どんな時間を選ぶか、入るか。

ぼーっと過ごして過ぎる1時間と、没入して集中して過ごす1時間を同じ1時間と感じますか?

時間の長さは一定ではありません。し、長さだけでなく、さまざまな「質」において、どんな時間になるかは日毎のお米の炊き具合のように、微妙に変化します。

その変化は自分で創り出すこともできます。

学校の勉強ができる人や、スポーツや芸事などで優秀な人はわりと子供の頃から、濃密な、実のある時間の生み出し方、自分で生み出したその時間への没入のしかたを身につけています。

あんまり勉強や練習をしていないのに成績がいい人というのは、同じ1時間でも、ほかの人よりも長く、「没入した物事とのエネルギー交信」の量や質が大きいんです。それを実現できるような時間を創り、そこに生きることができています。
(注:たとえば勉強で本を読んでそこに書いてあることを覚えるというのは、その本の文字などが表している概念を視覚などを通じて受け取り、脳のなかでその概念を像として表象化します。そして、その表象をもう一度、噛み砕いて消化するというプロセスで破壊して取り込むことで、自分の思考や記憶などのエネルギーとして転写し、保持します。これがいわば『没入した物事(ここでは、勉強で読んでいる本)とのエネルギー交信』の具体例です←ちなみに、勉強ができてない人というのはこの例でいえば、本などの文字情報という記号から概念への変換作業、概念の像を結ぶ作業、創りあげた像を食べて消化する作業のいずれかでコケており学習プロセスが完結しないというのが、霊的エネルギー事象からみた『勉強のできる/できない』の違いです)

自分1人でそういう時間を創り出すのがうまくない、やり方がよくわからないという人は、あらかじめ成立しているそういう場に入るほうが簡単です。

わかりやすくいえば、塾や習い事など、先生・師匠という立場の人があらかじめ、そこに来る生徒も一緒になってその時間に生きられるような、勉強向き・芸事向きの時間を創ってくれます(サイキックなことに自覚的でなくても、実質、創れている先生というのはわりといます)。または先生1人でなく、集まったメンバーみんなでなんとなく、意図的にではなくてもそういう時間が自然と成立していたりします。

一族そろって医者、というような家系ってありますよね。その場合、遺伝子的な有能さももちろんあるのでしょうが、その家族が無意識のうちに引き継いでいる、有益な生き方に繋がる時間の生み出し方を学び合っている。みんなで創り出してそこに生きている(からみんな、世間一般よりも得るものが大きい人生になっていく)、ということもあります。

友達同士で遊んでいるときもそう。
どんな時間を創るか、は、人気も左右します。
みんなが憧れる質の時間を創れる人は人気があり(当然ですね、あやかりたい人が群がるので)、逆に、「場の空気がしらける」と言われてしまうような、非生産的な時間を創り出す人の周りには、それを良いと思う人でない限りは寄ってきません。
(注:ただし、時間の質とは無関係な、単純に気質として淀んだネガティブなエネルギーを身にまとっているので疎まれているという場合もあります。ネガティブな人が必ずしも、生み出す時間の質のせいで嫌われるということではありません)
明るい性格なのに、その人が知らずに生み出している時間がちょっとアレな場合もあります。そういう場合は、性格的には良いかもしれないし、飲み会のように多少あえてカオスな時間の流れ方をしたほうが面白い場面では好かれますが、勉強で成果を上げたり仕事の能力を磨くといった場にそういう人が混ざると、その人が創る時間の質が学びの場にふさわしくない場合は敬遠されざるをえません。


逆にいえば、烏合の衆的な人たちが集い、ダラダラと何も生産的でない感じの時間が生まれてしまい、そこに自分がうっかり呑まれてしまうと、孤軍奮闘しても全然、努力が実らないということもあります。
(魔女にありがちなのですが、非生産的にあっという間に過ぎ去らせてしまう時間を無意識に創り出し、自分の創り出した時間に周りの人たちを巻き込み、何も成し遂げることなくみんなの時間を過ぎ去らせ、人々が何も生み出せない・学べないようにするエネルギー状態の人もいたりします)

または、みんなが何か濃密な時間に沿って生きているのに、自分だけ、エネルギー的に同調せず別の時間を創り出してそこに生きていると、置いてけぼりを食うというか、他のみんなと一緒に動けば得られる成果を得られません。
(学校の授業中、みんなが集中してるのに自分だけ飽きて、ぽかんと時空間的に放り出されたようになり、アンニュイな気持ちで時間を潰した経験は、多かれ少なかれみんなあるのではないでしょうか?そして集中してたみんなが、どうやら自分にはわからない何かを手にしているのを感じて、余計につまらない気持ちになったりw)

ある1時間、ある同じ場所においてさえ、ここまで述べてきたようなニュアンスでいえば「いろんな長さの、いろんな質の時間」が成立しています。

これが、1日24時間、365日(=1年)、生まれてから死ぬまで続きます。

だらっと過ごした1日と、濃密に生きた1日は、同じ1日の長さや質ではありませんよね。
これが積み重なったら、どうなるでしょう?(答えはカンタン。現実に実際に起きている『格差』につながるのです)

でも、不平等なことは何もない。
全人類の、その個々人ごとに「(積極的に自覚的にせよ、消極的に無意識にせよ)選んだ」時間が、夢・願望として叶って、与えられるのですから。

ほんと、この世界は、すべてが愛ですね♪
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