ガンジーの言う「七つの社会的罪 (Seven Social Sins)」

について、こちらで紹介されています。

翻訳すると、

「理念なき政治」(Politics without Principle)

「労働なき富」(Wealth Without Work)

「良心なき快楽」(Pleasure Without Conscience)

「人格なき学識」(Knowledge without Character)

「道徳なき商業」(Commerce without Morality)

「人間性なき科学」(Science without Humanity)

「献身なき信仰」(Worship without Sacrifice)


となりますね。

ご参考までに。

P.S

私が今年、某ヒーリングの某セミナーを受けたとき、入っていると望ましくない信念のチェックリストとして

・働いた分だけしかお金をもらってはいけない

が書いてあり、違和感を覚えました。

そのセミナーの主旨としては、

「働いた分だけしかお金をもらってはいけないというのは思考の制限だから、『働いた以上に無限にお金をもらってもよい』という思考が成立していたほうがよい」とのこと。

これね、「制限ある思考を手放す」という意味ではわかったのですが、だからといって「働いた以上に無限にお金をもらってもよい」という思考を成立させてしまうのはどうなんだろう、と引っかかってました。

自分の思考の制限ゆえにそう感じるのか、とも思いつつ、創造主に尋ねると「もしも本当の意味でのエネルギーの循環の理(ことわり)に則り、宇宙の無限の豊かさを享受するのならば、望ましくない」という回答。

セミナーのカリキュラムに異を唱えて物議を醸すのもどうよ、と思い、表面上は穏便にスルーしましたが、ものすごく引っかかっていたし、何をどう説明されようが納得できなかったし、その思いが歪んだイシュー(=問題)であるとも感じませんでした。

なんていうか、もしかしたらセミナーカリキュラムの製作者の意図としては、

「自分の時給は980円に相当するから、(たとえそれが別の会社や依頼主からの仕事であっても)1時間働いて1000円なんて貰ってはダメだ。自分が受け取れる金額より20円多い」

というふうに思考で制限をかけるのはよくないよ、と言いたくて書いたんだろうなぁ、という予測は立つんです。

そういった、「自分の時給は◯円」という思い込みは、仮に今の職場で実際そうだとしても、それは便宜上というか、その会社で今の雇用形態でのルールではそうなっているだけで、霊的な真実ではないのは確かです。

ただ、時給1000円は貰ってもよいから、時給980円の人より20円分、プラスのエネルギーで働くってのは、まさにエネルギーの流れを霊的に見た場合の、正当なセオリーなんじゃない?って話で。

もし仮に980円分の働きで1000円を貰ったとしたら、その20円分の差額(という、お金と労働の間で交換されるエネルギー)は、どうなっちゃうのよ、という。
(当然、カルマ蓄積でいつか……ですよね)

その、「働いた以上にお金を貰ったことによるエネルギーの不均衡」を是正・調整する意味で、たとえば大富豪の家などを見れば、障害者が生まれやすいとか、病気や怪我が絶えないなどの事象として膿み出しがなされるわけですよね。

なんかごちゃごちゃ書いてしまいましたが、「じゃあどうなるのがいいんだ」といえば、

それが会社など人間社会での形式的なルールかどうかなどもすべて置いておき、職業とされる仕事かどうかすら問わず、自分が生きるなかで世の中に放出したエネルギーの感謝として、それにふさわしいだけのお金(をはじめとするありとあらゆる具現化形・波動としての)エネルギーを受け取る

その受け取るエネルギーがどれだけ多くとも、「いやいや、こんなに貰うわけにはいかない」といった思考の制限を持つことなく、罪悪感も抱くことなく、受け取る(with『受け取る喜び、与える側の与えたい願望を叶えてあげることができたという奉仕への歓喜』を味わいながら)


という思考を成立させるのがいいみたいです。



単純に(霊的)エネルギー理論だけでいえば、この宇宙のエネルギーは無限なので、べつに働かずして(=与えずして)どんだけタダ乗りしてじゃんじゃか受け取っても、べつに宇宙自体がどうなるというものではありません。
可能ではあると思います。

ただ、人間が、なんらかの動機を、目的をもって人間の肉体に宿ってこの世に生まれるからには、「できるならやっちゃえば」だけでなんでもかんでも無限にやりまくればいいのかよ、という話じゃないですか。
(無限だからと、たとえば水を延々と飲み続けるとか食べ物を食べまくるとかしたら体やら精神やらを壊しますよね)

宇宙のエネルギーの仕組み自体は無限でなんでもアリだけど、人間の人生には(本人がどれだけ無自覚でも)霊的な学びがあります。
それをサポートするために、カルマシステムが導入され、そのシステムの影響を(完璧に)受けるように設定がされているわけですね。

だから、この宇宙のエネルギーが無限なのとは別に、自分の人生において、この人間社会においての最適値といった、あるバランスが、大小それぞれのさまざまな領域で成立しています。

これね、変な例えですが、「お金を貰う」を、「人を殺す」に変えてみればいいと思うんですね。
無限の可能性のなかで、それができるといって「なんなら人を殺すことができる」というふうに、制限のない思考を整備するのは、もしかしたら、制限ある思考を持っているよりは、いいのかもしれません。
でも、「なんなら人を殺すことができる」からと、無差別に人を殺し続けるのが、ある人間の人生としてベストなのかというと、どうなんでしょう、という話です。

お金もそうで、「なんなら(働いた以上に)無限に貰うことができる」という思考を成立させるのは、制限ある思考を持つよりははるかに望ましいことだとは思います。
ただし、だからといってほんとにそうするのかよ、というね。

これね、間違えないでほしいのは、「じゃあ結局、働いた分だけしかお金を貰ってはいけないなら、制限があるってことじゃないか」と思い込まないでねということ。

たとえば自分が世の中に対して提供できたエネルギー的価値が、時給1000円分に相当するなら堂々と1000円を貰えばいいと思うし、1万円に相当するなら堂々と1万円を貰えばいい。それが1億円だろうと1兆円だろうと、同じこと。
しかるべき質量の「エネルギー的奉仕」をした感謝の証として、自然に返ってくるものであるならば、どこまで大きな金額であろうとも、堂々と、何ら恥じることも罪悪感を感じることもなく、受け取ってしかるべきだと思います。

しかも、「働いた以上にお金を貰ってはいけない」という思考があるのではなく、

「なんなら働いた以上にお金を貰うこともできるし、それが可能だということも知っているけれど、自分の信念において、この宇宙の摂理に沿い、万物すべてと調和するという意味においての『成功した状態』で生きるというポリシーゆえに、働いた分だけ(そして、自分は働きを通じて大きな貢献をきちんとできた自負も自信もあるし、エネルギーで実際にそうできていることも認識できているから、潤沢に、世間一般からすれば貰いすぎなんじゃないかとされる金額でもなんでも、堂々と)受け取るよ」

というのが、カッコいい〜♪

なーんて、私は思うのですわ。

……ガキっぽいか知ら?
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