肉体の統治から始めるトリニティ

三位一体(トリニティ)って、いろいろなにかと大事というか、それこそが真実、みたいなところあるじゃないですか(雑)。

宗教的哲学的に「トリニティとは何ぞや?」と探求していくのもいいですが、身近なものとして、肉体があるやん!と思い至ります。

だいたい人間の肉体は左右2つがワンセットになっているもの。
目も、鼻の穴も、手も足も、乳首やお尻など肉体は真ん中を基点に左右一対ですよね。
口は1つだけれど、中央から左右対象に歯が並びます。
性器でいえば睾丸や卵巣もそう。というか、性別だって(もし細かい性同一性障害や同性愛、遺伝子的な突然変異と分類される両性具有などといったカテゴリをあえてこの場合は考慮せず原則だけでいうなら)男と女の2つでワンセット(子供は必ず男女の合一により生まれる)です。

で、たとえば利き手ばかりを使っていると肉体の筋肉疲労や骨格への負担が左右均等でなくなり、それに伴って体内電流やそれにより生じる磁場といったものも乱れて、肩こりや内臓機能の低下……などさまざまな不調に繋がります。

つまり、2つで1つのものを与えられておきながら、片方だけに偏ったり、左右がバラバラに勝手な動きをしていると駄目なようにできているわけです。

これはまさにトリニティ。2つ対極にあるものの中央で均衡をとる、その姿。

これがつまり、この宇宙の根源の成り立ちである3つの因子(で構成されるトリニティの神聖幾何学的な形&エネルギー)から派生したものなわけですね。

2つのように見えて、3つ目ははじめからは示されない。目に見える形では、出てこない。
与えられた2つの均衡により生じる(明らかになる)、見えない、存在。

うーん、象徴的。

まぁでもそんな小難しいこと考えないで、2つで1対の肉体をうまいことバランスをとってこの物理的現実社会で日々を生きることそのものが、人間の頭では理解も想像もできないところで、なんだかんだいってトリニティという概念の修得に役立ってるっぽい(と信じてみる、というのも一興では)。

よく、「私に与えられた使命は何でしょう?」と、霊的に壮大なことをイメージして言う人いますけど、そんな絵空事みたいな抽象的な、あるかどうかもわからないことを気にするくらいなら、まずは今回、神様から両親を通じて貸与されたこの肉体を、大切にメンテナンスしながら使いこなせるようになってみる、ってのはどうよ?と個人的には思ったりします。



余談ですが、「肉体に自由を与えてはいけない」という話、ご存知でしょうか?

「えっ?自由を認めない?それってスピリチュアル的に駄目なんじゃないの?自由意思の尊重って、大事なんでしょ?」

的な困惑、しますよね。

でも、ちょっと待ってください。

もし、細胞1つ1つが独自の自由意思を持っているとして、本来与えられた役目を放棄するような「自由意思に基づく行動」をとったら、どうなっちゃうと思いますか?
(たとえば、心室細動なんかがそうです。心臓の細胞のうち1つ以上のいくつかが、脳を通じて与えられる命令としてのリズムに反して、独自のリズムを刻みはじめてしまった結果があの症状なんです。他の細胞のリズムとのズレが、心室細動を引き起こし、すぐに処置しなければその人が死んでしまいます)

肉体の自由意思の発露としてもっともわかりやすいのが、癌です。
本来与えられた細胞としての役割を放棄して、「自分らしく自由に」生き始めた細胞の1つの形が、あれなんです。

「それなら私は癌に自由になってもらうために、この身を捧げる」

と思っちゃいます?

うーん、できればここは「肉体はむしろ、自由意思を認めるんじゃなく、完全に意思により統御されたほうがよい」と思ってもらいたいところ。

犬は放っておくとワンワン吠えて自分がリーダーだと威張りちらしますが、どうやら本能的にはストレスが溜まるらしいんですね。自分がリーダーだと言いたがるわりに、動物的本能というか本質としては、主人に絶対服従することで、その服従していられる有様にこそ、本当の安らぎを見出すもの(という在り方の属性を体現する種)として存在してるらしいんですわ。
肉体の個々の細胞もそれと同じようなもの、と思ってもらえると、いいんですが、どうでしょう?それでも肉体の細胞に自由意思を認めますか?
(もし認めたとして、それをしている自分は尊い正しいことをしているという満足を本当に感じられますか?感じられたとして、それって霊的な真実に根ざした満足なのでしょうか?それともどこかで霊的な真実から逸れた個人的思考による思い込みなんでしょうか?)

自由意思なんて言うと小難しく感じるかもしれませんが、単純に、肉体の現状のほうを主人として考えて、自分の人格的なほうの意思がそれに追従する、と考えるとどうでしょう?

疲労したから、もう動けない。
老化したから、どんどん弱る。
風邪をひいたから、悪化するにまかせる。
怪我をしたから、治らなくて仕方ない。

……と、なりませんかね?

もちろん、怪我や病気の回復には、物理的生理的には肉体の自己回復能力の発露を待つしかないというのは(もし超感覚ヒーリングなどを例外として考慮しないなら)常識として、あるでしょう。

が、その自己回復能力さえもが、気の持ちようというか、意識の持ち方、もっといえば意識というエネルギーの作用を通じて細胞各所へもたらされる統治の実現が、早めたり強めたり弱らせたり怠惰にさせたりする、ともいえそうです。

会社の経営者が「従業員のヤル気がないから仕事が終わらなくて質も低いんだ」と正々堂々と愚痴ってたらどう思いますか?
従業員の現状のヤル気のなさのほうを主人として、そこに経営者が追従してるなら、それってもはや経営者じゃないじゃん、とか思いません?(そこを自虐的に『代表取り締まられ役』などと表現する経営者もいますけどw)

それと同じなんです。人格的な意識での意思による肉体の統治の実現こそが、実は健全な在り方なんです。
(ヨガは肉体をあれこれ動かしたり特異なポーズをとったりするほうがクローズアップされますが、あれって要は、肉体を意識が統御することを修得するためのプロセスとしてやってるみたいなんですよね)

自分という肉体を、完全に支配できるか。肉体に反発されず、肉体のいま現在の限界(運動してない人が急に運動するとすぐ息切れするとか)のほうに負けてしまうのではなく、「こうなってほしい」という在り方(フルマラソンでも走れるようにする、など)のほうを優先して、実際に肉体を変えていけるか。

しかもそれが、片方の腕や脚だけが強いとか、全体のバランスはとれてないけどここだけは強い、というような偏りなく、なにかと2つで1対のこの肉体をバランスよく、均衡を保ったうえで、それができているか(つまり、それこそがトリニティ!)。

小難しくない。単純なシロモノ(でも奥深い)。そんなふうに、日々を生きてみたら。

どうっすかね。やっぱそんなのくだらない、とか思う?(それもアリですよね〜♪)
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