努力は「病(やまい)」なのか

つらい努力なんてしなくても、スピリチュアルなヒーリング技を使えば、なんでも瞬時にちょちょいのちょいだよ!!

……的な売り文句、よくありますよね。

私はスピリチュアルヒーラーという在り方をよりによって生業にまでしていながら、そういうフレーズを聞くと

「ホントに?」

と思うタイプでした。

自分の制限のある思考が、苦労をしなきゃいけないと思い込んでいるんだろうか?

何かでつらいと感じるような負荷がかかるのは、常にどんな時でも「もっとチャチャッとできるサイキックな技を習得できてない無能者がせざるを得ない、愚かしい無様な行為」なんだろうか?

と。

で、とある人からメールで「(スピリチュアルな正当な道を歩めば)努力という病から解放されます」と言われ、本格的に

「ハァ?」

となり、とことん突き詰めてみたくなりました。

で、辿り着いたのが、人間の物理的行動や、思考や想念などをどこにどう向けるかがいかに、エーテル体やアストラル体その他のエネルギー体も含めて、人間に影響するかの全体像。

何を努力と捉えるかの定義にも依るといえば依るのですが、とりあえず、なんらかの「行動」が伴ってないと、ただ思索にふけるだけでは、人間は育たないんだなぁ、という結論。

ただ瞑想をしているだけであらゆることが成し遂げられる、という手段もあるにはあるのですが、それは、瞑想の中で、エーテル体を練ることやアストラル体の変化(高次の欲求への昇華らへん?)など、単に精神統一をして心を無にするだけの瞑想をはるかに超えたことを、(体は動いてないとしても)実質的に「行動」している。できている場合に限るようです。

たいてい、現実に何も成し遂げられていない人が

「あー、いちいち汗かいて行動して、無様だね。ちゃんとスピリチュアル的に拓かれた人はそんなことしなくても、全部、手に入るんだよ」

と嘲笑しますが、「じゃあ全部、お前の欲しいものを手に入れてみせろよ!!」とツッコむのもバカバカしくなるほど、ただの口からでまかせ。

べつに、前向き至上主義のスポ根かぶれで「努力は素晴らしい!」と誉めそやしたいわけではないのですが、

「え、なんらかの行動の継続、って意味での努力なら、一定質量、必要じゃね?」

という見解に至ったという次第でありんす。

これがねー、個々人の思考パターンを介すると、何が努力で、何が苦労で……という捉え方がバラバラになるから、そこを統一も意識もせずに議論すると、紛糾してまとまらないんだよねw

まあでもアレですよ、霊的なエネルギーの本質のことなんかわからない、という場合でも、これさえ覚えておけば完璧。

なんにもできてない、やってない人ほど、何かをやっている人に向かって無責任にデタラメ放題のイチャモンをつけてくる

これに尽きる感じ。
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