霊的クリアリングと物理的俗生活とのバランス

霊的探求……といってもし大袈裟だと思うなら「精神性」と言ってもいいですが、そういったものと物理的な現実のバランスって大事だよなぁと思います。

そのバランスは個々人が納得のいくところでとれば(なにも必ずしも5:5でなくとも4:6でも3:7でも、なんなら1:9でも)いいわけですが、このバランスについてまったく配慮しないまま、「クリアリング」と総称されるあの、霊的洗練を進めていってしまうことの、現世利益的な観点から見たデメリットといったものが存在することはあるようです。

わかりやすくいうと、霊的な素晴らしさ偏重主義に陥ると、それこそ家はボロくて断食して衣服もズタボロ、風呂にも入らず髪もボサボサ……というような状態になっていく場合もあります。

物理的行為はあくまで霊的な学びのための方法に過ぎない、という考え方に立つと、

「物理的行為を経ることなく霊的な学びが得られればそれでよい」

と思うようになるのも解せない話ではありませんよね。

で。

本人が本当にそれでいいと思っているなら、それでいいと思います。

ただ、他者や社会、ひいては世界、人類……といった何かに「貢献」しようと思った場合、もちろん祈りによる霊的なエネルギーでの貢献の方法ももちろんありますが、とりわけ人に対して、なかでも「現時点では霊的な真実を100%受け入れることができているとはいえない(が、内なる神の声的なものでいえば間違いなくそちらを志向している)人」に対してなにか働きかけを行おうと思うのであれば、物理的に、もっといえば、「彼ら」がわかる言語で表す&伝えることがどうしたって必要になってくるわけですよね(じゃないと相手は、自分が何を言ってるかまったく理解できないので)。

その意味で、目に見えるカタチというのは1つ、霊的なもののあれこれにまだ目覚めていない人たちにとっては非常に有効な「コミュニケーション手段」となります。

わかりやすくいうと、本来伝えたいのは「霊的な洗練をさせることの意義や、それによりこの人生がよりよくなっていく可能性があるということ」だとしても、カタチとしては例えば自分自身が何かの既存の分野でずば抜けた成果を出すなどが考えられるわけです。それが美貌でも金でもスポーツでも芸術作品でも、素敵な暮らし方の(自分で実現してみせることによる)提案、芸能界で絶大な人気を誇るタレントにまでのし上がる、政治家として当選して実績をあげる、etcのなんでもいいわけで(それが自分の表したいことを伝えるのに有効であれば)。

目に見えないことだけをして、

「私はすごいのだ」

と言ったところで、霊的なエネルギーの良し悪しが見極められる人でない限り、ホントか嘘かなんてわかりません。というか、本当にすごいと思う人のほうがどんだけ危ういんだよ、ってくらいでしょw

さて。

人に貢献したいという目的でまずは自分を、という動機でクリアリングに勤しんだ人も、最初は別に他人のことにまで頭が回らなくてただ自分の人生をどうにかしたかっただけだけどある程度できてきて初めて他人のために何かしたいと思うようになった、という人でもどちらでも、あるいはそれ以外でもべつにいいわけですが、

あまりに固執や物理的実績、競争意識から(何か物理的現実を成す前に)解放された状態になってしまうと、今さら他人にわかる形で何を示せばいいのかがわからなくなる&わざわざ物理的実績を出さなきゃいけない理由が見えない&何らかの意義があるとして、それを今からやるとなってもどうすればいいか具体的ノウハウもわからないし、なんとしてでもその実績を出したいという動機もない

という状態になってしまう可能性があります(というか、そうなってるなと感じる人はそこそこいます)。

だから。

まず、いまこれからクリアリングを始めようとか、いまクリアリングの真っ最中ですという人であれば、

いい意味で、エゴイスティックな?せせこましい意識の人々がひしめきあうからこそ学べるものは無いか?この先クリアリングを進めてしまうと体験できなくなる(が、体験しておいたほうがなんだかんだいっていいのであろう)ことは無いか?

という視点を持っていただきたいなと思います。

具体的に言うと、成績を競い合う社風で営業マンをやってる人であれば、心のなかでは「こんなこと、自分が本当に探求したいことじゃない」と思っていて、いつかはそっちに移行しようとか、会社員生活と並行してまさにクリアリングを進めるあれこれに取り組んでる最中ですという場合、

「とにかく今の境遇でなきゃ味わえないこと、楽しめないこと、体験しておけないことは、本当に無いの?」

という点を、あえて気にしてみては……というご提案。

もし上記の例えでいうなら、会社設立以来の最高記録更新を毎月毎年アタリマエのように成し遂げたうえで「これは本当にやりたいことじゃない」と言ってるか、って話なんですよね。

そうじゃない場合。それこそノルマ達成できないとか、同じ会社に自分が叶わない凄腕営業マンがいるとかなら。そして今すぐに自分の「本当にやりたい霊的探求100%の生活」とやらに移行しないのであれば、そこは、醜く思えても固執だとしても不毛な建前としての業務遂行のように感じるとしても、とりあえず1番になることを目指して取り組めばいいじゃない。できてないなら、少しでも成績が上がるようにありとあらゆる努力やら試行錯誤やらをしてみればいいじゃない、と思います。

(頭でどんなに否定しても、今起きている現実は、世界で一番、自分が身をおくのにふさわしい、ベストなものだというのが、霊的なエネルギーを通じて自分やいろんな人を見てきて私が抱いている感慨です。そしてその境遇は、『卒業要件』があり(本人が決めており)それをクリアしたら自然と変わっていきます。嫌に思える状況が消えて好転するように感じる人もいるでしょうし、場合によっては『前のほうがよかった』というもっと大変な境遇になることもあるでしょう←だからこそビリーフワークが重要になります、本人の意図が現実を創るので)



逆に、「どうしよう!もう、物理的現実がどうあるかに固執するところを抜けちゃった!のに、他の人々に伝えられる方法が見えてないよ!今さらビジネスとかタレントとか、何かのカリスマで一般の人にわかる形で自分をアピールして表していくやり方がわからないでここまで来ちゃった!」という人の場合。

わざとブロックとされるような信念体系に戻す……というのは、さすがに芸も能もないと思います。

そこは新たに、クリアリングが進んだからこそ実現可能な方法を模索していったほうが建設的かと。

物事を具現化するのを阻む意図を自分が持っていなけれればいないほど、常識では考えられないようなウルトラCな成功実績を一気に打ち立てられる可能性が大きいわけですから!

ただこの場合、

自分が目指す何かを成すための、自分ならではのルートが見えてきたとして、そのルートを歩むうえで必須な、「学ぶべき現実的知識・ノウハウ・技能・資格etcの構築は、粛々と実践する」ことを外さない(サボらない)

ことだけは肝に銘じたほうがいいかも。
(単純に『今さら現世の苦労をするのは嫌。私はもうそこは卒業した』とうそぶいて、怠けてるだけ……ということは往々にして、霊的にだけクリアリングされてしまった人にはありがちですw)



結局のところ、どんなバランスをとろうが崩そうがその人の勝手といえば勝手なのですが、個人的に1つだけ万人向けに言えるのではと思っているのが

霊的にクリアリングを進めるとか波動を上げるとかしていくと、その分だけ俗世間とは相入れなくなり、うまく折り合いをつけることができなくなる……というのは幻想では?

という点です。
(これ、シュタイナーの本だと『ある程度、霊的探求を進めた人は、俗世間の人のなかでウマが合わなくなり、それは避けられない』的なことを書いていて『?』と思っています)

確かに、ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige)という言葉があるように、霊的にでも精神年齢的にでも、わかってる側のほうがわかってない側に合わせる的な手間は発生します。

それこそ誰かの悪口を言い合う会話のとき、本気度100%で「そうだそうだ!それこそ絶対の真実だ!」という相槌は打てなくなるのは道理でしょう。
その人やら物事が悪く見えるのは、そう言う人の価値観での判断に過ぎず、絶対的な真実であろうはずがない、ということを理屈以前に肌感覚?で直観的にわかってしまうからです。

その意味では「本音では」いわゆる俗物とされる考え方やエネルギー状態の人たちと合わなくなる部分はどんどん、大きくはなるでしょう。

でもだからといって、絶対に現世的な成功ができない、とも言い切れないわけで。

要は、やりよう。

何かをしてしまったために、何かができなくなるというのはほとんどの場合、幻想ともいえるわけですからね。

まぁもちろん、他の誰のためでもない、自分のためのクリアリングだ、そこに貢献などという余計な概念は入れたくない、自分の人生は自分だけのものなのだから……という人は、べつにどんどんガシガシ、どんな在り方にでもなっていっちゃえばいいじゃん!とも思いますしおすし。

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