幸福(体質)への好転反応

は、ある実感。

目に見えない感情や思考などの想念も、れっきとした電磁波。電であり磁であるということは、それ相応の電磁的なエネルギーとしての性質を持つわけです。

そして人の細胞、サトルボディと呼ばれるエネルギー体は、コンフォートゾーン(快適な領域)を持っており、常日頃から接しているものに適応します。

物理的な例えでいえば引っ越しなどで住む場所が変わり、それこそ生活用水の分子構造やその中に含まれるバクテリアや微量元素の配合が変わったりするだけで、ちょっとした心身の体調への影響は出るわけです。はじめ「合わない」と感じ、不調や違和感を感じたりして、その後、慣れていく……という流れ。
(これ、魚だと顕著です。熱帯魚や金魚は、ショップから買ってきたときはショップの水槽の水から飼い主の水槽の水に慣れるように、時間をかけて水を合わせますよね。急に違う水質の水に移すと魚がショックを受けて気絶したり死んだりする)

これが、感情にもあります。

それまで、鬱々と暗い、ネガティブな思考や感情ばかりを抱き、あるいはそうした想念の周波数が満ちた場にずっといた人は、つらい苦しいと言いつつ、なんだかんだいって、その環境が合っているんです。
試しに、急に明るく活発でポジティブな人ばかりの場にそういう人を放り込むと、居場所がないと感じて、圧迫感や息苦しさを感じることがほとんど。

で。

個人的な体験なのですが、もういい加減、ネガティブな低い波動帯域にいるのが飽きてきて、波動を上げてポジティブなものに囲まれてもいい、と決意する出来事が今年、ありました。

そこから数ヶ月で、自分の実感としては、それまでとまったくの別人になってしまったような変化を辿りました。
(これ、自分からは何もいわなくても、数十人単位で他人から口を揃えて言われるので、ほんとなんでしょうね。しかもスピリチュアルなエネルギーを読める人でなく、いわゆる一般の人たちからもそう言われるので)

数ヶ月かけてじわじわと変わっていくなかでも、まるでマラソンをしているときのような、地味な苦しさがあります。
強調したいのは、ポジティブからネガティブへ変わっていくのではなくて、ネガティブからポジティブに変わっていっている、という点。

普通なら、それこそ幸せで夢のよう……と、良いイメージしか湧かない人、多そうですよね?

でもたとえば、ある人から、全身全霊で真心をドン!と差し出されたらどうでしょう。ちょっとテンパりません?瞬間的に逃げ場を探そうとキョロキョロしちゃうというか。

自分のなかの「幸せ〜♪」な領域を、はるかに超えて、その場や自分のなかが、想像を超えた幸せになっていってしまったら。
それこそ「熱めのお風呂が好きなのォ」と言って入ってたらだんだんシャレにならない温度にまで熱くなっていってしまって、慌てふためくような。

それまで、うすら寒く胡散臭い、いい加減でネガティブ寄りの波動帯域で暮らしていた人ほど、

「ちょwww おまwww」
(ちょっと待てよ、お前、的な意味らしい)

と、なります。

人って意外と、幸せに豊かになりたいなんてうそぶいてはいるけれど、ただ目の前にある苦しみから逃れたくてポワーンと夢見がちに漠然としたイメージで言ってるだけで、ほんとのほんとに幸せで豊かなエネルギーがドバーッと満ちた場におかれたら、悲鳴を上げて逃げ出したくなるんですよね。

潜在意識は良くも悪くも保守的で、すでに安全だと知っている状態から変化することに対して後ろ向きです。
(たとえそれが貧しく不幸であったとしても、『え?何が問題なの?それまで何年もそうだったし、なんの問題もなく生きながらえることができてるでしょ?安全じゃん。幸せなんて未知の領域に足を踏み出してしまうことのほうが、よっぽど危険じゃね?』と判断します)

幸せや豊かさだけでなく、たとえば学校のテストや友人たちの間(世間でもいいですが)からの評判、美貌や何かしらの技術への評価、仕事の業績などでもそう。

ある日突然、周りからカリスマ扱いされてすごいすごい言われて、会う人会う人が潤んだ目で尊敬の眼差しを向けてきたら、どんなお調子者でも多少はタジタジするものなのでは。


今年の私は(春にシュタイナーの文献を読み直したこと、そして夏にアイダホに行ったことが殊更、契機となって)じわじわと着実に、地味に苦しさを伴いつつ、幸せ寄りに人生というかの波動のコンフォートゾーンが移行しつつあったのですが、つい先週、それこそスロットマシンで777が出たくらいの大当たり的な出来事の連続に遭遇し、突然、水質の違う水に移し替えられた熱帯魚の如く、気を失って口をパクパクさせて痙攣……みたいな大フィーバーが訪れました。

それはもう、36年に及ぶ人生の中で「そもそも自分なんて、永遠に生きてみたところで、こういう思いは味わわないのではないか」レベルの、幸せの濃縮エキスに全身ドボーンと浸かったような体験で、文字通り「死ぬかと思った」ほどでした。
(だって、感動する映画や小説、漫画などを読んで胸がいっぱいになって泣けてくるときって、嬉しくて幸せだけど物理的に苦しくありません?込み上げてくる感情を受け止めきれないというか、感情で呼吸器を塞がれて窒息するような感覚ありますよね?……あれの極大版みたいな出来事が、連続落雷!くらいの勢いでバンバン来たんですよ)

感情は電磁波で、電磁的エネルギーを持つと冒頭に書きましたが、ほんとに凄すぎて、2〜3日、寝込んでしまいました。

幸せの波動エネルギーが浸透するにつれて、まずその波動が見慣れないものなので、違和感があるというか、軽くショック状態になります。

そして、浸透した幸せエネルギーと相容れない、それまで細胞やサトルボディに溜まっていた古い不幸な想念が、ドワァ〜っと浮き上がって抜けていくんです。

この、

不幸が抜けていくまでがつらかった!!

寄生虫駆除などでも、寄生虫自体を殺してからその屍体(という毒性物質)が排出されるまでが苦しいというの、ありますよね。まさにあれ。

自分でも忘れていた、子供の頃の、不幸な感覚が、まるで憑依した霊が背中からゴボっと抜けていくかのように、ぞっとするような体感をもって、蘇るんです。

不幸というと、誰かに何か酷いことをされてつらかった、というような1回の際立った出来事(イベント)を思い浮かべる人が多いかもしれません(し、事実そうである人もいるのでしょう)が、私の場合はたとえば、母親の実家でこたつに入って祖母とテレビを見ている、というような、なにげないシーンが多かったです。

べつに祖母と仲が悪いわけではないし、そのとき気分が塞いでいたわけでもない。その当時は「人の人生って、べつにこれが普通」と思って、あっけらかんとして過ごしていたはずなんです。

でもそれが、言いようもないほど、ネガティブでしみったれた不幸なエネルギーで満ちているんです。

母方の祖父母の、絶望的にネガティブな思考パターン。その思考パターンをこれでもか!と吸い込んだ家具や、家そのもの。吸い込んだネガティブな残留思念がムワア〜っと、黒カビの匂いのようにうっすらと、それでいてまんべんなくその場を包んでいて。呼吸するたびに、その不幸な想念を子供の頃の私は吸っていて。

こたつに入っているそのときの感慨も「退廃」といえばいいんでしょうか。希望を知らず、それが(幸福な人からしたら)絶望的に可哀想でうじうじしたものであることにも気づいていないからケロっとしているけれど、間違いなく若さの輝きとその後の伸びしろさえもを蝕むような、じわじわと命の輝きを侵食するような諦め。(奴隷とか囚人の感覚に近いかも)

時代の空気、というのもあるかもしれません。
(いま観ると笑っちゃうくらい、無駄に暗いドラマとか、多かったし、当時は誰もそれをおかしいと思わないほど、みんなネガティブな波動帯域を当たり前だと思ってましたよね?)

そういう、自分では「えっ?これって不幸なの?」とわからないような、でも実際、自分の心身霊魂をまるで虫歯菌のようにボロボロにしていく働きをしていたエネルギーたち。

それが、抜けていくんです。

悪酔いして吐くような、吐いても吐いてもまだ気持ち悪さと胃の痛み、頭の朦朧とした不快感が延々と続くような、そんな感覚。

よく、「幸せも不幸も、本人の気分次第♪」みたいな考え方あるじゃないですか。

確かにね、何を幸せと思うか不幸と捉えるかを個々人が決めていいよという意味では、それは正しいかもしれません。

でも、

万人にとって共通な、「実質的に、人の心身にとってプラスの影響を与えるポジティブな、幸福的性質を持った想念の波動周波数帯域」と、同じく「実質的に、人の心身にとってマイナスの影響を与えるネガティブな、不幸的性質を持った想念の波動周波数帯域」は、存在する

なぁ、と感じました。

これね、肉体の健康か不健康かの判断基準と似てると感じました。

「自分が健康かどうかは自分が決める、病は気から!」一辺倒で強がったり、頑として「自分は健康だ!」と言い張るのは自由だし、また逆にどこも悪くないのに「きっと病気だ」と具合悪ぶるのも勝手ではあります。
が、医学的に検査してみたら、多少の個人的体質の差を考慮するとはいえ、「万人にとって、健康とされる基準値はこれだよね、この範囲だよね」というのが、あるじゃないですか、検査項目には。

それと同じで、自分が何をもって幸せとみなすか不幸と捉えるかに関係なく、万人にとってある性質の影響を及ぼす想念の波動があり、それに自分も含め、人間がいかに影響を受けているものか(そして時に、その影響にいかに無自覚でいるものなのか)を、まざまざと見せつけられました。


ダイエットやデトックスの最中、ある程度進むとかえってジャンクフードが食べたくなる式に、不幸が抜けていき、(自分にとっては不慣れな)幸せなエネルギーに満ちた状態に自分がなるにつれ、なんとしてでも誰かと口論したり、破滅的な荒れ狂ったことを考えてでも、「そっち(=ネガティブ)側」に戻ろうとする反動も感じました。

そんな自分の反発をも、笑って「はいはい、不幸に戻りたいのね」とやりすごし、あらかた溜まっていた不幸が抜け切って「峠を越えた」かに思えるところまで来たら、

新鮮な水を美味しいと感じる度合いがハンパない

わけです。

もうね、清水を口にしただけで、生きている喜びやら、この世の素晴らしさやらへの感謝などで、恍惚となってしまえるんです。

なんだか(経験はないのですが、あくまで耳年増的に言うのですが)

麻薬の禁断症状を乗り越えた依存症患者

みたいw

改めて思いますが、

不幸は「麻薬」です。
よって、不幸は「依存症」を引き起こします。
(ついでに言うと、同類の仲間を求め、健全な人を引きずり込もうとします)


まるっきりタバコと同じ。心身に悪いと100%わかりきっているのに、「でもォ、でもォ」といって愚痴愚痴ぐだぐだダラダラ続けてしまう。やめられない。ぬけられない。

これたぶん、

貧困も、不幸と同様に「麻薬」であり、「依存症」を引き起こし、「健全な人を仲間に引きずり込もうとする」性質を持っている

のではないでしょうかね。

思った以上に、ネガティブな想念というのは厄介な、ちゃっちゃと手を切ろうとしてもなかなか切れない、腐れ縁のようなものなんだな

と痛感しました。



そして峠を越えてみれば、まさに依存症、中毒患者的な状態だったときに

「なんだかんだいってネガティブも大切でェ、」
「べつに豊かなのが常に良いとは限らなくて、貧困に耐えるからこそ得られる大切な学びもあって……」

などと、ネガティブの回し者かテメエは的にうだうだ擁護してたようなところがあった自分が、どんだけ洗脳されておかしくなってたのか、可笑しくて笑ってしまうほど。

(私が大好きなイギリスのコメディ、『Absolutely Fabulous』でも、主人公の悪友パッツィがジョギングをして毒気が抜けて『空気がおいしいわ!健康ってなんて素敵なの!』とネガティブ洗脳が解けた瞬間、慌てて主人公が酒とタバコを吸わせて元に戻すシーンがあって地味にウケました。まさにあんな感じ)

何が言いたいかっていうと、

幸せになるって、信じられないほどの根気と体力が要る

のね、ってこと。

中途半端な覚悟なら、やめておいたほうが無難かもよ?

のうのうと、「なんとなくネガティブ」な、「みんな」と同じコンフォートゾーンで生きてたほうが、何かと暮らしやすいって。

だってさ、

幸せになる・幸せである(ことを持続させる)生き方を選ぶということは、「少数派」という括りに貶められてしまう

わけでしょォ?

つらいつらい。やめたほうがいいって。孤立して自分独りだけ幸せです、なんて厭じゃない?

みんな、つらいよ。みんな、苦労してるよ。みんな、不幸だよ。

だから、ちょっとだけの幸せがより一層、嬉しく感じる、ってものでしょ?

だからさ、幸せになるのなんてやめなよ。ならなくていいよ。ね?

なんとなく不幸。たまに幸福。それが、一番、シアワセなのよ!(with笑顔)

え?私?あ、ううん、私はいいの。気にしないで?大丈夫。はい、じゃあ、そんなわけで。バイナラ(死語)♡

(ふぅ、危なかった。しみったれた不幸連中になんざ、これ以上付き合ってられっかっつーの。どこに行ったって人はいる。似たような不幸連中の輪の中にいるからこそ『みんな不幸』に見えてるだけ。金があるとこにはあるのと同じで、幸せもあるところにはたんまりあるものなんだよォ!巻き添え食ってたまるかっての)

……え?まだいたの?あ、どうもー。(無難な会釈)
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