スピリチュアル食物連鎖

想念はエネルギーです。

ある人が死に、土に埋められると、その肉体の細胞に残っていた想念としてのエネルギーが土に浸み出し、その想念エネルギーを植物が吸収し、その植物を食べた動物が吸収し、その肉を食べた人間が、かつて死んだある人の想念に染まる……。

こういう例え話が、シータヒーリングの存在の層テキストにも出てきますよね。
(著者ヴァイアナ自身、『これは極端な例といえるかもだけど』と補足したうえで書いてはいますが)

つまり、自分が、自分の考え(≒想念)だと思い込んでいることのなかには、もしかしたら自分本来の考えではないものがある可能性もあるということです。

食べ物を食べるときにその食材を祝福し、こびりついている想念エネルギーを浄化してから食べることで、想念エネルギーを取り込まないようにするという方法もあります。

で。

私がここであえて述べたいのは、「だから、祝福をしましょうね」ではなくて。
(祝福をすべきでない、という意味ではありません。それはもう言われてることだから改めて言う必要もないと思ってるだけ)

自分の内なる神の声や生まれてきた使命に気づき、それに沿うように生きる決意やら覚悟やら勇気やら行動力、知恵、境遇などが全部、成立してる人なら、いいんだと思うんですよ。余計な想念を取り込まないというのは。
どうぞどうぞ、誰にも邪魔されず、自分の自由意思で見出した、使命とやらのために生きていってください、という次第で(べつに皮肉じゃなく、ほんとに)。

ただね、大多数の人は、そうじゃない実感。

となるとどういうふうにするかというと、自分が内心、望んでいるが自覚してないことを、ほかの人に何か言ってもらうように潜在意識的に働きかけて、言ってもらうことで、気づくという方法を採ります。つまり、外部からの働きかけで気づくわけね。

その「外部」に、ある何かを食べて、その食べ物に含まれてた想念の影響を受け、自分の想いであるかのように認識することをとっかかりとして、何か行動を起こすとか、何かアイデアを具体的に思い描くといったバリエーションもあるわけで。

食べ物を食べるときにみっちり祝福して、外部からの影響を受けないことが、プラスに働くか、マイナスに働きうるか、見極めるということも一興かもしれません。
(もし、自分の自由意思でどう生きるか確固たる指針が確立されてない人が、ありとあらゆる外部からの影響をシャットアウトしてしまうと、『どうしていいかわからない』状態になります)



これ、食べ物の摂取だけに限らず、人との交わりにおいてもそうなんですよね。

自分オリジナルで「そうだ、これこれをしよう」「この人生を、こんなふうに生きよう」と思える人はいいんです。
でもそうでない場合は、周りの何かや誰かを見て、それに対して好き嫌いといった「反応」を抱くなかで、そうしたあれこれを補助具として活用しながら、徐々に徐々に、自分ならではの信念や在り方を確立していくわけですね。

そしてまさに、自分の現実に登場する人や状況、遭遇する出来事は

すべて自分の意図で招いたもの

なんです。

(そのことを忘れて、あるいは知らずに)他人からの影響は「干渉」として受け止められることもあり、ありがた迷惑に感じることもあるわけで。

「うるさいなぁ、ほっといてよ!」

と思うこともあります。

もっとわかりやすく、虐待やイジメ、差別といった、つらい感慨を引き起こすタイプの干渉やコミュニケーションである場合もあります。

あるいは、人からの干渉という形ではなくて、怪我や病気、リストラや詐欺被害などによる突然の経済的損失といった、「なんでだよ!!」と嘆きたくも怒りたくも悲しみたくもなるような「状況」という形でメッセージとしてもたらされることもしばしば。

そういうときは「とにかくそういう外部からの嫌な干渉がすべて消えればいいのに」と思いがちですが、いざなくなると、目先のラクさは手に入るかもしれないけど、生きる指針を見失ったり確立しそびれたりと、結果的に良いとは言えない生き方に流される羽目になるんですよね。
(誰から見て良いとは言えないのかといえば、その人本人の神聖な部分の意図から見て、です。このままじゃいけない、と内なる神的な部分は思うものなのです)
だから、メッセージの内容に気づくまでは、消えないw

スピリチュアルなことに理解がない人は、

「どうしてこの出来事(イジメ・病気・怪我・貧困・夢破れた境遇etc)が起きたのか原因を突き止めるなんて、後からでもいくらでもできるでしょ?まずは、癒す!!理屈で納得するのは、それからでいい!!」

みたいなことを考えがちですが、もし意図が現実を創っているという仕組みを考慮に入れることができる人であれば、それが成り立たないもの(2を奇数だと言い張るような)だとわかるのではないでしょうか。
(でもなァ、わっかんないもんなんだよなァ)

人からのつれない対応(もっとはっきりした迫害や虐待、イジメなど)であろうが病気や怪我といった心身の不調だろうが、仕事や恋愛がうまくいかない引越し先が決まらない会社をリストラされたなどといった状況のアンバランスなどなどそれらはすべて、「メッセージ」なわけです。

「メッセージは後から受け取るから、このメッセージ通知を消してよ」

と言ってるのと同じなんですよ。「まずは癒して、原因はそれから」なんて言ってるのは。
(いやね、それができればいいよなぁ、とは私も思いますよ。できるならね。ただ、私はまだ、それができた試しを、この世界のどこにも、1つたりとも見出したことがないのです。『は?何いってんの?できたよ?』とおっしゃる方は、それを見せていただきたいものです)

それから、病気やらイジメに遭うやらといった不運ぽい出来事のすべては、現実に起きた時点で、「当事者が、本人が、第一希望に願ったから叶った」願いの実現化した結果なんです。
つまりは、宇宙の摂理により、「生まれてから死ぬまで、人間のその時々に抱く第一希望の願いは常に必ず願ったとおり100%、寸分の歪みもズレも狂いもなく叶い続ける」という奇跡の恩恵の顕れといえるわけです。
(これ、『なにいってんの?頭おかしいんじゃないの?そんなわけない!そんな筈ない!!絶対にそんなこと、真実だなんて認めないぞ!!』と、受け付けられず拒否っちゃう人、少なくなさそう)

だから、起きたことは「なぜ起きたのか」を、「自分のどんな意図が、この現実を招いたのか」という方向性で探り、見出し、置き換えるなり解消するなり何らかのエネルギー的対処をするのが、望ましかったりして。

なーんちゃってね。

いや、案外、「自分がまったく望んでない不運な出来事がこの世には起こるものだ」ってほうが真実かもよぉ?

「世の中、うまくいかない」

が真理だったりして!?

そう思うなら、どこまでも信じ続けて、いつか、それこそ「想定外の救済」が訪れるのも、待てばいいじゃない?

だってさ、

「世の中で何が起こるかはすべて偶発的な外部の何らかの力によって決まるので、自分は何をどうしたところで無駄です」

と宣言しちゃってるわけでしょ?それってつまり

「私は無力です。現実に働きかける力がまったくありません」

と言いきっちゃったことになるわけでしょ?それを真実だと主張するんでしょ?

ならば。

無力なものは、偶然助かる何かが訪れるのを、誰かに助けられるのを、ただただ待つしかないよ。
そしてそれが来なかったら、あるいは自分を破壊する力が偶然、来てしまったら。

死ぬしかない。滅びるしかない。

……ってことだよね?

じゃあ、もし死にたくない滅びたくないなら、ただただ、どこかの誰かがもたらしてくれる救済だかなんだかが来るのを、ひたすら待つとか祈るしかないぢゃん?w

がんばってねー。応援してるぅ~。
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