独学力は身を助く

「すべての勉強は独学である」

という考え方があります。

もし学校に行ってても塾だろうと家庭教師だろうと通信教材だろうと、何かを学ぶときのプロセス(外界の情報を知覚して理解する&引き出して使えるように記憶する)は、本人にしかできないという考え方ですね。

ところが近年、「ラクにできるよ」系のサービスや商品が人気です。どの分野でも。
で、ほんとにラクにできてしまえる類いのもの(たとえば家電など)ならべつにいいと思うんですよね。

ただそれが、学習にまつわることになると、現状としては「詐欺っぽい/誇大広告」的なニュアンスになってしまっているものが大半なのかな、という印象があります。
(例:簡単にすぐ誰でもこれ1冊で○○を完璧にマスター、的なマニュアル本など)

たしかに、学習しやすい教材は増えてきている実感があります。
(というか、昔は『(レイアウトやフォントなどの)見やすさ』『文章の平易さ、明快さ』などへの配慮がどちらかというと学習参考書などには欠けすぎていて、『ただ情報が載ってりゃそれでいいだろ、あとは学習者が喰らいついてこい。どんなに見づらくてもわかりにくくても、学習者のほうでどうにかしやがれ』的な丸投げが横行しすぎていた。また今ならスマホやタブレットで音声講義、動画講義、学習アプリなどを手軽にいつでもどこでも……みたいな学習スタイルが採れるけど、ひと昔前はそうじゃなかったですよね)

が、それは学習者が気を抜いてテキトーにやってもできるようになる、という意味にまではなっていないのが正直なところではないでしょうか。

また、「ここ(=塾など)に来れば、あなたは何も考える必要がありません。言われるがままに、機械的にこちらが提示する教材をこなしてください。そうすれば自動的にあなたの学力は上がって行くことを保証しますよ」系のスタンスを表明するスクールが増えました。
それは弱気だったり自分に自信がない人にとっては魅力と映るらしく、それを知った業者は「じゃあウチも」と形だけマネして似たようなことを言い始めるという悪循環があるような。

でもさ。

そういうのが本当かどうかは、そういう方法でやってみて、ほんとに効果があるかどうかで、わかりそうなもんじゃない?

たとえば身体を鍛えるとなれば、古代ローマみたいに野外で石を見つけてそれを持ち上げたり野原を走るか、現代人みたいに近代的なスポーツジムや競技施設でフリーウェイトやランニングなどの運動をするかの違いで、肉体のどこにどのくらいどう負荷をかけるかは同じじゃないですか。何千年経っても、そこは変わらないわけですよ。

それって学習でも同じじゃね?……ってことが言いたいの(前置き、長げー)。



結局、何かを学ぶのってすべて「独学」なんですよね。

独学力は、身につけて&伸ばしおいて損は無いよなぁ、とつくづく思います。

なにも学校の勉強をするでなくとも、ちょっとしたアルバイトでもスキューバダイビングなどのレジャーでも何かの体験実習でも、初めて出向いたところで初めて何かをやる機会は無数にあります。就職した会社の仕事でもそう。

で、独学力が高いと、なんでもサクサクこなせて目の前の現実を楽しめるし、上達も速い。

よほど緊迫した状況でなければ昨今はユルい空気(というか、昔のようなスパルタではない雰囲気、と言ったほうがいいかな)のところも多いから「あ、慌てなくていいですよー。ゆっくりやっていきましょうね」などと優しい対応をしてくれる場や人も少なくないですが、そうこうしてる間にちゃっちゃとできるようになっていく人とはどんどん差が開いていってしまい、実力の差がそのまま、現実がどう拓けるかどうかの可能性の差にもなっていってしまう事実は変わりません。

ほか、(貧乏人の家に生まれた私にとっては、これこそが独学力を向上させるべきかなり優先順位の高い理由だったのですが)塾でも通信教材でも、他の人の「人件費」がかかるサービスを学習者として利用すると、単純にお金がかかるんですよ。
もちろん、直接、その人から教わってこそ修得が可能になる類いのものもあるでしょうから、必ずしも何かを学ぶためにお金をケチるのがいいとは言いません。
が、分野によっては、「なんなら教本を本屋で買ってきてちゃちゃっと独学で自習したほうがお金もかからないし学習時間も少なくて済む」ものもたくさんあります(単純に知識が身に付けばそれでいい、という類いのものなら尚更。たとえばコンピュータプログラミングとか)。

お金のことは気にしないとしても、何かを習うとき誰か先生をつけたり、グループレッスンとなると、自分のペースでは学べなくなります。1人で独学で済ませたらもっと時間を節約できたはずのことに、ただ先生のペースが遅いからとか、○時間をかけて学ぶカリキュラムだということがどこかで定められてて短縮できないとか、同じ教室の他の生徒がモタついてるためその落ちこぼれに付き合わされるとかの憂き目に遭います。

まあそんなこんなで独学力の重要性を独りよがりに述べたところで。

独学力とはどうすれば身に付くのかを、ちょっと書いてみましょう。

■そもそも今、何を学んでいるのかを知る

原点ですよね。
「は?今、自分が何を学んでいるかがわかってない奴なんかいないに決まってんじゃん!」
と思いますか。

たとえば先生がいる前提で、学校の勉強をする場合でも、先生が提示する課題をただやみくもに、あるいは大人しく従順にこなしているだけだと、独学力は伸びません。
またテストを受ける場合でも、とにかくできる限り頑張って、採点されて点数が返ってきたときに良い点数だったら喜んで、悪い点数だったら落ち込んで、みたいなことをやるだけだと、ダメなんです。

「なぜ先生は(≒学校の先生を通じて文科省からもたらされる学習要項では)、生徒にこの課題を与えるのか」
「なぜテストでは、ここがこう出題されたのか(≒生徒がどういった学力を備えているかを見ているのか)」

と、提示する側の心理や教授&出題意図を逆探知する思考を持つようになって初めて、独学力の原点は伸びます。

私事ですが、ギターのレッスンを始めて、先生から単純に弦を人差し指と中指で交互に弾く、という初歩の初歩!みたいなことをするよう言われました。

で、弾いていると、

「親指もっと伸ばして」

と言われたんですね。

で、親指を伸ばす。言われたとおりにする。忠実な生徒です。
が。
これでは独学力は伸びません。
どうしてか。
「なぜ、人差し指と中指で弦を弾く練習をしているのに、親指を伸ばせと先生が言ったのか」
を理解していない&理解しようともせずに、ただ言われたことをやったからです。

先生は、人差し指と中指の位置をもっとギターの端のほうにするのがよい、と思ったそうなんですね。
つまり、学ぶべきことは「正しい人差し指と中指の位置」なんです。
それを、先生のほうで「どうアドバイスしたら指の位置がよくなるか」を考え、「親指を伸ばせ」というアドバイスになったんです。

そう、この場合、アドバイスの内容が、本来学ぶべきことを反映していないんです。

生徒側で逆探知する視点がないと、「先生に教わり続けたらうまくなるが、独学できない」ままです。
家に帰って1人で練習するときも、それがなぜかをわからずに親指を伸ばすんですね(もちろん頭なんか使わなくても、問答無用に言われたことを忠実に何も考えずにやるからこそ伸びることもあるから、先生に言われたとおりやるだけじゃ上達しない、とは言いません。ただ、それだと独学力は伸びないよという話です)。

「これってなんのためにやってるんだろう(どうなればいいということになるんだろう)」

という問いを、何か体験するときに持っているというのが、独学力の基点となります。

料理でも、本や料理番組で載ってたやってたとおりに機械的にやるだけだと、独学力というか、自分の身についた料理スキル・勘どころみたいなものは伸びないですよね。

「ここではまだ醤油は入れません。最後に入れます」
「はじめは強火でいいですが、溶き卵を入れた後は弱火にしましょう」

などと先生が言ったとしたら、「それはどうして?」と常にツッコミが入るようでないとダメなんです。

ようするに自分の頭で考える、ということなんですが。

(そして、自分の頭で考えたからといって『先生の言うことに反抗的になる』のとは違うんです。どうしてだろうと思ったり、こっちのほうが先生が言うことよりいいんじゃないのかなといった意見は持つけれども、忠実にロボットのように振る舞ったほうがいいなら振る舞える、という状態でレッスンを受けるのが(独学力が伸びるかはひとまず置いておくとして、その分野を習熟するという意味では)一番上達が速い気がします)

■自分の状態変化をメタ認知する

自分を他人事みたいに客観視する能力をメタ認知と言うらしいですが、これも独学力では欠かせません。
自分が可愛いからえこひいき、などを一切せず、今の自分がどういう状態にあるのかを把握するわけです。

ある漢字を覚えるとなったとき、

・とにかくその漢字を10回、書く
・部首や漢字の成り立ちを確認しながら、イメージを膨らませつつ、1回、書く
・ただ本に書いてあるその漢字を見るだけ

など、方法はいろいろあるじゃないですか。

で、それをやってみて、

・すぐ後に正解を見ないで書けるか
・3日後は覚えていたか

など検証するんです。

学習に適した方法や学習能力自体、伸びたり退行したりするもので個人差があるわけですが、今の自分は何をするのにどんな方法が得意・不得意なのか、どのくらいの学習ができる(またはどのくらい時間が経つとどのくらい忘却する)ものなのか。学習を継続して、単位時間あたりに自分が覚えられる量や記憶の正確さは向上しているかどうか……のデータを把握しておきます。

そして、学習を継続してたとえば数日、○週間、○ヶ月……と経ったとき、どのくらい変化しているかを見るわけですね。
で、一定期間以上、自分をメタ認知してそれぞれの時点でのデータを比較できれば、あまり向上が見られないなら学習方法を再検討するなどの方法が考えられるわけです(この比較検討&望ましい推移でない場合にどう舵取りを仕切り直すか、などを考えられるようでないと独学力は上がりません)。

このメタ認知ができないと、

「あれー?授業は聞いてたし、宿題もちゃんとやったけど、テストで間違えちゃったー。なんでだろう。悔しいよぉ」

というだけで延々と伸びないままです(そしてその状態が一定期間以上続くと『これが私の標準。限界』と自分のアイデンティティとなっていってしまう。低い時点でアイデンティティ化すると、その状態を自分らしいと認識して外れようとしなくなるから、つまりは伸びるうえでの足枷になる)。

また、経験則でだけメタ認知すると、ある意味ではほんとに独学すぎて能率や効率が悪いので、たとえば「エビングハウスの忘却曲線」など既存の理論や、「だいたい一般的にいって、人はこれをするとこのくらいのデータになる」という平均値などを、本や他人の話などで知識として仕入れておくとよいかもです(情報の信憑性があるかないか、どのくらいあるかには慎重になったほうがいいかもですが)。
(チェロを習ったとき、私はこの『世間一般の常識、平均値』をあまりにリサーチせず自分のデータだけをメタ認知しすぎたため、着実な上達には繋がったかもしれませんが、世間一般のペースよりかなり上達が遅くなってしまったようなところがあります。そのあとで『いわゆる普通の大人が趣味でチェロを始めた場合、始めて○ヶ月でこのくらい弾けるようになるもの』という情報を知り、衝撃を受けたら、単にそれだけで自分にハッパをかける形となり、いい意味でお尻に火がついてメキメキ上達していきました)

ちなみにメタ認知には、ノートつけが役立ちます。

何をどのくらい、どうやったか。その結果、どうなったか。

よく手帳というと「予定管理」のほうにばかり目がいきますが、やった結果を記録し、「振り返る(≒記録しっぱなしにしない)」というステップが最重要になります。

ちなみに、スポーツジム通いをしている人は無数にいますが、何年通ってもしっかり汗をかくほど運動しても、体格は変わらないし運動機能も向上しない(≒体力が以前のまま)人が大勢います。
こういう人は、何かのメニューをこなすことしかしていない人です(単なる健康維持のため運動の習慣を続ける、というならべつにそれでもいいのですが。それすら続かない人よりは全然マシではあると思います)。

トレーニング理論を学び、(できる限り理論上のぞましいとされる方法で)実践し、(持ち上げた錘の重さや自分の体格のサイズや体重などのデータの)記録をつける。

そうして、自分がしたトレーニングが目的達成(ダイエットやパンプアップ、あるいは○kgの重さを持ち上げるといった体力向上etc)に向けて有効なものだったか、それとも苦労したわりに効果が出ていないものになってしまっているかを検証するわけです。
で、改善の余地があるとしたら、どこがいけなかったかを、(自分の勝手な想像だけで考えても正解に辿り着けない可能性が高いから理論やマニュアルなども参照しつつ)振り返り、改善案A,B,C……とたてて、実際にやってみて、また効果を検証します。で、BよりもA案のほうがよさそうだ、と思ったらそのままA案を実行に移して……というふうに、最終目的達成まで妥協せず、「Plan(計画)→Do(実行)→See(効果検証)」を繰り返す、と。

ここでは肉体トレーニングを例に出しましたが、勉強でもなんでもそうです。
どの範囲をどんな方法で何時間学習して、学校の小テストや参考書での理解度チェック、模擬テストなどの成績がアップしたかを見て、学習が本当に効果的なものになっているかを常に常に、ウォッチし続け、改善し続けるわけです。

■「できる、できてる」状態の把握→できない状態からできる状態になるための道筋を探る視点

はじめに挙げた2つはクリアできている人のほうが多いですが、たいていここでコケます。

たとえば英語。

自分が今、何を勉強しているかは把握しているとして、どんな方法を採るとどんな成果が出せるか(例:どんな方法だと英単語を覚えやすいか、1日に何個くらいまでなら覚えられるか、何日復習をしないとどのくらい忘れるかetc)をメタ認知するのはできるとします。

が、「そもそも、英語が話せる人は何をどうしているものなのか」が把握できていないと、目指すべき到達点もないのにマラソンを走ってるようなことになってしまいます。

できている人の頭の中がどうなっているかは、よほどでないと(≒霊視などのスキルが発達していないと)容易ではありませんが、たとえばどのくらいのスピードで答案を埋めていくとか、ある問題を解くのにどのくらい時間がかかっているか、どんなスピードで話しているかは秒数などの客観的な指標で把握可能なはずです。

ペーパーテストでいえば、できている人の解くスピードより自分が遅いならば、目指すべきはひとまず「できている人と同じスピードでテストを解くという作業の実現」ですよね。

これをさらに細かく見て行くと、

・英文を読むスピードが遅いのか
・英文を読むスピード自体は同じでも、正誤判断に時間を食うのか

など自分の改善点が浮き彫りになります。この具体化ができるかどうかが学力向上できるかどうかの分かれ目といえます。

そしてさらに「英文を読むスピードが遅い」のが、デキる人との差がついている原因らしいぞ、とわかったら今度は

・そもそも日本語など「わかっている」ものでも、とにかく「読むのが遅い」のか
・英文に出てくる知らない単語の個数が多いため意味がわからず、いちいち躓いて遅いのか
・単語はすべて知ってるが、英文を読むスピードが日本語文を読む場合より遅いのか

など、さらに詳細に分解していきます。

どこまで詳細に分解すればいいかというと、

「具体的に対策を講じられるところまで」

です。

「じゃあどうすればいいの?」

という案が出せるところまで最低限、分解する癖をつけないと独学力があるとはいえません。
(だって、自分がそもそもどこをわからないのかがわからなかったら、対策のしようがないので)

そして実際に、対策の案を出して試行錯誤してやってみたり、勉強法を説いた本を読むとか優等生に相談するとか学校や塾の先生に聞いて「この弱点を克服するためにはどうすればいいのか」を探ったり、アクションを起こす。あとは自分のメタ認知に立ち返って、講じた対応策が有効なのか、あるいは努力しているわりに成果が出ていないのか(≒対策の方法を再検討するのが有益なのか)を考えます。

■なぜやるかの動機確認、コンフォートゾーンを出る勇気、トライ&エラーを繰り返す粘り強さ、できるまで続ける執念

このへんでいきなり精神論になりましたが、独学するうえでの最大の敵は、「義務や強制としての力もなく、叱ってくれる他人もおらず、自分の意志だけが頼り」になることです。

いつでも「やーめた」とできてしまうんです。

だからこそ、「なぜやるのか」の動機確認は大事です。

ほとんどの場合、「べつにやらなくても死にゃあしないよ」という言い訳?厳然たる事実?が最大の障壁となります。

ある意味、余裕がある境遇で生きている人だと、どうしてもやらなければいけない動機は「無い」ままのことが多いです。
(そういう人は、何かをできるようにしようとそもそも思わないほうが、精神衛生上、幸せな人生を送れるだろうからそれでいいと思います。べつに周りが努力してるからとか、自分がダメ人間の気がするからなどといった気の迷いで、妙なことに時間と労力をかけて人生を浪費する必要はありません)

個人的な意見ですが、子供や若い人のように意味も無くハイテンションに熱中しやすい人生ステージにいる人ならまだしも、大の大人だったら
「これをできないままでいる自分が、死ぬほど嫌。できないままでいるなら死んだほうがマシ」
というくらい思い詰めないと、たぶん何かを変えるなんて夢のまた夢、だと思います。

それこそ、今のままでい続けると考えたときに「嫌ァーーーーーー!!!」と絶叫して周りのものをすべて破壊してまわる、くらいの何かがないと、やれないと思う……んですがどうでしょう。
(べつにそこまで思い詰めなくても、たとえば遺伝などで何かを気負うことなく楽しみながら実現していく、という行動特性が備わってる人もそこそこ以上にいるっぽいんですよね。素直に羨ましいと思います)

動機は何か、は、頭で考えても育たないようなところがあり、植物の生長を待つしかないようなところがあります。
いま動機が成熟してないな、と思ったら、頭では「はやくやりたい」と思っても、(その段階で迂闊に始めると、やり始めた後に飽きるか容易に挫折するかして、『挫折したからもういい』となってしまうことでその分野を極める可能性がかえって潰えてしまうなどの危険性があるなら)やらないという決断、忍耐力も、それはそれで必要なのではないでしょうか。

コンフォートゾーンについては、苫米地なんとかさんの本とかでもよく書かれてるので、そのへん読んで「あぁ」と思っとくといいと思います。
現状のコンフォートゾーンを抜ける、変えるのは、トシをとればとるほど難しくなる印象。
どんなに「たやすく努力するってこんな感じ」みたいな感覚を呼び覚まそうが何をしようが、いざ実際にコンフォートゾーンを出るときのあの恐怖、不安、つらさ、生理的不快感はハンパないです。たとえそれができるようになるという喜びを伴っていても、たとえばそれまでテストでいつも45点をとっているのが普通だった人がいきなり90点超えを連発、となると、嬉しさと同時に焦りというか、「自分の居場所じゃないところに引きずり出されてきてしまった」テンパりがありそうなもんですよね。そのとき、気恥ずかしくなったり、慌ててパニックを起こしたりして、「元いた場所に戻りたくなる」んです。
これ、すごーーーーーーーく危険。でもあるし、挑戦が成功するか失敗に終わるかの分かれ目でもあります。
度胸をもって「そうよ?これからはこれが私の、普通!」と胸をはれるようでないと、コンフォートゾーンは変えられません。

トライ&エラーについては、泥臭い経験を嫌がらずに積んできてるかどうかがでかいかも。
やってみて、玉砕して手痛い思いをして、さらに周囲からは笑われて……というさんざんな体験をしたことがあるかどうか。しかもそれがトラウマになってもう何もできない、というような弱虫状態に陥っておらず、何回コケてもズタボロになってもめげずに繰り返す根性を“培えてる”かどうか。(←これは『培う』ものです。『私、生まれつきそういう根性ある性格じゃないからぁ〜』という人いますけど、生来のものじゃないです。生まれた後で後天的に、経験を通じて獲得するものです)

とりわけ日本人は「出来が悪いくせに完璧主義」の人が多く、これに当てはまってると大変なんですよね。ようするに1回なにかをやってみて、完璧にできないとやめてしまうんです。
(でもって、それがアイデンティティになってると、意地でも『私って、完璧主義だからぁ〜(失敗する可能性が0.1%でも見込まれることは、決してやらないのよね〜)』のスタンスを崩しません。そういうスタンスでいたい人はそもそも、何かを変えるとか向上させること自体を放棄して諦めるほうが幸せな人生を送れると思いますよ)

失敗したとき、失敗してしまったことを恥と捉えるか。それとも、結果としては失敗に終わったけれど、「やってみてどんな感じがするものなのかのデータがとれた。経験値が積めた。だから、どうしてダメだったのかを検証することができる。失敗は成功のもと」と思えるかどうかなんですよねー。
恥と捉えて終わると、ほんとにもう、その失敗した行動は、その人を惨めにさせる以外のなんの意味も持ち得ない汚点で終わってしまうんです(それでいいのォ〜?)。

最後に重要なのは、「できる」ことを怖れないこと。できるまでやること。
これ、コンフォートゾーンを変える(できないのが普通なのを、できるのが普通に変える)のにも関連しますが、

「頑張ってはみるけど、できなくても仕方ないよね(迂闊にできちゃうと、今度はまた『成功してアタリマエ』とか『できる人に対する周囲からの期待、それに応える責任』とかがプレッシャーになってきちゃうから、できないでいたほうが安心かも)」

という誘惑はとてつもなく強大です。

そこに呑まれないかどうか。
(これもやっぱり、経験で酸いも甘いもドンと来い!的な度胸を“培う”のが、遠回りに見えて結局のところ、一番の近道というか、唯一の手段のような気もするけど、どうなんでしょう)

あと、「やればできる」と思えるか、「やってもどうせ自分なんて」と思ってしまうかは思考パターンが現実に何かを上達させ、成功に導くうえでの影響が大きい印象です。

小さい頃から小さな成功体験を積み重ねてこられた人は有利ですが、そうでなかったり、それどころか失敗だらけとか貶され続けてきた、という人は、いかにその過去の経験で根付いてしまった信念体系を変えていけるか、がまず関門になってくるのかもしれません。

……と、雑〜に独学力なんて偉そうに語ってみましたが、

ラクしてちゃっちゃとうまいことやらかそうなんて思わないで正攻法で頑張って挫折やりきれる根性があるかどうか

が一番でかそうですね。
(うわ、まとめまで雑。読んで損したわ〜。こんなくだらない記事を読むのに費やした私の時間を、人生の一部を返して〜、って、そんなん言われても知らんがなー!!←どうした!?)
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