今度こそ、救われない人生を。

仮の話として。

ある人生を、何度か(も?)やりなおすことができるとします。

別の時代や国に生きた過去生というわけではなくて、この時代、この国、この両親の元に生まれた、今回と同じ人間としての設定の人生を。
(そう、あたかもファミコンのゲーム(スーパーマリオなど)をスタートすると、いつも同じ1-1をはじめから何度もやるアレの如くに)

かつて、この人生を生きた時、ある人の助けを借りて、たとえば死や失敗といったマイナスふうに見える現実が起きるのを回避できたとします。

現世的な価値観からすればそれは「めでたしめでたし」なんでしょうが、本人が死後、

「もし、あのとき、あの人の助けを借りなかったとしたら、自分はどうなっていただろう?」

と考えたとします。

そして、その人生をもう一度、やりなおしたとします。

今度は、その「ある時点」で、ある人からの助けを拒むとします。

そして、文字通りの転落人生を送ったとして。

……それは不幸なことでしょうか?

やっぱり、ある時点である人の助けを借りて、何度でも何度でも、「めでたしめでたし」の現実を生きたほうが、その人にとって幸せなことなんでしょうか?

って話。



ここからは、私の戯言。

かつてこの人生を生きたとき、前回(以前)は仲良くしたり協力したり、それこそ「助け」たりした人と会い、自分の意向そして相手の意向の両方を鑑みて、スルーしたり放置したりを選んだことが多々、あります。
今も、そしてこれからもこの一生の中で、数限りなく、そういうケースは存在するでしょう。

自分が何か手を差し伸べれば、うまくいく。その人は、酷い目に遭わずに済む。

そのことをわかったうえで、手を出さない。

それ見たことか的にその人が転落していくのも、見ます。

本人の力で、あるいは他の人の力を借りて、別の展開で持ち直すこともあれば、より一層の発展を遂げるケースももちろんあります。

小さい1人の人間としては、自分が助けさえすれば酷い目に遭わずに済む人(しかも自分が多少以上、好意や愛着を持っている相手)が転落していくのを、黙って見ているのは、正直いってラクなことではありません。

チャチャッと手出しをしてしまいさえすれば、すべてうまくいく。酷い目には、遭わない。
それがわかっているとしても。

その人は、まさに、私の助けを借りることなく生きたらどんな人生になるだろう?ということをやるためにこの人生をやりなおしているわけです。
ならば、手出しなどできようはずもないわけで。

底なしの達観が必要だなぁ、と思います。

幼稚な善悪の判断基準や、人情至上主義を持ったどこかの誰かから

「かわいそうじゃないか!この人でなし!!」

と、非難されうることをしているのかもしれません。実際、されるかもしれません。

でも。

私は、その人がこの世に(再び)来た理由を、その根本動機のほうを、尊重したいと思います。

薄情とでもなんとでもどこかの誰かが思ったって、関係ねっす。
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