シータヒーラーの死について

某大御所シータヒーラーが癌で亡くなったことをもってして

「そら見ろ!やっぱりシータヒーリングなんかインチキだ!デタラメだ!気をつけろ!騙されるな!!」

と鬼の首をとったみたいに言う人いるらしいすね。

そういう人は世の中に1つでも、合わないネジがあったとして、

「そら見ろ!やっぱりドライバーなんて発明品なんかインチキだ!デタラメだ!気をつけろ!騙されるな!!」

とか言うんでしょうか。

どこかの誰かがつくったラーメンを食べて不味かったとして、

「そら見ろ!やっぱりラーメンが美味いなんてインチキだ!デタラメだ!気をつけろ!騙されるな!!」

と騒ぐとか?

(なんか大変そうな人生w)

ただ、わからない話でもない。超感覚なんてジャンルで展開する技法なら尚更。

ヴァイアナもこの手の話についてはよく聞く&創始者として見解を出しておく必要性を感じてる?ようで、今年もアイダホのセミナーでは

「人は遅かれ早かれ、死という形をもってこの肉体を離れることを、その人と創造主との間で決めているもの。その決意は自由意思でもあるし、いかに凄腕のシータヒーラーだろうと、ある人が死を受け入れると決めた後では、その自由意思を妨げて癒してしまうことはできない。また自分自身の場合であっても、死という変化を受け入れるのが望ましい場合には死の扉をくぐり、死という体験を通じてこの肉体を離れることは自然なこと」

という、とりようによっちゃあ都合のいい言い訳にも聞こえるが実際ホントそうだよね的なことを話してるようです。

しかもこれは以前から基礎講座の最終章でも書籍でも一貫して述べられていることです。何も急にそう言い始めたわけじゃない。

「私がセッションしたところ、ある人はすぐに癒え、ある人は何度かセッションを要し、ある人は癒えなかった」

という旨が、ヴァイアナの著作群やセミナーテキストには率直に書いてあります。
しかもそれは自分が治せなかったというわけではなく、「創造主がtake care (of)する」と明言してますよね。

そこからもわかるように、シータヒーリングはべつに病気を絶対に治しますよということは謳っていなくて、

「創造主に委ねて祈った結果、あらゆる病気や怪我、心の傷などが癒えることがあります」

としか言ってない筈なんだよなぁ。

で、それをマユツバの怪しいカルトだと思うなら、単純に近づかなきゃいいだけの話。

シータヒーリングのセミナーでは、「病気を治してみせる」ということを明言するのはNGだと強く教えられるはずで、一般的な社会規範に則った行動や言動を心がけるようガイドライン的に示唆されます。
(急病人や怪我人が出た場合は救急車を呼ぶなど、常識や市民の義務とされる行動を真っ先にとるよう強く念を押されます)

とりわけ、今年のアイダホでは「超感覚的なことを信じない人、信じるとしてもシータヒーリングのモダリティではないものを信じる人」に向けて、彼らを混乱させないように、驚かせないように、

「超能力でどんな病気も瞬時に癒す」

的な一般常識からすれば異常と思われやすいことや、シータヒーリングの理解としての世界観、技法の仕組み解説などはしないように……ともヴァイアナから言われたそうです。

国の法規制によっては「ヒーリング」という名称も使えないそうで(例えばドイツではヒーラーとかヒーリングと名乗るには国家資格が要る)、そういう国や地域では「シータ・メディテーション・トレーニング(θ瞑想訓練)」という名称で展開されているようですし。

でね。

シータヒーリングは嘘なのか。シータヒーリングを習ってる人は頭のおかしいバカなのか、って話。

これね、エネルギーの仕組みでほんとにそうなってるなぁというのが観える&わかる→物理的現実に変化を起こせるのがわかる人だと、すごく有用なんですよ。

どこかの誰かに信じてもらう必要すらない。
自分でガシガシ、使いこなして、生きたい人生を実現していけばいいだけの話。

(このコメントすら『そもそも頭がおかしくて、エネルギーが観えるなんて思い込んでる精神病者の戯言』と思うなら、その人はそう思ってりゃいいんじゃないですかね)

あくまでシータヒーリングは、ツールですから。道具ですから。
使い方がわかってる、使える人が、使える用途のために使えば、それでいいんじゃないでしょうか。

自分にまだ使えない、使い方がまだわからないから「嘘、無意味」などと断じるのは強引すぎる気が。
(そういう人はヴァイオリンを自分が弾けないと、『ヴァイオリンなんて楽器で美しい曲を奏でられるなんてインチキだ!』と言うんでしょうか)

現実はルービックキューブとかパズルみたいなもので、シータヒーリングという道具を使っても、その人の腕前や難易度?複雑さの度合い?などによってはうまく対処できないことがある。

シータヒーリングではなくて、別の道具を使ったほうがうまくいくこともある。

あくまで道具は、それが役立つ場や状況において、役立つなら使えばいいだけの話。

すべてのありとあらゆることを、なんとしても1つの道具だけで乗り切ろうとするほうが無謀というか、不便なんじゃないですかね。



たとえばシータヒーリングでは、病気にかかるかどうかも本人の思考パターンによる、という考え方をとっていますが、これだってなにも「ある思考パターンを持っている人は全員、問答無用にその病気に絶対にかかる」なんて言ってないし、でっちあげの理論というわけではなくて、エネルギーを観られる人からすれば、その電磁的引き合いor反発(まるで磁石のやうに)で、ある思考のエネルギー波動がそれに類する細菌やウィルス、重金属、カビなどを引き寄せるから罹患しやすくなるという仕組みで言っています。

なにも、好き勝手に空想ごっこみたいに言ってるわけじゃないんですよね。

(これ、霊視ができない人だと実感のしようがないだけに、頭でっかちに『シータヒーリングではこんな思考がこんな病気を引き寄せるという“説”を展開してるみたいね。そんな『風が吹けば桶屋が儲かる』みたいな荒唐無稽な話が本当なわけないじゃないのw』などと、シータヒーリングの理論各種を常識的論理的妥当性みたいな見地から否定して『支離滅裂な作り話』と結論づけようとしてくるので、なんともいえない香ばしさ)

対話による掘り下げにしたって、会話のやりとりはあくまでエネルギーを辿るための方策であって、なにかそこで展開される議論や会話そのものが立派な論理を形成しているかどうかはぶっちゃけ、本質的な問題ではない。
(もちろん、クライアントにとっては、わけもわからずコマンドとやらをかけられて鳩が豆鉄砲くらった、みたいになってもアレなわけで、顕在意識による理解&納得をしたうえで自分の抱えている問題を手放すことを自分自身で決意し、許可するという効果があるわけですが)

あくまでエネルギーワークなんですよね。

屁理屈こねあってどっちが上手にハッタリかませたか大会じゃない。

エネルギーが観えない感じないわからない人には、どこまでいってもハッタリ大会にしか見えないとしてもねw



さて、かくいう私はというと、

それがシータヒーリングと呼ばれるかどうかすらどうでもいいから、この世のエネルギー的な成り立ちを理解し、そこに正当な(カルマによる代償などが伴わない、宇宙の摂理に叶ったやり方の)「手の加え方」があるなら、それを使うのが有用なら、覚えて使いますよ

という、至極ドライな立場。

これはべつに、シータヒーリングに対して失礼でもないし、裏切りでもなんでもないと自負しています。

第一アイダホにまで行ってセミナー受けてる人だって、ヴァイアナ讃歌とかシータヒーリングブームに踊らされて浮き足立ってるみたいな人は激減してて、どちらかといえば

「便利で役立つツールだから学びに来てるだけ。習得して使いこなせればべつにヴァイアナとかTHInKがどうなろうと知ったこっちゃない。こっちは授業料としてのお金払って、その分だけのセミナー教授というサービスがちゃんと提供されて、それが絵空事とかじゃなくてちゃんと現実を創り出したり変化させる力をもったものなら、それでいい。つーか、それ以上を期待されてもウザくて困る」

という感じで、変に偏ってない人のほうが増えてる印象あります。

なんかさ、ヴァイアナはじめスタイバル一家がやってるTHInKなんて会社がどうなろうと、どうでもいいのですよ。べつにファンでも信者でも従業員でもないし。

セミナーに出る動機だって、不幸な自分が幸せな気分に浸れるから……みたいなものでは少なくとも私はなくて、ほんとに現実に活かせるなら、物理的現実を創り出したり変化させられるようになるなら、というもの。ダメだこりゃと思ったらその場で見限るよ。


ていうかそもそもさ、

オトナなら、何が有用で便利でホンモノで何が怪しいかなんて、自分で決めなさいよ

って話なのかもだけどね。

あ、そうそう。

怪しい理解&実力のシータヒーラーなんて、ゴロゴロいてもおかしくない

と思うよ。

それは医者でも美容師でも料理人でも教師でも、どんな職業にでもいえることだと思うけどね。

アララな人が1人、その業界なり職業なりにいたら、その業界や職業名全体が「ダメ」とされるか?って話。

そしてアララな人しか自分の周りに現れてこないとしたら、それって……。

あ、ううん。なんでもない。気にしないで?

P.S

何かを疑う人は、本質的には

「何かをちゃんとできない、成功させられない、(と認識する)自分」

を疑ってるんですよね。

つまり、その人自身がもし、ありとあらゆる望みを叶えられて当たり前、という成功体験だけで生きてこられたら、そんな疑いを持つものなんでしょうか、ということ。

もし誰かにとって何かが無理そうでも、どんなときでも必ず100%それはダメだとは思わず、

「このケースにおいては、実現可能性が低いのでは」

と、個別に判断力を働かせるはずなんです。

「そもそもこの世で~を~するなんて、いついかなるときも誰からしても無理だ!」

と全否定するというのは、どういうケースにおいても妥当とは言えない……という理解のほうに行くんじゃないかなぁ。

何かをできないと言ってる人は、そう言う分だけ、自分がいかに能力が低くて無知で愚かで、成功体験を積み重ねることができてない無能で不幸なみみっちい生き物だと大声で宣言してるようなものだと思うんですけど、そこは重々、承知のうえでなんだろうかなぁ……と、他人事として思います。

あ、ついでに言うと、自分の決めつけを他人に押し付けようとする品のない人ということにもなりそう。

もちろん、そうするのも自由。

結果に責任がとれるならね。
とれないと言っても、いずれにせよ逃げたりできない。背負うハメになるわけですから。

みんな自由に言いたいこと言えばいいよねっ!!
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