なぜ「勝ち組・負け組」などのレッテルを重視するか

以前のワークで、私がまだ、それが霊的な真実というよりは人々が勝手に貼っているだけの幻想としてのレッテルだとわかりつつも、「勝ち組・負け組」といったカテゴリーで物事を捉える視点をあえて持っているのはなぜか、的な課題が浮上してきました。

で、それって単純に、「だって実際、そういう集合意識があるから」に到達したんですね。

よく、「他人がどんだけアンタを貶そうと、気にしちゃダメ!自分を信じて!」系の励ましの言葉ってあるじゃないですか。その言葉自体は本当だと思うし、受け止め方によっては人がよりよく生きるうえで有用だとも思います。

ただね。

実質的に、なによりもその本人が「私はバカだ、ブスだ、貧乏だ、負け組だetc」のビリーフを持ってしまっていて、それが引き寄せの法則的に「I am バカ」などの集合意識を引き寄せ、自分が組み込まれ、影響を受け、そして今度は集合意識を増幅させるために貢献までしてしまっている……ということが、(本人は無自覚であってもエネルギー的に)成立してるのは、問題なわけです。

エネルギー的にそうなってしまっているのに、そこは見ないフリで(まぁ目には見えないから見ないフリも何もないんだけどねw)、

「私はバカじゃない!ブスじゃない!」

みたいに顕在意識で強く念じるだけで吹っ切れた気になっちゃうと、(実際は吹っ切れてないから)大変なんじゃないかなー、と。

仮に、エネルギー的な仕組みを解決しないで、「私はバカだ」の信念~集合意識に呑まれてる人が、「そういう状態のエネルギーに染まってることをあくまで否定して逃げることをもってして、『解消した、できた』とうそぶく」とどうなるかというと、たとえば一流大学に入ってみせて、大学院で博士号をとり、インテリとされる活躍ぶりを見せる……ということになったりします。

べつにそれでいいじゃない、という見方ももちろんあります。

でもその人のなかでは、確かに行動を起こす原動力ともなっているけど、相変わらず潜在意識下では「私はバカだ」と思っていて、それにより「We are バカ」の集合意識に呑まれており、立ち止まったらアウト!といった切迫した感覚で、バカであることを認めたくない、自分はバカじゃないんだと言い張る苦しさから解放されません。

ここで大事なのは、その人がたとえば学校のテストで偏差値がいくつかといった「頭の良さ」とされる指標でどこに位置するかは本質的な問題ではないということです。

どんだけ点数がとれてもすごい論文を書いて天才と褒めそやされる在り方で博士号をとっても、要は本人が「私はバカだ」というエネルギーを抱えているかどうかが問題なんですね。

これを「私は貧乏だ」の例に置き換えてみると、たとえばそのビリーフを認めたくないという強迫観念をバネにして頑張り、資産家とされるほどのお金を手にできるかもしれません。物理的には、金持ちとされる状況が成立することもありうるでしょう。
でもエネルギー的な問題を解消していないと、それこそ「俺は金持ちなんだぞぉ~」と、内心「私は貧乏だ」という思いに怯えてそれを否定したいからこそ、見栄を張ったりします。
その人が手に入れて、動かすお金は、大きいかもしれない。それでも、その人が相変わらず、自分は貧乏なのではないかという思いに深いところでは相変わらずとりつかれていて、それを否定するために躍起になっている(だけ)という図式はどこまで金を稼いでも、それだけでは消えないわけです。
(むしろ、世間と比較して大金持ちとされる実績をあげてしまうと、顕在意識では『私は金持ちに決まっている』と思うようになり、意地でも「私は貧乏だ』なんて思いを抱いているわけがないだろうと強固に否定するようになったりして、ワークしにくい場合もある)

さて。

「はいはい、あんたの言い分はわかったけど、でも劣等感だか悩みだかをバネにしてでもなんでも、この世で成功して立派だと言われるとこまで行けたなら、それでいいじゃないの。何が霊的なエネルギーよ。知ったこっちゃないわよ。第一、そんな悩みをエネルギー的に解消したことで、せっかく頑張ってきたモチベーションがなくなって、一文無しとかせっかくの頭脳を活かせない誰でもできるバイトみたいな方面に行っちゃったら、どうするのよ。そっちのほうが問題じゃないの。そうなれば、思い悩むイシュー?様様だわよ」

と、現世利益至上主義の人は思うでしょうね。

そしてそれは、何らおかしいことでも悪いことでも否定されるべきことでもない。尊重されるべき1つの見解といえるでしょう。そう思う方は、どうぞそのままの生き方に自信をもって進んでいかれたらいいと思います。

ただ、ここではあくまで、「人が抱えてきたイシューは、霊的な学びとその学びの完了による進化のための糧であり、なにより人は(究極的には、金持ちになるとか美人と評判になるとか頭がいいとされ学位を得るとかの物理的現実の確立そのものではなく)霊的な学びのために来ている」と捉えた場合、そしてそう捉えることをよしとする人向けに話を進めます。

だとすれば、解消したほうがいいよね。そして、自分がイシューを解消することは、自分の霊的な学びとなり、それは独りよがりな自己満足などではなく自分の霊体の強化という霊的進化に寄与するものである……と捉えると、愚かしいことをしているという感慨もなくなるのでは。
(ただし、これって目には見えないから、霊的なものを疑う人はどこまでいっても懐疑的なままだろうなぁ。本人がまさに『霊的なものに懐疑的である』というイシューを解消しない限り)

で、物理的現実のほうで、もしイシューを解消してしまったら、がむしゃらに行動するモチベーションをなくして何もかもが駄目になってしまうのかというと、そうじゃないと思います。
もちろん、丁寧にワークをすればという条件はつきますが、別のモチベーションで今の仕事や勉学、最高の美貌を体現して生きるなどを続けられるように信念体系を整えれば、以前と同じかそれ以上の成果をキープできるし、苦しむことがなくなった分、それまで苦しみに耐えることに充てていたエネルギーまで他のことに回せてより一層の大躍進!も見込めます。

このね、「物理的、現世的にもちゃんと恩恵がありますよ」というのが、ワークのポイントでもあり、霊的なものに懐疑的だったり「人は苦しんでこそ学べるし、悔しさや劣等感をバネにしてこそ、がんばれる!(それ以外に方法は無い!ラクになったら絶対に人は怠け、堕落する!)」と頑なに信じ込んでいる人にはできればお伝えしたいところ。
(あくまで提案ね。働きかけるだけ。強要はしませんよ。ついでに言うと、頑なな思いを抱えてそのまま突き進んで、その人がどんだけズタボロになって磨り減って消耗して痛く苦しい人生を送ろうが野垂れ死のうが、知ったこっちゃないし)

本題に戻ると、要はそういうイシューにワークするうえでの大まかな判断の指針として「勝ち組・負け組」をはじめバカだブスだ貧乏だのといったレッテルであえて物事を見るのは大事だし便利なんですよ、ということでした。

これね、もっと物理的に「有毒か無害か」で考えると、わかりやすいと思います。

レッテル貼りをよしと思わない人は、

「物事を一括りにしてレッテルを貼ったりしちゃダメ!すべての存在には、それならではの価値がある!!」

などと言うわけですが、それもわかりますが、

「ようするにこれ、食っても大丈夫なの?死なない?体調壊さない?」

をとにかく把握したくて「有毒か、無害か」だけ知りたい!ってことは、ありますよねぇ。。。

まぁ、そんな感じでーす。



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