努力をどう思う人たちの中にいますか?

私自身、田舎の公立学校で、「努力は恥ずかしいものだ」という風潮の中で育ちました。

「なーに粋がってんの。感じ悪い。生意気w」

「無理無理。そういうイタい姿勢どうかと思うよ。ほんっと、見てるだけでうんざり」

といった茶化しが横行していて、休み時間に勉強などしていたら変人扱い。
もし許されるとしたら「次の時限の宿題をまだやってないから、チョッパヤで仕上げないと!」という、ダメ人間のあがき的な路線だけだったように思います。

さすがに高校受験が近づくと、周りから優等生のイメージで認められた、みんなから好かれている人であれば休み時間に勉強していても誰も茶化さない感じにはなりましたが、それでも、笑顔で足を引っ張りあって「俺たち所詮、社会の底辺。悪あがきなんかしないで、一緒に底辺で楽しくやろうぜ」と邪魔しあうムードがありました。

私の場合、エリート志向というよりは、
「世の中、下りのエスカレーターに乗っているようなもの。何もせず動かなかったら、どんどん下がっていくばかり。それが嫌なら、下がる力を超えるだけの上昇運動を続けるか、どれだけ下がっても平気でいる神経を身につけるかだ。自分は下のくだらなさと救いようのなさを、身を以って体感してきている。もううんざりだ。まっぴらだ。とてもとても、底辺ぽい波動の低さに甘んじてこの先何十年も生きるなんて、耐えられない。だからこそ、努力とか改善とか、とにかく『より良くなる方向性』を肯定する雰囲気や人、場にいないと、腐っていく一方だ。(腐っていくようなその在り方を楽しいとか面白いとか居心地がいいと感じられる人はそれでいいんだろうけど、自分はそうじゃないから)」
という、子供じみてはいるけど切実な這い上がり願望、ハングリー精神みたいなもので、少なくとも努力が否定されない場に行きたいものだと思っていたような気がします。

ただ。

これは、(私が克己心あふれる人たちが集う難関大学や一流企業に所属した経験がない故かもしれないのですが)大学に行っても会社に行っても変わらず、

「いいじゃん。このままで。凄い人たちには、俺らは敵(かな)わないんだから」

という人たちが周りから消えませんでした。
(これはつまり、場そのものの問題ではなくて、私がどんな人間を周りに引き寄せていたか(よくない路線と感じる人たちをわざと出現させる思考にメリットを感じていたか)という証でもあるのですがw)

場そのものが悪かったとは思いません。
同じ大学、同じ会社でも、ポジティブシンキングの塊のようなエネルギッシュで有能な人は大勢いたであろうし、事実、大学を卒業してから「実は同じ大学にいた(=在学中は知り合いではなかった)」凄い人と出会ったりは、いくらでもありました。
会社でも、一度も見かけたことのない精悍な明るくエネルギッシュな人が突然、自分の部署に退職の挨拶に来て、退職理由が「アメリカの大学院(たいていHとかYとかの超名門どころ)にMBA取得しにいくから」だったりして(なんで一度もこの人と顔を合わせなかったの?こんな人が会社に在籍してたこと自体、知らなかったよ的な)。

なんで自分の周りには、努力を否定する人ばかりいるんだろう。

自分がのちにヒーリングの分野に足を踏み入れるにあたり、メリットとして感じられたのが、まさにこの、

自分の否定的な思考により、周りの人や場がネガティブでしみったれた、つまらない悲痛なものばかりになってしまう点を解消できること

だったりします。

(自分の思考をポジティブに変えるにつれて、周りに出てくる人たちもポジティブになっていき、努力を肯定する側に徐々になっていったので狙い通り+御の字、ではありました。ただ、今度は気がつくとその人たちが何か肯定的なことを言った時、自分のほうが否定的な相槌を返す側になっていることがよくあり、あらためて自分自身の思考ゆえに類友的に悲観的・否定的・怠惰な人ばかりが自分の周りに集まってきていたのだなと痛感せざるをえませんでした。そして自分の思考が、多少は以前よりもポジティブになってきて、現れる人や成立する場も変わってきたとはいえ、まだまだネガティブな要素が強いのだという反省にもなりました)

しかも、たとえば努力をどう思うかなど何かについて価値を判断する基準としては、個々人の思考もありますが、それ以上に

自分が組み込まれ、影響を受けている(≒呑まれている)集合意識の存在がデカい

と感じます。

いわゆる「みんな、こう言ってるよ」の「みんな」。ほんとに地球上に生きてる人類全員の総意というわけでもないのに、自分の周辺にいる人たちのグループで形成される、(地球人類全員の、に比べたらはるかに小さい)集合意識でいう「みんな」。

これ、よほど自分個人に意思の力が育ってないと、ほとんど抵抗できるとも思えないまま、「ほんとは良いと思えないけど、集合意識のほうが強いから、屈服せざるをえない」的にやられてしまい放題だったりするんじゃないでしょうかね。

で。

私の場合は、必ずしも賢明な判断だったかどうかは社会一般的にいったら怪しいし自信もない?のですが、(会社)組織から離れ(て個人で生き)るという選択をしたという次第です。
(ちなみに、後悔はまったくしておらず、物理的にも精神的にも私の場合は、合っていたというか、現時点まででいえば大正解でした。今後はどうなるかわかりませんけどねw)

逃げ、と言われてしまうと「そうかもね」としか言いようがないのですが、逃げちゃいけないルールもないし、個人的には逃げというよりは「自分が接するものは、自分が選び取りたい(自分に裁量権がないために仕方なく合わせなきゃいけないことを極力、なくしたい)」という意向ゆえ、が本音でした。そのために被るデメリットがあるとしても喜んで引き受けるというか、そんなデメリットは覚悟の上で、とにかく狙い通りのメリットが得られるなら多少の代償はやむなし、という感じ。(実際、そんな代償といえるようなデメリットは結局、なかったという結論に今のところは至れているのですが)

まぁそんなこんなで今は、自分自身の思考がまず、(集合意識の影響をほとんど受けずに済むところまで来たし、接する人や場(がどんな思考の持ち主の集まり、どんな集合意識が成立しているか)を選べるようになってきたこともあり)ネガティブドロドロ悲観的、という状態からは(奇跡的に!)脱却できた実感があります。
頑張ってポジティブシンキングを続けている(=頑張れなくなったとき悲観的になる)というのではなくて、「そもそも普通、こう(=ポジティブな状態)でしょ。万が一、そうでない(=ネガティブな)状態だったら病んでるよ」というふうに、常識感が変わるところまでシフトした感じ。べつに頑張る必要もなく、ぽけーっと、普通に、ポジティブでうまくいってるもんだという意識。(←これ、意識や思考だけポジティブで、現実の諸々の状態がうまくいってなくてネガティブだと、『現実逃避して妄想の中だけのポジティブワールドに閉じこもってるだけのイタい子』なので注意)

それに伴って、周りに現れる人が(グレード、という単語は差別的かもしれなくて好きじゃないんですが、グレード、としか言いようのない感じで)素晴らしい人ばかりに変わりました。

ヒーラーという仕事をしてると、ネガティブな人が依存したり利用したりあやかり目的で近づいてくるのですが、まるでこちらが虫除けスプレー済みであるかのように、あるところまで近づこうとしてきても「うわ!」となって、私が何をするでもなくても向こうからピューと逃げていってくれるんですね。「(波動がポジティブで高すぎて)耐えられない」という感じで。

中学生、いやもっと前、幼稚園くらいからずっと抱いていた「この、阿片窟でラリってヘラヘラして『いいじゃんいいじゃん、このままで』と言ってるような連中のいる世界から、早く抜け出したい!」という願望は、30年近い年月を経て、ようやく叶ったわけですな。
(しかも、こちらが何か『嫌悪感』や『蔑視・差別』のような意味合いで忌避したというのではなく、どういう状態の人でもそりゃ、世の中にはいるでしょ的な理解もありつつ、『身内』と感じる範囲内にはさすがに寄せ付けないよ(=会社の社長が、世の中にはいろんな人がいるとわかりつつ、従業員として雇うとなれば自分の基準で選ぶ、のと同じ)という路線なのも、我ながら安心というか)

そこまで来て。

(たまたまかもしれないけど、地方の人と話していて思うことが多いのですが)努力という概念を、恥ずべきものだと捉えているっぽい人と遭遇することがあります。

なんていうか、「努力してなくて、生まれ持っての才能で、ここまでの実績を出せている」のはカッコいいけど、「もともとたいした才能もない凡人が、努力一辺倒で這い上がって(才能ある人たちと、ずうずうしくも並んで立つところまで)きた」のは悪い事、みたいな価値観(本州の西日本寄りって、そういう風潮あるんですか。九州とか沖縄まで行くと今度はまた、『生まれなんざ関係ねえ、俺は実力でちゃんとここまで来たぞ』という思考のほうが強くなる気がする)。

べつに関西disりじゃないんですけど、先日、大阪に行ったとき、見事なマッチョ体型の人(会社経営者さん)がいて、その人のことを周りが

「あの人、天然(←生まれつきDNAで自然とその体型になった、という意味らしい)やないで?こっそりジムなんか通って、人工的にああしたんやで?www」

「まあなー、自分は凄い言いたくてしゃーないんやなぁ」

「でもジムなんか通うか?そのままの自分で堂々としてればええやんか、なぁ?」

と陰口を言い合ってたんです。
(でもべつに関西の人全員がそんなdisり気質というわけでもなく、これはこれで私が引き寄せたってことなんでしょうけど←自分自身がそういう在り方である、というより、『世の中の一部はまだそうだ、ということを忘れないように、一定の頻度でそういうものに遭遇する』的な狙いを持ってるぽい←そんなのもう要らないじゃん、とよく言われるんだけど、自分はどこかで、『いや、さすがにまだ今の段階でそれまで取っちゃうと、何かあったとき平気で パンがなければお菓子を食べればいいじゃない と言うタイプになりそう』という懸念があるのです)

それで改めて、

「あぁ、努力して現状を変えることを、浅ましいとか、恥ずかしいと捉える人たちって、まだいるんだ」

とハッとなったというか。
(ショック、というのではなく、『あ、そっか。忘れてた』という感じ)

あと、地域問わずですけど、(日本人の民族性、日本人全体の集合意識に組み込まれてる勢いで)「自分から立候補」するのって、カッコ悪いと捉える風潮、感じます。

ヒーラーでも、
「自分はそのつもりがなかったんだけどォ、周りが放っておいてくれなくてェ、仕方なくやってみたら、あれよあれよという間にトントン拍子でうまくいっちゃってェ(withドヤ顔)」
と自慢げに言う人(圧倒的に女性が多い。もともと『言い寄られてこそ華』的な価値観が女性に浸透してるからなんでしょうか)、多いですよね。
(そういう人に『あ、そうなんですか。じゃあ運がよかっただけなんですね。たいしたことないんだ』と言葉を返すと、瞬時に般若の形相になるから恐ろしいものです)

……さんざんあれこれ言ってきましたが。

努力でもなんでも、自分が何かをしようと思うとき、それをするのを否定的に受け止める人たちや場、集合意識の中に居続けるのは、いかがなものでしょうか。というご提言。

「そりゃあ、抜けられるものなら抜けたいよ!でも、そのやり方が、わからないんだよ!!」

という人、やり方を紐解く意味でも、どうすれば抜け出せるか自分と向き合ってみては?
で、必要なら自己啓発本なりスピ本なり、ヒーリングセッションなり、何かのセミナーなり、出てみればいいじゃない。

えー、そんなことするのカッコ悪ーい、って?
はい、いま周りにいる人や場の集合意識と見事に同化していらっしゃいますねぇ!どうかそのままで。(オヤジギャグ)
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