゆえというよりは、家の玄関チャイムを押して出てきた人に荷物を渡すなど、作業自体が現状の機械・コンピュータに置き換えにくいからというだけで)自動化できそうでできにくいイメージある業種についても、ドローンによる配送が実験的に試みられつつあります。

タクシーの運転手のように、これまた(運転手に要求される職業的専門性が高いからというよりは、単に現行のコンピュータに置き換えにくい作業を要求されるからという理由だけで)人が行っていた職業も、今後、自動車の無人走行や衝突回避など機械自体の高度化、それを許容する法制度の変更などにより、いくらでも可能性は見えています。

ありきたりですが、単純作業で事足りる領域は、コンピュータにどんどん取って代わられます。
そしてその「単純作業」が指し示すレベルも、どんどん高度に、複雑になっています。けっこう複雑な作業であっても、今後のコンピュータ化で、どうとでも自動化できるようになっていくでしょう。

究極をいえば、

その人(が提供するサービス)自体が目的、目当てではない仕事は機械・コンピュータに淘汰される

ということです。

小売店でいえば、その店員さんが接客して会計して商品を包む……ということが目的で客がお金を払いに来るのであれば、その店員さんは職を失うことはないでしょう。
が、客の目的が「店員が誰か、接客や会計をどんな人が担当するかはどうでもいいから、物を買いたいだけなんだよね」という場合は、店員の存在には価値が置かれないことになります。

物を目当てにする客を相手にする以上、(なんなら技術が進めばコンピュータで自動化できるが、たまたま今の時代はまだそうなっていないというだけでそこに存在して働いている)店員という仕事は、価値が見出されにくくなるでしょう。

店員の価値があるとすれば、「どれを買えばいいかわからない」という客に対してのアドバイス。ただそれすら、単純な機能比較だけでいいなら機械で事足りますし、「◯◯さんのアドバイスを受けて買いたい!」と、客のニーズが店員本人の提供するサービスにならない以上は、そこまで強く、生き残れると保証できるわけではありません。

逆にいうと、(すでに斜陽産業と呼ばれつつある)居酒屋の場合であっても、客が料理や酒を目当てにするのではなく、「マスターに会いたい」と、人を目当てに金と時間を捧げる意向を持っている場合は、生き残り力は強いといえるのでは。
(どこにでもある居酒屋ですよ、人はただ黒子みたいに料理や酒を運ぶだけで、それ以上の、『そこに人がいて提供するならではのサービス』は何一つ提供しませんよ……という居酒屋だと逆に、かなりキツいのでは。料理や酒を運ぶのだって、回転すし屋で注文した料理を特定の客のところに届ける列車型のアレが完備されたら、フロアの店員の存在自体が不要になります。料理も、よほど料理人ならではの微細な腕が要求されるものでなければ、なんなら自動化は可能でしょう(←単に、いますぐ導入するには費用がかかるとか、まだそこまでありとあらゆる料理を提供する調理システムが考案・実用化されていないだけの話だと思います。要は時間の問題))

ここで強引にタイトルに戻り、あえて結論を出すならば、

「それがセールスマンであろうとなんだろうと、必要十分以上の客(あるいは自分の職業的価値、報酬の有無や額を決める権限ある同僚や雇用主など)から、自分の提供する、機械化不可能なサービスを求められ、それに応え続けるという動き方を継続できるなら、どんな職業でも、潰れることはない」

ということでしょうか。

ちなみに表題の作品で描かれるセールスマンの主人公は、セールスマンという業種自体が廃れたからというよりは、多様性への理解のなさ(≒自分と他人は違う考え方を持っており、何を欲し、重視するかも違うのだ、だからそれを、自分の考えをいったん脇に置いて相手の思っている考えどおりに一度汲み取り、そのうえで客の要望を満たすように動かないと顧客満足度は獲得できないのだ、ということがわからず、『これは正しいはずだ!さぁ、俺の想定するとおりの応え方をしろ、俺の意図したとおりの好感を、尊敬を、俺に向けろ』と暗に他人に自分の理想を押し付け、拒絶された結果、仕事で成功できなかった(だけ))ゆえに失敗したのだと個人的には思っています。

ここから先、本当に機械やコンピュータが、現状では人間がこなしている仕事に取って代わるには、まだまだ数十年という時間が最低でも必要な実感があります。(また、コンピュータ化できる技術自体が完成しても、取って代わられる側の人間が抵抗する、ということも当然、起きるでしょうし)

世代によっては、「逃げ切れる」可能性も十分にあります。
そこまでいますぐ、悲観的になる必要はないかもしれません。

ただ。

人そのものが必要とされないまではいかなくとも、

デキない人間は要らない(クビを切られる)、という風潮はますます加速化する

と思っています。

で、その「デキない人間」というのは、その職種に求められる実作業的なスキル・技能もさることながら(←ただ、よっぽどの職人などでないと、実はこの部分さえ、危ういんですけどね。『すごいかもしんないけど、探せばいくらでもいるレベルのすごさ』どまりの技能では、人間的な側面へのNG度合いが高くなった瞬間に、あっさりクビ切りされます)、

仕事のときは普段の自分のありのままとは異なる場合もある、その都度のTPO+人のメンツに応じた「正解・良しとされる動き方」に、割り切って合わせ、周りとも協調できる適応力を持ち、発揮する


ことができない、という意味で論じられる場合が多くなっていくはず。(予言!w)

要するに多様性というか、

自分と違う価値判断基準に合わせられるか。
しかもその価値判断基準が複数ある場合、(あちらを立てればこちらが立たず、の状況が容易に起きやすいなかで)どう立ち回るか。
(必ずしも、全員に良い顔をする必要もなくて、どこかを採る代わりにやむなくどれかを切るとか、どこかと対立するとか、対立して戦うことになっても自分がやられないように防衛でも応戦でもできるとか、とにかく帳尻をその人ならではのあり方・やり方で合わせ、ケツが拭けてれば最低限以上はOK扱い、という意味合い)

ができてるか・わかってるかじゃないでしょうか。

それらすべてを構成する根幹となる、

自分はどうしたいか、しているか(の行動結果をもたらす、その人が抱く信念)

が、その「人」の価値を決める最終かつ唯一の要因だったりして。
(もちろんその信念が、理解されないどころか『危険だ、けしからん』などとマイナス評価され、それゆえに強く否定される場合もあるっちゃあるわけですが)

その、腹をくくる、どうしたいかの信念を抱くうえでもしかしたらかえって誰かから敵視され攻撃されるかもしれないという

リスクを背負う覚悟

も欠かせない要因の1つだったりするわけで。

もしもセールスマンの死が時代を予見しているとすれば、それはセールスマンという職種がもはや斜陽だ、という意味ではなくて、

独善的で他人の気持ちや価値観が理解できない人間は、死ぬしかない

という意味合いなのでは……と思っています。