幸せ気分をコントロールして自由自在に出せるようにする

満ち足りた「気分」としての「幸せ感」は、自然と得られるだけじゃなくて、「感じたいときに感じられるようにするもの」なんですね、実は。

気分(ムード)のコントロールは、自律・自立した大人のたしなみ。
ムシャクシャしたからTPOをわきまえずどこでも泣いたりわめいたりする、では、社会人としてどうなの、という側面があります。
(いわゆる世間的常識ではなく、霊的な事象としても、自分の感情エネルギーをコントロールできるようにするのは、霊的成熟として人間にとって大事な修練しうる要素です←もちろん放置して、感情が流れるにまかせ、いつどうなるかわからない自分の気まぐれな感情に人生を支配される生き方をしても、自由っちゃ自由なんですが。霊的に成長した有様とは、到底いえないでしょうね)

基本としては、「笑い」と「泣き」のコントロール。
シュタイナーの心理学本を読むと詳しく記述がありますが、この2つの感情エネルギーに負けてしまう自制心だと、人として霊的成長度合いとして幼稚なんです。
一般的にいっても、突然笑い出したり泣き出したりする人となると、よほどのシチュエーションや、たまにならまだしも、いつもだとすれば、さすがに社会人としての精神的成熟というかを疑われますし、人間的に尊敬はされにくいでしょう。
(もちろん、一切、笑ったり泣いたりしてはいけない、というわけではありません。トイレを我慢するように、しかるべき場・状況で解放しましょう、ということです。それができるようになろう、それができるようであろう、ということです)

で。

できれば幸せ気分も、出したいときに出せるようであるといいよね、という。
というか、社会的に成功していたり、高い実績を築いたり、人間的に尊敬されている人というのは基本、これができています。



ちょっとドライな考え方になりますが、(しかも、私がそう思っているというよりは、世間で成功者と呼ばれる人はだいたいこういう考え方のようだ、という意味で述べるのですが)

「幸せかどうかを、一時的な気分の高揚だけに頼ってしまうと、死ぬまで続く物理現実を本当に盤石に歩むうえでは心もとない」


わけです。

気分の浮き沈みとは別に、物理的に、たとえば収入であるとか、家がちゃんとあるとか、物理現実に生きる存在である以上、欠かせないのは、そっちなんですね。
というか、物理現実がまずありきで、そのうえで精神的な幸せ感が乗っかってこないと、ただのバランス感覚の悪い人(生き方が不器用な人、社会生活を営む能力が低い人)で終わってしまう。

逆に言うと、物理現実がグラグラしているのに、気分的に晴れ晴れとして「気持ちいいから、すべては大丈夫!」みたいなポジティブシンキングは、下手すると物理現実がガタガタ崩れていくのを放置することにもつながり、もしそうなってしまうと長期的に見れば幸せと断じるのは難しいといえるのでは……という懸念を持っています。



このことは、いわばこの世にあまたとあるトリックのうち、かなり根源的かつ見破りにくいものの1つといえます。

幸せは、自分が定義し、自分で感じようとして感じる。
(なんとなく訪れてくる、『これが幸せというものだよ』という他人からの情報や、一時的に湧いてくる気分的高揚に委ねない)


ことができると、うまくいくよ、という。。。

これと対極にある、ある意味ダメダメな、トリックにまんまと引っ掛かっちゃってる在り方の最たる例が

「なんかいいこと起きないかな」
「もし〜〜が〜〜になったら、幸せになれるだろう」


という考え。

もちろんここで述べたように、何を幸せと感じるかは人それぞれなので、収入も家もなく放浪する在り方を幸せと感じているならそれはそれで他人が口を出すことではないと思います。もし本当に幸せだと感じられて、その在り方・生き方が望ましいと確信できているなら。

ただ、よっぽどの人でない限り、人間の動物的本能などにも照らして、家があり、食べ物があり、そこに加えて動物と違って衣服があり……という衣食住の基本が揃って(動物だって巣があり餌を食べ、それにより不安や恐怖が消え、満足や安心を感じます。人間だって例外ではないですよね)、そこに家族、友人と続き、願わくば群れの中での所属意識&満たされた承認欲求(=居場所がある)、リーダーとしての達成感、人望を得ることでの自尊心の確立etcといった高度な欲求の満足が続けば続くほど、「幸せ」なんじゃないの、と。

だとすれば、やっぱり、何もないのに「幸せ」という気分的高揚が偶然、訪れていさえすれば幸せなのだという考え方だと、危ういんじゃないの、と考えるのも、異常なことではないでしょう。


ごちゃごちゃ書いてきましたが、結論としては

「幸せ感」があるから幸せ、とは限らない


ってことじゃないでしょうか。
(もし、幸せ感がありさえすれば本当に幸せなら、人類全員、ドラッグ依存症で一生ラリってればいいわけですよね)

これまたドライかもしれませんが、社会的に成功とされる高い実績を築く人ほど、自分自身のムードコントロール、メンタル管理の一環として?「幸せ感を自分の心に与えたほうが良いと判断したとき意識的に、幸せ感を感じる(ことで、幸せ感をそのとき感じられなかったら生じてしまう恐れのある欠乏感やヤル気の減少といったマイナスなムードが成立しないようにする)」ということをします。

スピリチュアルな考え方でわりとメジャーなものとして、「私たちは、幸せになるために生まれてきたのです」というフレーズがあります。

これを否定するつもりはないし、いろんな解釈があって当然だと思っています。

ただ、ワガママな欲求が満たされたからご満悦、というニュアンスで「幸せ〜♪」という気分が、一生続けばそれは「幸せ」なのか。そういう、一生ずっとワガママな欲求が満たされ続けることで生まれる幸せを味わうために生まれてきた(そのために他人におねだりしたり、何か1つでも少しでもワガママが通らない度に他人や世の中、あるいは神まで怨み、理不尽だと嘆き、自分のワガママを満たしてくれる現実が自分では何もしなくても自然と訪れるのを待つ。そうならないなら不幸だとふてくされる)、というニュアンスの解釈でいいのか?……という点は、個人的には留意したほうがいいんじゃないかな、と。

P.S

ムードコントロールは意識して身につける「スキル」なのだ、という考え方は、どうやら社会的にはそれほど浸透していないようです。
というか昔は、「我慢しなさい」に代表される、抑圧という手法でのムードコントロールはむしろ一般的だったようですが、それに伴う鬱憤の爆発などに対処できず、「やっぱり無理しないほうがいいよね」の流れで、なんとなくみんなナァナァになり、スパルタ一辺倒もどうよの考え方が行きすぎて?ゆとり重視、ほんの少しでも不満を感じる状況があったらそれは自分じゃなくて状況のほうが悪い、という考え方にシフトしてきてる印象があります。

個人的には、抑圧一辺倒なのも、ありのまま至上主義なのも、どちらも、ムードコントロールのスキルとしては拙いのではないかと考えています。

もっと無理なく、賢く、また心の自然な在り方を無視しているわけでもない、いわば高度なムードコントロールや、「ここはムードコントロールじゃなくて、本当に物理現実に働きかけて変えるところでしょう」というシチュエーションのときはそうする(できる)能力、そのどちらをすべき状況かの判断力といったものを、みんなで編み出したり培ったりシェアしたりして、人類全体で「心の賢さ」の底上げをしていくのが、本当は理想なんでしょうね。
(部分的にでも、実際そうなりつつある動きは感じます。ひと昔前の大人よりも、今の子供のほうがずっとそのへんはスマート。100%ドライというわけでもなく、100%情緒に依存というわけでもなく、小難しい入り組んだシチュエーションでも、さっさか乗りこなしていく人が、どんどん増えていくと思います。『ひと昔前』側にいる人は、老体に鞭打ってでも、そういう新しい時代の流れについていけるか、ダメだと白旗を上げて呆然と戦線離脱するか、どちらかでしょうね←どちらでも本人の好き好き、あるいは能力次第だと思います)
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