プラントロス

ペットロスは、よく言いますよね。

これのアレンジ的な造語で、プラントロス。つまり植物を失った悲しみです。

私、これになっちゃいました。

4年前、シータヒーリング応用クラスで植物を霊視する実習のために100円ショップで買ったクワズイモが、なんか可愛くてそのまま部屋で育ててました。

このクワズイモは無敵で、カビが生えて芋の部分が9割ほど腐って壊死しても死なず、思わずゴミ袋に入れて生ゴミとして捨ててしまおうと私はしたのですが

「まだイケるから捨てないで!」

と呼びかけてきてくれて、なげやりな気持ちで熱帯魚の水槽のフィルターに挿しておいたら水栽培のように根を伸ばし、そこからすくすくと葉を伸ばしていつのまにか本体の芋部分もしっかり再生……という頼もしさ。

実はこのクワズイモの危機のなかではほんの序の口で、植物の面倒を見るのが天才的に下手な私に飼われていることもあり、何度も何度も「こりゃ終わったな」という憂き目に遭いつつも、強く強く回復し再生してみせてくれていたのでした。

人間の赤ん坊くらいにまで育ってきたので、これまた赤ん坊の棺桶くらいはありそうな植木鉢を用意してそこに植え、まるで紫陽花みたいにモワッとボリューミーに庭で繁るのを、我が子の成長を誇らしく思う感じで見ていました。

私にとってこのクワズイモは、実の子といってもおかしくないほどの、人生最愛の存在となっていました。

が、今年2月の大雪のとき。

大雪に積もられながら、クワズイモは相変わらず青々と繁っていてくれたのですが、さすがに

「室内に入れてあげよっか?」

と私も心配になりました。

するとクワズイモは

「いや、ここで大丈夫」

と言うから、そのままにしておきました。

ら。

まるで大雪がきっかけで風邪をひいた人がどんどん悪化するみたいに、もう雪は溶けてなくなった頃合いに、急に生気がなくなってきました。

それをエネルギーで感じ、慌てて室内に鉢ごとクワズイモを移そうとしたのですが、

「もう、間に合わないからいいよ。さようなら。これまでありがとう」

と最期の言葉を残し、それからこの個体については交信ができなくなりました。

そのとき私は、大雪のときに室内に入れれば助かったのに、と直観しました。

なんでクワズイモは嘘をついたんだろう……。

植物は個体ごとに魂を持つ動物と違って、「クワズイモ」という1つの巨大な魂が別の層にあり、物理的個体として見えるもの1つ1つにその魂の意識が投影されるだけ。だから厳密にいえば、個体が枯れてもクワズイモは相変わらず、世界中のクワズイモが共通して持っている魂としては相変わらず存在し続けるし、何も悲しむことはない……と自分を理屈で説得しようとも、人生でこれまであんなに植物に愛着を持ったことはなく、回復する術を持たないままに(←嘘。ほんとはいくらでもあったけど使わなかっただけ)ズルズルとプラントロスに呑まれていきました。。。

そして3月、私は理由もわからぬまま足を極端に悪くして寝たきりになってしまい、ようやく起き上がり歩けるようになってからも3ヶ月近く、尾を引きました。

もう、何もしたくない。もう、何一つ努力したくない。ただ、今の状態に浸っていたい。

病気の弱気からか、それともそういう信念を具現化するため病気になることを選択したのか(←おそらく後者)、私は自分の家を、家具を、飼っている魚を、異常なまでに愛おしく思うようになりました。

もう片時も離れたくない、この愛すべきものたちと一時でも離れるなんて考えられない。

突如沸き上がってきたこの想いがすべて、「4年が任期であるシータヒーリングのインストラクター更新をする、という面倒と向き合いたくない。逃げたい。更新せず終わらせるという逃げ方をしたい」という潜在意識の保守的な本音を土台として引き寄せられてきたものだと気付くのは、それから程なくしてです。

そして原因不明で、それまでずっと元気だった熱帯魚たちが水槽ごと全滅したのも、それから程なくしてでした。

生き物がいるから、家を離れられない。

その言い訳をする余地がなくなりました。

で、私は飛行機に乗りました。

20142018.jpg

もし魚が全滅しても、クワズイモが健在だったら、私は絶対に家を離れず、したがって更新もしなかったと思います。

クワズイモは、そのことをわかっていて、それであんな……?

4年前はウサギを飼っていて、3ヶ月も外国にいたけど、ちゃんとシッターさんと契約して面倒をみてもらっていた。

だから本当は、生き物が家にいるから離れられないなんてこと自体が、言い訳。

でも今年の春先の自分は、そのことをどうしても認められなかった。おかしな言い訳に呑まれているほうを選択する有様だった。

だから???

4年後は、、、というか、これからはどんな場合でも、何かを言い訳にするのはやめよう、と思いました。

もう二度と、クワズイモのようなことを自分と関わる何かにさせるようであってはいけない、と。

自分が好き勝手に独りよがりに不幸でいることを選択していることで、周りはもっと悲惨な目に遭う。当の本人は結局、たいしたことないくせに。

最愛の植物の死、に端を発するプラントロスは、これからはいついかなるときも幸せでいよう、幸せを指向しよう、という強い信念を呼び起こしてくれました。

悲しいことではあるけれど、悲しんだなりの我ながらうまい、そしてクワズイモに恥じないだけの収穫に転じたな、と思いました。

さようなら、クワズイモ。

さようなら、クワズイモに死んでもらわなきゃ気付けないほど愚かで弱気ぶってたかつての私。

なーんてね。
関連記事
スポンサーサイト