エゴM気質の人

まんまSMプレイでもいるそうです、エゴM。

「〜していたぶってください。絶対服従でなんでもします」

と言っておいて、実はあらかじめその人の理想のプレイのされ方、責められ方があり、そこから1mmでもズレると「ハァ?」となるマゾヒストのことを指すそうです。

つまり、服従して被虐の役割を担うはずのMが、実は主導権というか、絶対君主的にその場にいて、S(サディスト)側の責め方の指揮権限のすべてを担っている、という図。

職業としてSMの女王様や縄師・責め師をしている人からすると、SMのSは「サービス」のS、Mは「満足(まんぞく)」のMと割り切っているとか。

これ、ヒーリングやカウンセリング、芸事などの習い事全般にもいえるんですよね。

「どんなにつらい試練にも耐えてみせます!スパルタでもなんでも、それが成長と実力の向上に繋がるなら、ビシバシしごいてください!!」

という姿勢の生徒はたまに(というか一定数)います。

が。

エゴM気質でそう言ってる人、けっこういるんです。

どういうことかというと、「そこまでいうなら」と、インストラクターや師匠側が教えにかかる、ダメ出しをする段になってみて、教わる側である自分が予想していたスパルタ感、厳しく教えられてるイメージからほんの少しでもズレると

「なんか違う」

といってプイとやめてしまう。

それどころか、

「あの先生は、私の期待を裏切った!私を傷つけるような酷いことを言った!」

というふうに、絶対服従スパルタ志願はどこ行ったんだよ的に被害者を気取り始める人もいます。

一言でいうと、ワガママなあまちゃん、ということなんでしょうけれども。

何かを教わる場合でいえば、エゴMでいて伸びられるんですか、ということになるでしょうかね。
(絶対に無理だ、とも断言するつもりはありません。むしろ知りたいです、エゴM的な在り方のままでうまいこと何かを習えるのならばそのほうが教わる側は無理がないですし←最近、英語学校などは、あらかじめ『エゴM的な生徒』像を想定して『あなたのワガママ、叶えます』式に、まさにサービスのSとして売り出してるトコ、目立ちますよね。Gabaとか)

逆に、教える側の場合、エゴM気質の生徒の扱いをどうするかは、ある程度?決めておいたほうがいいかも。
どこまでもサービスのSとして、尽くす姿勢をとるか、「いや、最低限、このくらいは我慢してもらわないといけませんよ」という境界線を設けておくか、など。
(自分は第三者目線なのですが、西洋音楽の楽器の習い事を(とりわけ社会人に)教える先生方は、いろんな芸事があるなかで、特に大変そうだな、という印象があります。ほんとは厳しく真剣に、一定の基準を満たす演奏ができるように指導するのが望ましいのでしょうが、そもそも大人が趣味で習うとなると、べつにどうしてもプロにならなきゃいけないわけでもないし、生徒側としても『カネを払って趣味で習いに来てるんだから、楽しませろ。サービス業者として振る舞え』と暗に期待しているところもあります。もちろん、生徒との間に信頼関係や、どのくらいの厳しさで習いたいかの暗黙の了解がとれている場合はまだマシかもしれませんが、先生自身は厳しい基準をくぐりぬけて音大などを出ているにもかかわらず、オハナシにならないくらい甘い姿勢と信じられないくらい下手な技術力、それにもまして、たいして練習していないという取り組み方のユルさに耐えて笑顔をキープしなければいけないのは、甚大なストレスになっているのでは、と←そのセンでいくと、演劇やダンス、日本の古典芸能の類いはまだ、教える側がある程度スパルタに上から目線で指導にあたるのが当然、というなんとなくの共通認識がある気がして、多少は、やりやすいのではと勝手に想像しています)

あ、でもこれ、会社の上司部下でもけっこうありそう。

新入社員が上司からダメ出しをされ、

「上から目線で否定された。対等な感じがしない」

と不満を抱くのがさほど異常とみなされない風潮になってきているとか。
(上司が新入社員の部下に上から目線で仕事の不出来具合を否定してどこが悪い、と思う程度にはオジサンな世代ですよ私)



はてさて、一般論はさておき、私自身はどうしているかというと、

「M(マゾヒスト)の言う言葉は信じない」

主義です。

(エゴ)M気質の生徒や受講生についてもしかり。

口でなんと言っているかは、はっきりいって、ほぼまったく気にしません。

あくまでもエネルギーを観て判断します。

べつにMでなくとも、ある一定以上の美徳各種が整ってない人の言うことは、まずもって一切、信用しない主義です。
(ただし表面上は、相手の言う言葉を尊重したコミュニケーションをとっているふうを装います、マナーの一環として)

相手に悪気がある場合はもとより、悪気がない場合でも、人は「やります、できます」と言ったことができないことが往々にしてあるからです。能力が低かったり、美徳を体現できてないそんなに立派でない人間なら尚更。
(しかも、たいして立派でない人間ほど、些細なダメ出しで『失礼な!/傷ついた!/そんなことない!できている!etc』と、都合よく何様目線で反論してきますw どれだけこちらが、相手の不誠実なパフォーマンス結果によって損害を被ったとしても、そんなこと一切、気にも留めず、『自分はベストを尽くした!』の一点張りで、ダメ出しを取り消せとか、褒めろということを要求してきます。893の脅迫かっつーの)

で、一番難しいのが、ある明確な1つの目標ラインを生徒側が気にし始めたとき。

ナァナァで、実は甘く低レベルなレッスンを展開していても、生徒がそれに(どれだけおかしな勘違いであっても)満足していれば、問題ないんです。こっちもサービス業者ですから。託児所の保育士、くらいのつもりで赤ん坊の相手してると割り切ってれば。お金さえ貰えてればw

でも、英語でいえばTOEIC何点とか、一定の能力が本当に求められる目標を目指し始まったときが、「線香花火が途中でジジジ……と消えそうになるとき」なんです。

そうなるとこちらも、ニコニコした演技をし続けるわけにはいかず、口調はどんなに優しく気を遣ったとしても、

「今のままじゃ全然ダメ。どうにかしなきゃ」

ということを告げることになります(←それをしないというのも、教える側として不誠実ですよね)。

スパルタどころか、ものすごーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーく、気を遣い、過度にショックを受けないように配慮しながらも、言うべきことは言わないと。

そこではある意味、教師側はなんの力も持ちません。

生徒側が、ショッキングな事実を受け止め、自分の都合のいい勘違いを認め、目をさまし、現実を見据え、ダメダメな現状からでも一歩ずつ、向上を目指す決意ができるかどうか。

その、生徒1人の孤独な、決意のための意思決定プロセスを、途中で心折れることなく乗り切ってもらわないとどうしようもないわけです、教える側は。

線香花火がそこで持ちこたえたら、その後、パァーッと輝く。最初のパチパチなんか比べ物にならないくらいに素晴らしく、美しく。

でも。

ポトッ……で終わる線香花火もある。

ここはねー、教える側が一切なにもできないだけに、もどかしいし、「ポトッ」を見るのは、つらいですよ。
(そしてたいていの場合、自分自身に負けたからこそ『ポトッ』になってしまった生徒は、その原因を教える側の不手際のせいにしようとします←そもそもそういうメンタリティと思考パターンで生きてるから、『ポトッ』になるわけですが)

実を言うと、「パァーッ」側になれそうか、「ポトッ」で終わる可能性が高いかは、初対面の時点でわかります。

あらかじめ、「パァーッ」が見込めない生徒のことは、初めからどうとでも理由をつけて、穏便に断ったほうが、教える側としては、精神衛生上、望ましいといえます。無駄に悪者に仕立て上げられずに済むし、傷つかないし。

最近は、生徒が何か本気を出してきた場合、

「おっ、じゃあ試しに、これをやってみようか!」

と、本気ならこういうことをこなすもんだよ的な課題を、軽いノリで出します。

そこで「無理〜w」となったら、サービス業者の顔をそのままキープして「ですよねェ〜」と、それまでの甘々なノリに戻します。

でも、そこで生徒側が、面食らいつつも、ショックを受けつつも、歯を食いしばってでも、根性みせてその課題に取り組み、伸びることを指向するのが感じられたら。

そこで初めて、サービス業者としての仮面を脱ぎ捨てて、同志として接します。

そんな人、まずいませんけどねw
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