他人の運命を変えられない私たち

藤崎竜の漫画版ではなくて原作のほうでしか確か記述がなかったと思うのですが、「封神演義」という作品では、妲己三姉妹という妖怪トリオが、女媧というボスの命令に従って夏(か)王朝を「予定より早く」滅ぼすために尽力していたことが明かされます。

で、妲己たちはどんなにあれこれやっても、「予定」を少しも繰り上げることができなかったんですね。さんざんかき回しはしたものの、世の中の運命は定め通りにしか運行しなかったということです。

さて。

私は個人的に、それとな~く、以前からこのブログで「チャーリーズエンジェル気取り」という表現を使って、まさにDo Overの統計で弾き出した「通例」よりも、何かが起きるのを早めたり遅めたり、そもそも起きないようにしようと躍起になっていました。

チャーリーズエンジェルというよりは、「トゥルー・コーリング」に近いかな?
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これ、ある1日をDo Overしてしまう能力を持った主人公(トゥルーという名前の少女)の物語です。

Do Overせず1日が終わって次の日になるかどうかは、彼女に課された使命を無事に遂行できたかどうか、みたいな扱いになっています。
(何度も何度も、条件クリアできずに同じ日を繰り返すエピソードもあります。何をどうすれば条件クリアになるのかは彼女自身にもわからず、『いったいどうすればいいのよ!?』と焦れる回もあったりして)

で、2回目以降にその日をやりなおすときは、あらかじめ何時にどこで誰が何をする、ということを知っているので、先回りして何か悲惨な事故が起きないようにするなどの動き方をします。
(でも、その日に起きる出来事をあらかじめ知っているのはトゥルーだけなので、いきなり話しかけられて何々をするなとトゥルーから言われた相手は『お前、誰だよ?頭おかしいんじゃないのか?』と、トゥルーのことを思いっきり不審人物扱いして機嫌を損ねる、というのがセオリーでした)

私もそれとなく以前から、まさにトゥルー気取りのような立ち回り方をしていました。

もちろん、この人生の時間帯でこの時期この人が何をする、ということを知っている(覚えている)のは私のほうだけで、相手はまさかそんなこと知らない&信じないので、ドラマの中のトゥルー同様、変な行動をとる奴、不審人物のように見られることも多々、ありました。

場合によっては危険人物扱いされて絶交されたり、こちらがさんざん干渉して説得したけど結局いつも通り相手が自殺してしまったとか、まぁいろいろ。私自身も拙い動き方しかできてなかったというのもあるのでしょうし。

で。

冒頭の妲己三姉妹ではないけれど、私はある人が本来の神聖な計画を遂行できなくなるとされる方向に進む(≒堕落する)のを防ごうと、いろんな人に対して「要らぬお節介」をするような動き方をしてきましたが、今のところ、誰かが何かに染まっていってしまうのを、止めることができた試しがありません。

唯一、あるとすれば、私が何かをした結果、こうなるはずのことを、「私が『やらない』『別の選択肢を選ぶ』という、前回と異なる選択をした」ために、別の展開が生まれたということだけです。

このへんは、自由意思の法則や、誰の意思がどこまでの現実を創るかの宇宙の摂理が関係しているのかもしれません。

今回の人生をこれまで生きてきて学んだことは、

他人の運命を直接、変えることはできない

ということでした。

あくまでも、働きかけることしかできない。

また、

変えることができるとすれば、自分が現実創造を担う部分だけ

ということも、わかってきました。

言葉でうまく説明できてるかわかりませんが、他人の現実を変えるのではなくて、「自分が創っている、他人が登場する、ある現実」のことしか、私たちには変えることができないように設定されているのだと思います。

私がヒーラーという仕事を選んでいることについて、いろんな人がいろんなことを言います&聞いてきます。

「どうしてヒーラーになったんですか」

というプレーン&ニュートラルなものから、

「なんでまたこんな怪しげな商売を!?」

「いい加減、詐欺からは足を洗って真っ当になりなよ」

という否定的な見解、はたまた

「21世紀のキリストになってください!」

「あなたこそ、人類を導く真のスピリチュアルリーダーだ!」

的な、(過剰なほどの)持ち上げ系。

それか、

「人助けをしたい、なんて馬鹿げた使命感を本気で思い込んじゃう、ちょっとアブない変な奴」

的な変人扱い?(←実際のところ、『言うほどそんな変な扱いはされない』というのが自分の実感なのですが←たぶん本質的なところで、自分が変人扱いされるという思考が入ってないんだと思う。あるとしても、ヒマつぶしに『あらぬこと』を言われて厭な気分になってみたり怒ってみたりしたいだけで、本当のところでは、自分がおかしな駄目な狂った人間だとは微塵も思ってない。あくまで、言いがかりをつけてきた相手のほうに問題がある、という図式しかマニフェストしてないw)

いろいろあります。

そのどれもが、私からすると、しっくり来ないというか、本心と違う感じがするのも確かです。

同時に、「じゃあなんでヒーラーなんてやってるの!?」という質問にちゃんと答えようとすると、現時点では、私自身、このブログ記事でこれまで述べてきたことを率直な本音として

「どうしてなのかは自分でもはっきり客観的には把握できてないけど、少なくともこれまではこんな気持ちを抱いてたから成り行きとしてこうなったまでです」

というのが、一番正直なところなんですよね。

今回は、(私がそれまでのこの人生と大幅に違う生き方の変更をしたため?)これまでのDo Overとは異なる展開を示しているのも確かです。

また同時に、これまでは幼稚な正義感あるいはお節介の押しつけ精神で、善かれと思って人類の末路を救済しよう、というような気持ちを持っていましたが、不思議なほど?それもどうでもよくなりました。

この世界に生きているということ自体、私にとって、どこまでいっても私自身との対話でしかなく、世相がどうなろうと、他人がどうなろうと、それは添え物に過ぎないというか、ぶっちゃけ、どうでもいいことなんですよね。そもそも、どんな悲劇的な出来事だろうと、その本人が第一希望で望んだからこそ現実化したことですし、私には何の責任も無いんです。

なので、自殺や事故、何らかの事件に巻き込まれて死んだり重傷になる人がいるとあらかじめわかっていてもケロッと自分のことをやる日々を送り、予定どおりいつも通りその人が死んだり重傷になって一生半身不随になったりしても、「あ、そう」と動揺ゼロでスルーできるようになりました。

今夜、この人、死ぬんだよなとわかっていても、まるでそんなこと全然知らないかのようにさりげなく接するなどもお手の物(ビバ演技力!)。

つまるところ、変えることができるのは自分だけ、あるいは「変わりたい」とその人自身の自由意思で表明した他人を「お手伝い」することだけ。

この世界はどこまで行っても、私からすると、自分が活躍するための舞台でしかなく、「舞台劇場の所有者・責任者」ではないんですよね。舞台にガタがきたからと改修工事をしたり何なりするのは、その劇場のオーナーがすればいいことなんです。私じゃない。

そんなこんなで、これまでは「この世界をどうしよう?」という気持ちがベースとしてあったのですが、ここからは「自分がこの世界での生活を通じて、どんなふうになろう?」というほうをベースにするようシフトしました。

なんか、世間一般の道徳観念からすると、ロクでもない無責任な酷い人側にシフトしたような感じもなきにしもピアニシモですが、不思議とおかしな感じは、していません。

どんだけワケワカメなことをしている人や団体、国や社会があろうと

「お好きにどうぞ~♪」

と無関心あるいはエンターテイメントを楽しむように、軽やかな気持ちで見届けられるor無視することができるようになりました。
(魔法少女まどか☆マギカに例えて言うなら、ほむらが『べつにワルプルギスの夜にこの街が滅ぼされようが、まどかが魔女化しようが、知ったこっちゃないわ』と開き直った的な)

ある意味これだけでも、私個人のことについていえば「以前はできなかったことができるようになった」ということで、収穫っちゃ収穫なんですよね。

最近は、ジョセフ・ジョースターのように

「お前は次に~と言う」

などと予言するのが楽しみになってきました。
(しかも、将来予知という方面の能力ではなくて、『かつてDo Overしたときの記憶を蘇らせることによって未来を思い出し』て)

あらかじめ、これから悲惨な目に遭う人に、その人がこれから辿る悲惨な末路を全部、笑顔で説明する、なんて戯れも多々(しかもそれは、酒の席で『酔っぱらいの戯言』という言い訳がいくらでも成立するような場・条件のところでやるw)。

だって人生なんてゲームだもの。どうだっていいじゃない?

みんな言ってるし♪
   ↓


満足できなかったら、また繰り返せばいいだけの話。

それだけのことよ。

この世は夢ぞ、ただ狂え。

なんちゃって!?
P.S

もしかしたら今回の人生で私が見出すと決めていることは、

この世に対するあらゆる義務感・執着の完全払拭

なのかなぁ、なんて思います。
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