悟りとは何か

なんてデカいテーマ!(笑)

あくまで1つの解釈、参考として捉えてくださいね。

「悟り」の定義は人それぞれですし、それでいいと思います。各自がぜんぜん違う意味で使っていても、なんの問題もないし、他人が口出しすることではないと思います。

単に「(どんなことでもいいから)それまで知らなかったことを知る」ことを持ってして「悟る」と言ってもいいでしょうし、ある霊的な真実1つを指してそれを気付くことをすなわち「霊的に悟りを開いた」と言う人がいても、何もおかしくないでしょう。個々人の自由だと思います。

さて。

個々人の自由、というところで、じゃあ私usamimiは何をもって悟りと捉えるか、についてお話しします。

私が個人的に悟りを開いたかどうか、の目安として(おそらく古来からのスピリチュアリストとされる人たちが言っていた意味合いはおおむねこれじゃないかと思ってますが)「悟性魂の芽生え」があります。

悟性魂、という単語は造語と捉えていただいてもいいですが、ようするに魂のある部分のことです。

人間の肉体に胃や腸といった臓器があったり、尻尾とされる部位があるかないか、みたいな意味合い。

その人の魂のなかに、悟性魂としての部分が芽生えたかどうか、を指しています。

さてこの悟性魂とはどういう働きをする魂の部位か、ですが。

たとえばこの世界とは何か、自分とは何かといった「認識」をめぐって、古来からさまざまな哲学者たちがいろんな説を唱えてきましたよね、「我思う、故に我あり」など。

こうした認識をめぐって、どんな論争や捉え方の違いによる差がこれまでの哲学で生じてきたか、の参考として、こちらの本を挙げておきますので興味のある方はどうぞ。
 ↓
自由の哲学 (ちくま学芸文庫)自由の哲学 (ちくま学芸文庫)
(2002/07)
ルドルフ シュタイナー

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で。

認識について見ていくと、「もし人間1人が独自の感覚や思考、知覚をその脳や神経を含めた肉体で培い、たまたま成立した考え方に基づいて世界を捉えるとしたら、個々人はそれぞれまったく別のものを好き勝手に認識しているに過ぎない(コミュニケーションというものは、突き詰めれば『意思疎通が成立している』という幻想を互いに持っているだけで、本当に何か意図が2人以上の人間の間で交わされることはない)」というような、ある限界に到達することができます。万人に共通の、絶対の○○などというものはなくて、個々人が勝手にそれぞれのイメージするものを○○と呼んでいるだけ、という。
(よく『愛』とは何か、みたいなもので、『私にとっての愛とは〜』と個々人が独自の捉え方をしたりしますよね。そこには『つまり物事はすべて個々人が思い描く空想・幻想であって、何か確実な、万人に共通の“実体”があるわけではない』という考え方が根底にある)

でもこれって、霊的な真実からしたら間違ってるんです。

「木」というものについてどんなイメージや定義を持っているかといったら、頭で考える限りでは100人いれば100人が独自の捉え方を持っていることがわかるかもしれませんが、そうした個々人の頭での捉え方を超えた「木、というものの霊的な、本質的な在り方。エネルギー」があります。

端的にいうと、悟性魂とはまさに、この本質的なエネルギーを認識する(できる)魂のある部分のことなんです。

裏を返せば、悟性魂が芽生えていないか、芽生えてはいても発達が不十分の人は、物事の本質を霊的エネルギーとして感知?認識?することができないため、まさに言葉遊び的に

「愛?俺にとっての愛は、『〜』という定義だな。あなたは?ははぁ、そう捉えるか。なるほど。部分的には一緒だけど、違いもあるね。俺にとっての愛と、あなたにとっての愛は、違うってことだな」

というふうに、その事象や概念の本質的エネルギーについて霊的に認識しないからこその、空想ごっこみたいな認識(できたつもり)に終始します。

そういう人たち(少なからぬ割合の、この世に人間として生きている人たち)にとっては、「物事には万人に共通の本質がある」ということがわからない(というか『そんなの嘘だ』と思う)ため、この世界の物事をどう認識するかは個々人の勝手だと思っていますし、もし社会に「常識」というものがあるとすればそれは、大きな勢力をもってできるだけ大多数の人間にそれを宣伝できた・信じ込ませることに成功した・脅迫的に無理くりにでも押し付けて了承させるだけの成果を上げたというような「権力者が好き勝手に定義した、とある考え方。意見」だと捉えています。


この世には、「まさに魂を発達させ、霊的に成長するための学校として学びに来ている人間」と、「実はもう学校は卒業したが、現役の生徒たちが卒業できるように生徒にまざってみんなをサポートするために来ている人間(実は天界の存在)」の2種類の人間がいます。

大雑把にいうと後者の、卒業生たちは悟性魂が発達しているので、霊的な見えない事象についても糞と味噌の区別がつくというか、インチキだと(本質としてのエネルギーが伴っていないので)すぐわかります。

その区別がつかない「現役の生徒」たちからすると、糞も味噌もまったく同じに見えるため、味噌汁だと言われて糞汁を出されてもわからずに飲んでしまうという次第。
(これはつまり、あやしげなカルト教団に騙されてそれをとてもいいものだと信じ込んで入信してしまったり、という出来事の象徴です)



では悟りを開くにはどうすればいいのか、と言われてしまうとそれはこの記事のテーマから逸れるので(だってこの記事は『悟りとは何か』であって『いかにして悟りを開くか』ではないので)書きませんが&そんなすぐ「これ!」という答えは私にも見つかっていませんが、ようするに私の捉える悟りとは「霊的な本質を捉えることができる、魂のある部分(≒悟性魂)が芽生えているかどうか」ですよ、という結論です。

まぁ、私個人の捉え方ですので、これとは別の定義で悟りという言葉を捉える人がいても全然いいとは思いますが。

「いろんな人がテキトーに『悟り』とか『悟りを開く』とか言っちゃってるぽいけど、それってなんなの?万人に共通の悟りなんてものはなくて、個々人が勝手に言ってるだけ?」

という迷い?悩み?がある人に、1つの指針とか参考になるかなーと思って。

私が述べたとおりの悟性魂じゃないとしても、

「ただ何かを知ったかどうかではなくて、霊的な?魂としての?どこかがほんとに変化した」

ことを持ってして「悟り(を開いた)」と捉えている人もいそうだよねー、という考え方ができるようになってくれたらと思って書いた次第でーす。
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